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獨逸現代の音樂家
歐羅巴現代の音樂家、音樂指揮者に付て一言して見るに、歐羅巴の音樂といへば尠くとも現今までの形勢では獨逸が矢張り中心である。從つて歐洲の音樂家といつても、自然獨逸の音樂家の事になる譯であるが、無論我々は自から音樂が奏れるでもなければ、其方面に深い素養があるのでもないから、單に一般感美の上より門外評を加ふるのである、音樂も矢張他の藝術と同じく、原理に依り、規則に依り、技巧工夫に依つて、到達し得るものには或る制限があると同時に、其制限を超越すれば其所は到底説明の出來ぬ、いはば生命の源といふやうな點があるに違ひない。これを音樂を奏する者に付て見ると、特に西洋音樂の於いては、前に樂譜を据ゑて置て奏るのであるから、其譜を讀む事と指を動かす事とを學びさへすれば、誰でも其樂譜に書き出してあるだけのメロデーなり、ハーモニーなりの形式は出せる譯であるが、然しながらそれは眞の骨組または型に過ぎないのであつて、其中心となつてこれを活すもの即ち音樂の眞の妙味の方面は此外になくてはならぬ。恰度我々が字を書いても定つた字であれば、其形ちだけは誰でも同じに書き得るが、其字の良否、生死の區別は、到底其字の點の數や劃の數の説明の出來るものではなく、いはば筆者の精神がどれ位其字の中に流れ出て居るかといふ點で、其字の生死が決するのと同じ理窟であらう。即ち同じ一つの音鍵を敲いても、甲の人と乙の人の敲く刹那、其人の胸の底から發して指の先に傳はる其精神の工合で、同じ度の同じ音色の音でも違つたものになる。况んやそれが複雜な長短高低種々の音の結合上に現はれるに於ては、到底我々の知識力で分解し盡す事の出來ない微妙な精神の發現が、其那裏になければならぬ。而して此精神表現の模様が、奏せられたる音樂の生命であらうと思ふ。
而してかの西洋音樂の樂團に於ける指揮者(コンダクター)といふ者の司る所が、即ち此精神、生命の發揮といふ事であるやうに思はれる。幾百人の樂手が集らうとも、彼等は皆それ/″\前に樂譜を据ゑて居る、且つそれ/″\平常の稽古も積んで居るのであるから、譜さへ同じであれば何も指揮者は要らない譯であるが、それにも拘はらず諸君の知らるゝ通り、西洋樂團には中央に一段高く臺を構へて、概して聽衆の方に脊を向けたる一の樂長が、起立して指揮杖を盛んに打振り、兩手を躍らせてこれを指揮して居る。あの指揮者が非常に重要な位置を占めて居るといふのは、畢竟樂手の精神を指揮者の精神に統一して表出するの必要があるからであらう。いはゞ樂團の精神生命の塊りが指揮者である。
單に歌手または彈奏手吹奏手としての大家は別として、現時獨逸で最も大なる音樂家、音樂指揮者は――指揮者となるには當然樂手としてまたは作樂者として、先づ樂團を心服せしむる程の高き位地に上らなくてはならないのであるが――例へば先年までヴヰーン[#「ヰ」は小文字]の帝室オペラのデヰリゲント[#「ヰ」は小文字]即ち指揮者たりしハンス・リヒター、また現にライプチヒ大學の音樂教授たるアルツール・ニキッシュまたはベルリン帝室オペラの指揮者たるカール・ムック、または同じくリヒャード・ストラウスなどは尤も著名なものであらう。
リヒターは、今は確かハレの音樂會の指揮者であつて、またリヒター自からの大きな音樂會なども組織せられてある、英吉利へ獨逸のオペラ季節が終つて後獨逸から第一流のオペラが渡つて來る時などは、よく此人が其指揮者となつて來る。ニキッシュは、折々ベルリンなどへ出て大音樂會を指揮する。ムックは、今も帝室音樂を專ら指揮し、またストラウスと共に年々のベルリンの帝室オペラを交代して指揮して居る。然し今茲に專ら話して見やうと思ふのは、此最後に掲げた一人たるストラウスに就てゞある。
ストラウスは一八六四年の生れで、まだ壯年であるが、渠が作樂家としての地位は、人に依つては獨逸第一と判定する人すらある。此人がデヰリゲント[#「ヰ」は小文字]としての得意はワグナー物、就中其ツリスタン・ウント・ヰソールデなどであらうと認められて居る。此人の作つた音樂が英吉利の公衆に殆んど初めて價値を認められたのは恰度私の彼地に居た頃即ち兩三年前の事であつたと記憶する。當時の批評に依ると、此人の樂風はつまり十九世紀末の時潮を遺憾なく發揮したもので、例へば感傷多恨にして情に富んだ所は、或る評家が呼んで音樂會に於けるシエリーといつた如き調子あると同時に、斷えざる精神の不安、懷疑、煩悶に合せて一種の冷笑的滑稽的の所を加へたものといはれて居る。其作のフォイエルスノート其他一ニのオペラを除いては、專らシンフォニー音樂で、其主なるものはチル・オイレンシユピーゲル、トート・ウント・ブエヤクレールング、またはアイン・ヘルデンレーベン、またはアルゾー・シユプラツハ・ツアラツーストラなどである。中にも此最後のもの即ちツアラツーストラは、かのニイチエに落想を得たもので、曾て渠がロンドンへ來た時に尤も熱心に奏でたものはこれであつた。此音樂に於いても渠が思想をそのまゝ音樂に打ち出さんとする力、又音の激越なものを好んで使ふワグナー式のところ、又其一種佛教的悲觀の調子と呼ばれた調の中に、人生の形骸に包まれて居る精神が、赤裸々のまゝ形骸を破つて突き出んとする趣を寓したる等の特色は能く現はれて居ると評せられた。或る評家のいつた如く、ワグナーが感情の人間を音樂にしたとすれば、ストラウスは思想の人間を音樂にせんとして居る。批評家のいふ所に從へば、此ツアラツーストラは先づ單純な音を以て大自然を謠ひ、それから進んで人間の靈魂の偉大なる追慕、憧憬および其歡喜悦樂の情熱を歌ひ、而して高遠なるツアラツーストラが青年の歌に及び、延ひて靈魂の煩悶憂愁より生ずる知識の問答(フユーグ)に及ぶまで、原詩の高大なる精神が歴々指摘せられる程に調べ出されて居るといはるゝ、然しながら一方には殊に英吉利であるからして之れに慊らず思ふ批評家もある。渠等はまたストラウスが時代精神病から脱出して、更に大なる音樂家とならんを望むといふやうな事をいつて居た。兎に角渠は前途尚長いから今後如何に發展するかは、世界の注目する所であらう。終りに臨んで、渠が當時英吉利の新聞記者と論じた事柄の中に、渠の美論ともいふべきものがあつたから、其大要を拔て置く。
渠曰く、音樂には絶對的の美とか、絶對的の醜とかいふものは無い。美とは畢竟自分が眞に感じた事を眞に發表するの謂である。畢竟藝術は爲し得るだけの力があつて、それを十分に成し遂るといふ所に生ずるものである(クンスト・コンムト・フオム・ケンネン)。從つて美の理想といふものは漸次に變じて行くもので、今日美と感じたものも明日は美とならざる事がある。例へばワグナーの音樂にある不諧音の多くの如きは、最早今日の我々には不諧音と感ぜない程になつて來た。また日本人や埃及人等の喜ぶ所の音樂は、我々の耳には唯雜然たる騒がしき聲なるに過ぎず。されば音樂家は、要するに自分の思ふ所を如何にして十分謠ひ出し得るかと苦心すれば宜いのである。我々の思想を觀照する所に生ずる感情をば、音に現はす、其力のあるものが即ち音樂家である。といふのが即ちストラウスの音樂論の大要である。(明治三十九年談話筆記)
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