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講 話
英國の尚美主義
是れから述べますのは英國尚美主義の話でありますが、尚美主義はまた唯美主義、審美主義とも譯しまして、英語のイーッセチシズム Aestheticism がそれです。即ち美といふ事を中心として一切の事を判斷するものです。無論この言葉の中味は複雜であるが、それは話して行きますと解つて來やうと思ひます。兎に角美を尚ぶ、美を人生の中心と觀るものと解して置いて差支は無い、尚ほ英國の尚美主義といへば更に一層限られたものとなります。元來尚美主義は歐洲の他の國たとへば佛蘭西などにもあつた。それを茲では特に英國と限る譯です。さて私が此話を思付いたのは一つは此主義が日本現時の社會の種々の状態と餘程通ずる點があるからである。例へば日本の文壇で新體詩に星菫主義といふものがあつた。それから近時は社會全體に渉つて高襟《ハイカラー》と云ふものがある。是等に通じた一種の傾向が英國の尚美主義と餘程よく似てゐる、面白い對照であらうと思ひます。假に英吉利のイーッセチシズムを高襟主義と譯したら此れに附帶して種々の對照類似がそこに出て來る。例へば當時英國で尚美主義と盛に戰つた反對派をフヰ[#「ヰ」は小文字]リスチン(Phillistine)と呼んだ、是れがちやうど日本の道學先生といふ言葉に當る、又同じく尚美主義の人達が同じく盛に使つた言葉でヴァルガー、ハード(Vulgar herd)と云ふ言葉がある、此れは日本で云ふ俗人原または蠻カラ黨に意に相當する。此等の言葉が當時の論壇に盛に使はれて互に鎬を削つたものである。要するにイーッセチシズムは英國の高襟主義といふことが出來ませう。高襟主義は日本では今の事であるが、英國にては丁度今から二十年乃至三十年許り前、即ち丁度一千八百六十年頃始つて、七十年八十年と二十年許りの間が尚美主義全盛の時代に當つてゐます。面白い事には凡て文藝上、社會上の新しいムウヴメントの本場は佛蘭西と云ふのが常であるが、此尚美主義の運動の起つた前後には却て平生おとなしい英國に種々の新運動が起つた。何々イズム、阿々ムゥヴメントと盛に新氣運を起さうとしたものである。夫の宗教上のオックスフォード、ムゥヴメントまたは繪畫上のラファエル前派など皆それで、ついで一方には尚美主義の運動が起つたのであります。先づ活氣のあつた時代で、これは前申す如く一千八百六十年頃から八十年頃迄の事柄であつた。
さて此主義が如何にして起つたかと云ふ話に戻りますと――斷つて置きますが、之は英吉利のウヲルター[#「ヲ」は小文字]、ハミルトンと云ふ人の書いた書物を土臺にし、他の書物を參考として調べたのです――此派の運動はノルドオの説によると夫の佛蘭西のボドレア、今から丁度四十年許り前に死んだ詩人が本であつたらしい。此詩人が死ぬと同時に恰も昔アレキサンダア大王の死後諸侯が其領土を爭つて分け取つたやうに、此大詩人の崇拝者が四方から起つて惡るい善いの見境なく其の特色を諸方から模傚した。此等の詩人以後尚美主義に及ぶまで乃至其後までを引くるめて[#「引くるめて」に傍点]ノルドオはデカダン即ち時代末詩人若しくは頽廢期詩人と謂ふ。即ち文明と云ふものが時期を限つて進み行くうち先づ一期の文明が頂點に達すれば爛熟して腐つて潰えんとする。而して之に新文明が代らんとする場合には先づ其爛熟した文明を破ると云ふ必要が出て來る。此種不安の時代は即ち頽廢期である、時代末である。
元來デカダンと云ふものは必ずしも佛蘭西に限らない、飛んで伊太利に往つては惡魔の歌を書いてデカダンの風に感染したと言はれるカルヅッチがある。獨逸は割に少いが英吉利に行つては殆んど此風潮の支店が出來た。それは即ち此の尚美主義である。斯樣にイーッセチシズムは佛のデカダンの別派とも見られるが一番初に之に感染した人は詩人のスヰンバーンであるといふ。但し斯く尚美主義を佛の思想に本づかせるの當否は別として、實際スヰンバーンが英吉利に於ての此の運動の元祖であることは明かだ。そこでノルドオは例の猛烈な筆法を以て此等の人を罵つて、神經衰弱、墮落者、無暗に神經がつて、不思議がつて、高尚な事を云つて、無暗に道徳に反抗する、罪惡を悦んで書く、肉の喜びや劣等の事を讃美する、惡魔主義、墮落主義であると口を極めて嘲つた。ノルドオは前の如く觀たのであるけれども、英國の尚美主義と云ふものが果して直接に佛蘭西から來たのであるかどうかは暫く別として、是れが一方英國の夫のラファエル前派運動といふものを父として來たものであることは明かである。即ちラファエル前派の續きが尚美主義である。系統は左樣であるが、主義其者はと云へば大に變つてゐることも認めねばなりません。
元來此ラファエル前派運動といふものは御承知の如く當時の若い畫家彫刻家詩人等が六七人集つて、英國文藝界の現状に滿足せずして、就中繪畫の方を中心として一種の新運動を起したのである。歐洲繪畫の本元は人も知る如く伊太利であるけれども、彼の伊太利繪畫の黄金時代たるラファエル。ミケランゼロ等の出た頃から段々繪が完成すると共に種々の型や法則が出來て、後人はたゞそれを手本とする許り、次第に自然と遠ざかつて仕舞つた。我等は自然を手本にして自然に立還らなければならぬ、所謂リターン、ツー、ネーチュア主義でなくてはならぬ。それには古伊太利のラファエル以前の畫家の態度が慕はしいといふ所からラファエル前派と名のつたのですが、是が丁度千八百五十年頃即ち尚美主義より十年餘り早く起つたのです。其時の人々は夫のロゼチの外ホルマン、ハントとかミレーとかいふ連中であつたが、其の主義は前いふ如く自然に還れといふ自然主義であると同時に、又寫實主義も含まれて居り、濃厚な感情主義も含まれてゐた。中にも寫實主義自然主義と感情主義とは矛盾した性質を有つて居るもので、斯やうに不統一な主義であつた爲でもあらうが、此派は當時は餘り成功し無かつた。千八百五十二三年頃には早くもちりぢりばらばらの姿になつてしまひました。而して其の一人たるロゼチは自分獨自の傾向を追うて專ら感情的方面に特色を發揮することゝなりました。無論種々の特色も他にあるが、濃厚な情緒といふことが彼の畫や詩の中心の特色であつた。斯くて或時彼は當時の學問の府である處のオックスフォードに招かれて繪を畫きに行きました。すると平常から彼を崇拝して居る一ニの學生がやつて來た。その人々はウイリヤム、モーリスと云ふ美術家、スヰンバーンと云ふ若い詩人などで、是等の人々がロゼチの餘風を逐うて一つの團體を組織した、是が即ち尚美運動の端緒である。
人によつては種々な人をまで此の尚美運動の圈内に入れやうとしてゐる。例へばブラウニング。テニスン、亞米利加のホイットマン、獨乙のワグナーまでも引き入れる。斯うして見ると十九世紀後半の文學者は尚美主義に入ら無い者はないことになります。是れは餘り擴げ過ぎたものであるが、兎に角十九世紀後半を通じて當時の文藝家で多少此の風潮に染まぬものは無いといふ氣味であつたのでせう。そこで一體尚美派と云ふものはどう云ふ事を主張するのであるかといふに、先づ其の特色といふものを見ると、詩では概して言葉が綺麗で繪のやうで叙述が繪の樣、すなはちピクチュレスタで、インテンス即ち感情の濃厚と云ふ事を生命としてゐる。濃厚の感情は一方には動もすれば事物を誇大にする結果、其の産物が◯飾的浮華的になるを免れぬが、詩にあつては調子が音樂的な綺麗なものにもなる。
此尚美主義が始めて世に出た時は非常に世間から攻撃を受け、爾後引きつゞいて二十年間四面楚歌の聲といふ形勢で嘲弄攻撃の矢表に立つてゐた。併し是れは主義そのものゝ特色といふよりも他に理由があつたのでせう。さらば斯やうに英吉利のやうな大人しい國の論壇に訴訟沙汰となる騒しい論爭を惹き起こした理由は何であるかといふに、全體此の主義の人々はどんな連中であるかといふに先づ前に云つたウイリヤム、モーリス、此人は裝飾美術の專門家で、今日歐洲の壁紙の裝飾模樣などは多くモーリス式であります。此の方面に革新を起こした人で、又詩人でもあつた。次は同じく前に云つたスヰンバーン。其の外ではオスカー、ワイルドといふのが最も注意すべき人で、此れは詩人であつて詩も散文も書いて居ります。併し此人の尚美主義に於ける立場はむしろ實行者といふ點であつた。そこで先づ此のオスカー、ワイルドの尚美主義に下した定義といふものを見るに、第一、藝術は藝術みづからを目的とする。隨つて第二には藝術は人生、自然、思想などいふものに頼ることなし。惡藝術は此等を目的とする所に生ずる。總べて此等のものは一旦藝術の型に入れて始めて妙がある。第三に較もすれば人は藝術が人生を模すると云ふが倒樣である、人生が却て藝術を模するものである。人間は本來模倣性を有してゐるから一番美しい形式を以て自分の感情を表すものである限り、人間が其の目的とか乃至其の他の感想とかを表はす場合には藝術を眞似てこそ最も都合の好い譯である、といふに歸する。隨分思ひ切つた當時一般の風尚に對する反抗主義であつたのです。同じく人生を描くにしても成るたけ現代を離れるがよい、現在自分の痛切に感ずることは非藝術的である、といふのです。斯樣な主張を以て居ることが世間一般から極端な邪論として罵られる傾を以てゐる外、オスカー、ワイルドに前にもいふ如く此の尚美主義の實行者であつた。此れが亦少なからず世間に對して戰を挑んだ事になる。例へば彼れは着物からして變へて、審美的衣服と名づけたものを着た。我々の美の感情を滿足せしめるには普通に着るやうな無趣味な俗なものではいかぬと唱へて、昔に歸つて、中古風俗の色のけばけばしいものを着た。又向日葵や百合の花、此のニ箇の花はどう云ふものだか此の派の人に氣に入つたと見えて、外出の時は襟か胸に屹度百合の花か向日葵かを挿した、此等の花は此派の目じるしとなつた。又孔雀の羽根を卓子の上に置くとか、或は手に持つて行くとかして、之も此派の標象となりました。或は道學先生や俗人原を驚かして遣るといふので、ペルメルなど云ふロンドンの盛んな場所を此の風俗で錬りあるいた。どう見ても狂氣か、さもなければ氣障な奴といふ風であつた。要するに奇矯を衒つた氣味であつたのが、少くとも反抗を受ける一箇の理由であつたのであります。其外日本で云へば奈良朝式とか、平安朝式とかいふやうな好みで、家などをも裝飾する、今の家は殺風景で俗でいかぬといふ所から、中古形の裝飾などを施し、ちよつと器具に彫刻をするにも必ず楔形、菱形といふ一種特殊の好みでなければ滿足せず、窓には繪硝子の古雅な物を用ゐ、古い陶磁器などを無暗に集めて、室内をさも/\おれは趣味があるぞといふ風に飾る、之が却つて普通の人にはやりすぎ、いやみといふやうに感ぜられた。斯くて二十年程も冷嘲熱罵の中に過ぎて、千八百八十二三年頃に及ぶと、世間も攻撃に憊れた氣味、又尚美派自身も世に揉まれて温和になつた。
さて此の主義の世に與へた効果はどうかと云ふに、少くともスヰンバーンのやうな一代の大詩人も是から出るし、又モーリスの畫力は竟に英國のみならず歐洲の室内裝飾に變革を來たし、之を高上せしめた。是等は尚美主義の賜であります。此主義が攻撃せられる最中の状態は隨分烈しいものであつたらしい。英吉利の文壇も百年前には今日の日本などゝ同じく隨分人身攻撃もやつたものであるが、近年すつかり論壇の調子がおとなしくなつて紳士的になつてゐる。そのおとなしい文壇が尚美主義を中心として一時非常に猛烈な喧嘩をやつて大波瀾を起して來た。中にも夫のロバート、ビュカナンは先達て死んだ人であるが、此人が反對派を代表して、啻に尚美運動のみならず、類似派と見られたラファエル前派までをも盛に攻撃したのです。其の結果遂に自分から裁判沙汰を起すに至つた。彼れビュカナンは先づ、スヰンバーンが詩集を出した千八百六十五年頃にスヰンバーンを猛烈に攻撃した。「詩人の會合」と云ふやうな詩を書いて、それでもつてスヰンバーンを嘲弄したのである。或倶樂部で文人が會をしますと、ゲーテもテニスンも來て居りました其席に、スヰンバーンも矢張り遣つて來た。二十ニ三歳の壯者が髮を長くして蒼い顏をして遣つて來て、それで氣〓[#「焔」の異字体]を吐いて狂氣の如く道徳はくだらない[#「くだらない」に傍点]ものである、眞理とか神とかいふものは一向信ずるに足らぬなどゝ廣言を吐く、一座皆驚いて白けて了ふ。座長の計らひで其壯者を外に出して了つたが、此の下鄙た壯者が即ちスヰンバーンであるといふ意味の人身攻撃でした。次にはラファエル前派のロゼチの攻撃をやつた。之は有名なもので、ハムレットの芝居の役割にあてゝ此等の人を嘲つたのです。またロゼチ。スヰンバーン等の作風をビュカナンはフレッシュリー、スクール(Fleshly school)即肉體的感情許りを歌ふ派である、無暗に肉がかつた事を書くものであるから怪しからんと云ふ意味で專ら道徳的の見地から攻撃した。要するに當時の道學先生側のチャンピオンとして立つたのであります。所が前のハムレットの役割其他にも動ともするとビュカナン自らが、匿名でありながら自分をば立派な詩人のやうに評して、自分で自分の名を善い席に据ゑるなどの事をした爲に、文壇からはビュカナンも非常に批難せられた。斯やうにして辯難攻撃が新聞や雜誌の上で交換せられ、尚美派側ではスヰンバーンなども惡戯をしてビュカナンを嘲弄し、遂にビュカナンから名譽れ回復の訴訟を起すに至つた。其の他一方では滑稽雜誌ポンチが一時盛に尚美派を嘲り、また此頃英國でやかましい「ミカド」オペラの作者が「ペーセンス」と云ふオペラを作つて同じく尚美派を題にし、同時に倫敦に二箇所の劇場で大當りを取つたなどいふ状勢でした。
以上述べる如き事實が即ち尚美主義といふものゝ中には、凡そ三點の注意すべき箇條がある。即ち第一は、ビュカナンの所謂肉感的といふこと、第二は藝術は藝術みづからの爲と稱して思想道徳の凡てから獨立しやうとすること、第三は情緒の強いのを主とし自己といふものを餘りに明かに掲げ出さんとすること、是れであります。肉感的といふことは、ビュカナン等が考へるほど絶對に惡いことではない。肉と愛とを餘りに分ち過ぎる舊來の理想説はたしかに事實を逸したものである。併し無暗に肉の聲を聞かせすぎて嫌惡心を刺戟するのも無論弊でありませう。ビュカナン等は專ら道徳的見地のみから藝術を限らんとしたものと見られる。併し此相對した見方の矛盾は何時の時代にもあります。又第二の藝術は藝術の爲といふことには、通例二種の意味がある、即ち一は藝術を道徳眞理等に對せしめて、之れから獨立するといふ意味と、一は藝術中の技巧を内容から獨立せしめて技巧即ち美と見る意味とであるが、併し此ニ樣の解釋も根本には通じた點があつて結局、美といふものは眞理や善徳やの助を藉りずとも、みづからとして目的があるといふに歸します。たゞ其美といふ場合に技巧のみを取るか、今少し廣い意味にするかといふだけの差です。此の主義を尚美派は一層極端に持つて行つて、人世最高の支配權は美にあると見んとした所が道徳派の反抗をを招いた所以でありませう。美は宇宙人生の最高現象、少なくとも其の一であることは疑もないが、それで實際生活を支配せんとするには弊がある。夫の美的生活といふが如きものは、文藝の範圍に始終すべきものを實際生活の上に濫用するより生ずる一種の悲劇でありませう。次に第三の自己の發揚といふこと、是れにこそ重要の意味がある。盖し當時動ともすれば科學的精神の勃興につれて客觀のために自己といふ主觀が埋没し盡されんとする、之に慊らずして埋没したる自己を掻き起こさうとしたのが即ち此の主張である。而して此の際自己を代表するには情緒の熱烈なる發動の外途がなかつた。所がそれもやはり例の極端に行つて情緒の熱烈は誇張となり奇矯となり遂にオスカー、ワイルドの如き人を出して一擧一動みな自己の廣告と見られるやうな事をする、ノルドオの所謂|自己狂《エゴーマニア》となり了つたのであります。
此の自己主觀を先とする見解と、一方の客觀を主とする寫實的自然派的見解とは、是また由來容易に相合せざる一大矛盾でありますが、私の即今ひぞかに考へてゐる所では、そこに一道の解釋がある、一言にて掩へば主觀の我はたゞ生命となつて一切の事象を客觀の指圖に任せ、そこに主客兩體の融合を見出だすといふ如き妙道を求めるのでありますが、是れは到底茲では述べつくせない。一つの纏まつた思想であるから他日を期するとして此の話を終ります。(明治三十九年講演筆記)
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