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英國最近の繪畫に就て
英吉利に於る繪畫界の最近の事に就て少しお話しをいたさうと思ひます。
英吉利には例の如くナショナル・ガラリー即ち國民畫堂といつて宏大なものが倫敦にある、で古今内外の名畫を隨分澤山に蒐めて居る、佛蘭西のルーブルに比べては劣るといふ人もあるが、而し倫敦には倫敦の特色があッて、其の繪畫の排列方などについても、特殊の工風を凝らしてゐる、兎に角世界で二番とは下らない大畫堂の一つである。そこで尚この畫堂の外に今一つテート・ガラリー即ちテート畫堂といひましてテートといふ人の寄附に成ッた、國民畫堂の支部の如きものがある、其方には最近の繪畫ばかりを集めてある、で倫敦などへ一寸見物に行つた人などが、往々國民畫堂の方ばかり見て、テート畫堂を知らずに歸る人があるが、愚かな話しでせう、英吉利に於る最近繪畫の大作を見て置かなければ、英吉利の畫を能く見たとはいはれない、それで此二つの畫堂は展覽會で價値の定つた模範的の傑作しか収めないが、此外にもまだ小い畫堂又は陳列所で、古いものなどの中々好いものを集めた所も澤山あります、例せばウォレース・コレクションズといふ陳列所の中の繪畫部に於る近世の佛蘭西畫なぞは、國民畫堂のよりも勝れて居るといはれる位でありますが、而し英吉利繪畫の壯觀は國民畫堂及テート畫堂に於て其大體を窺ひ知る事が出來まする。而して斯樣に立派な繪畫を年々撰り出す展覽會であるとか、油繪協會展覽會であるとかいふやうな者が其主なるものですが、就中ローヤル・アカデミーに對して有名であり若くば尠くとも過去に於て有名であつた展覽會はソサエチー・オブ・ブリチシュ・アーチスツ即ち英國美術家協會の展覽會でせう。
で前申したローヤル・アカデミーは今から丁度百三四十年前に創立せられて、帝室保護の下に隨分時としては不公平な處置もあつたのでせう、ソコで夫から五十年ばかり經てこれに反抗して起つたのが即ち右にいつた英國美術家協會展覽會である、此方もローヤル・アカデミーと隨分激しい競爭をした後遂に帝室保護即ちローヤルといふ名を冠することを得る展覽會になつたのです。
英吉利の繪畫の特色といへば景色畫であるとか、亦は水彩畫であるとかいふやうに一般に認められて居ますが、それと同時に肖像畫も却々勝れたものが昔からある、これは畢竟寫實的といふやうな風格が總じて英國文藝の間には從多くあるが爲め、自から斯樣な方面に傾き易いのかもしれぬ、而しそれと同時に例へばターナーの荒れたる海の景色畫等には寫實といふ域から脱して、作者の非常に強い感情そのものを之に寄せたといふやうなものもある、亦たレーノルヅの「唱歌團」即ち天使の圖であるとかいふやうな理想的な畫も隨分勝れたものがある、これらは過去の事であるが、現在に下つては例のラファエル前派の衰へて以來、寧ろ寫實的、就中肖像畫などが一時全盛を極めて居ました、で其頂點を示して居る人はサーゼントでせう。此人の出世作といはれる畫は今から二十年ばかり前に描いた「カーネーション・リリー・リリー・ローズ」といふのであつて、其年のローヤル・アカデミーに大喝采を博したものである、これは友人なる或る畫家の家で二人の少女が提灯を點して花園で遊んで居た、それを見て感興が浮かんだので、續てニ三夜これと同じ景色を繰返さして貰つて、それを寫した畫である、でこれが七千圓ばかりに購はれてテート畫堂に收められたので、此畫なども單に寫實的といふよりも餘程リゝカル――即はち抒情的といふ趣のある好い繪である、即ち花園の……日本でいつたら夏草の露しとゞなる中に二人の可憐な少女が日本のブラ提灯を點じて少女の一人がそのブラ提灯[#「ブラ」に傍点]を手に持つて上から窺いて居る所、周圍の青み凉しみの勝つた景の中心に赤い提灯及其提灯の火の光りの反射した顏といふやうな取合はせで、確か少女の衣服は白であつたと思ふ、就中提灯の赤い色の出し方などが普通の赤さでなく、一種味ひのある赤みが出て居る、これは中心に全幅の景色が如何にも觀者の魂を其の中へフウワリ[#「フウワリ」に傍点]と浮び込ませるやうな味ひである、で斯樣な畫も描くが併し此人は現時では英吉利第一の肖像畫家で、同時に世界のニと下らぬ肖像畫家である、獨逸のレンバハなどと并稱せられ、確か獨逸の皇帝も此人に頼んで肖像を描かしめられた事があつたと思ふ、私の英吉利に居た間のローヤル・アカデミーの展覽會でも此人の描たチェーンバレン夫人の肖像などは善惡ともに尤も世評の集まる焦點であつた。
それで此人の肖像畫風は、例のダッチ・スクール即ち和蘭派の肖像畫の系脈ともいふべきで背景其他の全體を極黒ずんだ力と重みを專一にしたやうなライト・エンド・シェードの使い方である、又近世肖像畫の泰斗といへば西班牙のワ゛エラスケスも其一人であるが、サーゼントはツマリ[#「ツマリ」に傍点]尤も此人などに私淑して居たので、皆要するに相通ずる所ある畫風です。サーゼントの描た肖像畫を見ると、其肖像そのもがキャラクタリスチック即ち特色的であると同時に、其手法が亦た非常に強い特色を持て居つて、展覽會に出た或肖像畫を美術眼の無い普通の觀者はまだ完く出來上つて居ない畫かと思つたといふ樣な話もある、要するに肖像畫といへば、たゞ寫眞のやうに其人の顏に似れば能いといふだけなれば、既に寫眞を以て足れりであつて是れ以上に似させるといふ事は出來ないのであるが、若しこれを美術にしやうといふには其寫される人の特色が能く捉へられ、説明せられてあると同時に、畫家自からの特色が亦た其中に出て居なくてはならぬのである、これはいふまでもなく凡ての文藝に通じてさうであるが、サーゼントの肖像畫なども右兩面の特色が現はれて居る、そこが此人の一代に傑出して居る所以である。
次でに此人の癖を一寸申して見ますと、此人は寫すべき人を向へ据へて肖像を描くに最初の間ニ三度は必ずムダ[#「ムダ」に傍点]をさせる、又た筆を執つて其人の前に立ても氣が進まないと筆を抛て洋琴などを彈き始めて、自分の氣分が恢復して來てから取りかゝるといふ風で、隨分これに不平をいふ人もあるさうでありますが、而し結局何程面倒な思ひをしても此人に描て貰へば一代の名譽といふので、立派な人達が盛んに此人に肖像畫を頼むのでありませう又た此外にリヰ゛ーァであるとか、オーチャードソンであるとか、ハーコマーであるとか、ウォターハウスであるとか、シャンノンであるとか、彼の地で有名な畫家は數へ切れない程ありますがローヤル・アカデミーの會頭であるのがポインターといふ畫家であります、此人に就て一寸お話しいたしませう。
本來の此人の畫法はどちらかといへばクラシカル即ちやゝともすれば形の勝つた方の、いはゞ整然とした畫風であつて、それと同時に亦た題目も希臘物を取るのであるが、近年サーゼントなどの風にかぶれ[#「かぶれ」に傍点]て肖像畫などを隨分描いた、然るに最近恐らく世間の種々の風潮などに感じたのでもあるか、又ローマンチックとクラシカルとの中間のやうな題などを描きました、ニ三年前の展覽會に出した「暴風雨の女神の窟」などは、即ち其例である、而しこれは餘り評判がよろしくなかつたゝめに、又た今年の展覽會などには多く純粹な希臘的題目を撰びました、此人の外にアルマ・タデマといふ大家がある、これは又た非常に綺麗な小い幅の繪の名家でありますが、ニ三寸四方の中にあらゆる色の寶石を鏤めたといふやうな畫風であつて、繊巧美麗といふ方では、まづ其頂上を示した畫風でありませう、一ニ年前の展覽會に出しました繪など、それは例へば美しい女が恍惚として大理石の石垣の前に立つて眺めて居る、下は同じ磨き上げた大理石の石甃の眞中に池をたゝんで、其池には金魚が碧い水を透いて見えて居る、これを一とつの小幅にしてあるので其色の配合からいひましても、線の取合はせからいひましても、優美でそして唯もう綺麗であるといふ事は想像が出來るでせう。序に言ひますが、此人は元とベルギー人で、英國に歸化したのです。
以上の畫家はローヤル・アカデミーの正會員であるが、其外一層新しい即ち補助會員であるとか、亦は全く會員外から出た人であるといふ部類の畫家にも隨分勝れたのがあります。
また近年物故した畫家に就て一言陳べて見ますと、先づホイッスラーとワッツとが最も大なるものでありませう、ワッツは一方にラファエル前派、印象派の消長をも凡て經過したと同時に、所謂ネオ・ヴェネシアン即ち新ベニス派の畫風を興した畫家であつて、即ち昔の伊太利のチゝヤンなどが描りました跡を趁ふて、特に大幅の壁一杯のやうな所謂壁畫風の繪を描きました、で壁畫風である結果は強い大きな鮮な色を使ひこなすのに非常に特色を有つて居る、一寸茲に壁畫といふ事で思ひ出すが日本畫といふものを壁畫風としての研究といふ事は面白い問題であらうと思ふ、さてワッツは其畫風が壁畫的であると同時に、其題目も所謂寓意畫若くば宗教畫の部面に屬しまして、これで一代を風靡したものである、がそれが近時の寫實的風潮の爲に一時稍蔽はれて居た、然るに此三四年以來亦々大に理想的若くば寓意的といつたやうな畫風が盛り返して來かゝつて、今更のやうにワッツを説く者も出て來たのです、此人は地位からいつても年齡からいつても、英國畫家の第一流でありましたが先達て亡くなりました。
前申したテート畫堂へ行つて見ますと、特に大きな一室が此人の畫ばかりで充たされて、ワッツ室といふのがあります、此人の繪で尤も有名なのは「希望」と題するもので、地球の上に一人の人が目かくしをして腰をかけて居る、即ち希望は盲目なりといふ心から思ひついて種々の深い意味を其中に籠めたのであります、盖しワッツの主義はかの一派の人等が唱へた、美術の爲めといふ主義に對抗して、美術は必ず人を教へ導くといふ宗教の如くならざるべからずといふ立脚地に起つたもので、此畫風が最近時に於て再び世人に注意を惹く樣になつたといふ事は、以て世の風潮の一斑を察するの材料になるでせう、尤も此畫風繼承者としてはバイアム・ショーなどいふ人がありますが、到底ワッツほどの大作は出來ないのであります、たゞ現に去年の展覽會などにでもデスパイズ・エンド・レゼクテッド・オブ・メン即ち人間に嫌はれ退けられたりといふ題目で出た宗教畫が、非常な注意を惹いたなどいふのも、幾らか此同じ傾向に關係したものではないか、勿論所謂宗教畫即ち宗教的題目を畫くものが目今の時勢で再び大に行はれようとは考へられないのであるが、兎に角肖像畫風のものに飽きたといふ氣味のあることは事實でせう。而して上に言つた繪は中間に基督が十字架にかゝつて居て、其周圍を種々なる種類の人がこれに對して或は惡み、或は笑ひ、或は冷淡といふやうな樣々の表情をして過ぎ行くといふ圖柄であります。 それからワッツと共に前に名を擧げて置きましたホイッスラーはニ三年前に死んだのであるが、同じくワッツと相對すべき大家で之はラファエル前派の中から出て、寧ろインプレッションニスト即ち印象派の或る部分をも取り入れ、就中日本畫の影響を澤山に享けた人である、此人はかの一時美術批評界の泰斗として仰がれたラスキンと不和であつて、それが爲めに一層名も世間に知られた人である、寧ろ其不遇な地位にあつた爲め、ローヤル・アカデミーに入ることが出來ず、爲めに自から反抗的態度を取つて、故意に其繪をこれに出さなかつたのであります、でそれがためテート畫堂などにも此人の繪は一とつもありません、却つて佛蘭西のルクサンブールの畫堂などに此人の名畫が殘つて居ります、英吉利でも其人の死んだ今日始めて此人の繪を畫堂に入れようと焦つて居ります。ラスキンと不和であつたといふのは、今から四十年許りも前の事、ホイッスラーの繪をラスキンが評して、こんなに只繪の具を公衆の前に廣げてそれで繪といはれるならば天下何物か繪でないものがあるぞ、といつた意味の非常な猛烈な攻撃を加へたので、ホイッスラーも頗る怒つて遂に裁判沙汰になり、ホイッスラーは一ファシング即ち日本でいへば文久錢一文の損害要償を受けた。是等の事實がホイッスラーをして一層有名ならしめた一理由であらうが、兎に角老熟に及んで、此人の畫風が其昔のマンネリズム若しくは癖から脱化して、一派をなすに到つたのは爭へない事實である、例へば色をボンヤリ[#「ボンヤリ」に傍点]となすつて、其中に自から川向ふの市街を見せたり、山を見せたりする其外凡て色の使ひ方に特色を有つて居る、これが尤も多く佛蘭西の印象派及日本畫から享けた影響なのでありませう、其外此人の描いたものには日本に關した題目のものもありますが、それらは風韻があればあるといふものゝ格別好い繪とも思はれません、此の人の描たもので尤も一とつは其母の肖像で、これは今巴里のルクサンブールの畫室にかゝつて居ります。
此外ラファエル前派の末及印象派の末、ポインチリストの事などに就ては其中に亦た陳べる機會もありませうと思ひます。(明治三十九年談話筆記)
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