目次

 

「五人女」に見えたる思想

 

 

 

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    イブセン小傳

 

      (一)

 

イブセンの生國諾威はあの通り歐羅巴の北端に位して、寒海の風濤おのづから沈欝の氣を誘ふ國柄と思はれる。イブセンは其の南方の小都會スキーンといふ所で千八百二十八年三月廿日に生まれた。

千八百二十八年といへば、欧羅巴の天地は、佛蘭西革命の後を受けて、社會萬般の事が、夕立の跡の青田のやうに、新たなる生氣に充ちた時代である。恰も英獨佛の諸國には、所謂十九世紀の新文藝が勃興して、獨乙のゲーテは死前僅に四年であつたが、ワグナーは十六歳の英兒として、五年の後にオペラの新天地を開くべき運命を荷つてゐた。佛蘭西でユーゴーが始めて成功したのも、英國でテニズン。ブラウニングが始めて出たのも、皆此の前後である。而してイブセンと魯西亞のトルストイとは正に同年齢で、佛のゾラは彼れよりも十二歳の年下、獨のニイチヱは十六歳の年下である。

諾威が獨立した近世の政治歴史は千八百十四年に始まれども、其の久しく丁抹の制御の下に荒廢し去つた自國語、自國感情が再び文藝に獨立するまでには時日を要した。されば此の國の十九世紀文藝の夜明けは、千八百四十年代であると稱せられる。更に中古の文學に溯れば、所謂古エダ(Old Edda)の民謠に於ける、サガ(Saga)の傳説に於ける、皆當時始めて此の地方に現はれた諾威民族の思想感情を寓したものである。さればイブセンが初期に於いて取つた題材には、此のエダやサガを本としたものが少なく無い。さて十九世紀の諾威文學は諾威のシラーと稱せられる、ヴェルゲランド。乃至ヴェルハーヴェン等の名によつて獨立の基礎を固くし、以て十九世紀の後半に及んだ。十九世紀の後半は即ちイブセンによつて此の國の文學が欧羅巴の覇となつた時代である。

イブセンと同時代の文星として、彼れに次いで顯著なるは言ふまでもなくブョルンソンであらう。丁抹の評論家ブランデズ氏の言に從へば、イブセンの欧羅巴的時代精神を發揮するものに對して、ブョルンソンは諾威の國民的精神を發揮するものである。

イブセンの少時は、凡ての方面に於いて不如意、窮乏の生涯であつた。十六歳の時には出でゝ藥劑店の徒弟となり、尚進んで醫師とならんとの志望から、大學に入る準備を始めた。併し廿三歳にして入學試驗を通過した時は、彼れは早や當初の目的に對して熱心も失せ、また學資も十分には得られなかつた。

同じ千八百五十年彼れは始めてブリニョールフ、ブャールメといふ匿名の下に三幕物の悲劇『カチリーナ』を公にした。此の作は僅かに五十部(或は三十部ともいふ)を賣り得たのみであるが、併し其の中に彼れが革命的精神は已にあらはれてゐたと評せられる。此の作を懷にして彼れはスキーンの町を辭し、志を齎して首都クリスチアニアに來た、そして大學に這入つたのである。

當時大學に於て同氣相交つたのが前に言つたブョルンソンの外、ヴヰヌヱ[#「ヰ」は小文字]。ボッテン、ハンセンなどいふ青年氣鋭の人々で、此等の一群は相謀つて文壇に新旗幟を樹てんが爲め『アンヅリムナー』(Andhrimner)と題する週刊の文藝新聞を出した。それが千八百五十一年の事であつたが、九ヶ月許りで廢刊した。英の批評家ゴッス氏は之を以て夫のラファエル前派の人々が始めて新文藝を唱へんとして發行した雜誌『ジャーム』(Germ)と同じ不幸の運命に陥つたものと評してゐる。『ジャーム』は今は倫敦の博物館内の圖書館などに貴重書の内として保存せられてゐるが、右の『アンヅリムナー』も今では容易に見當らぬ珍籍となつてゐるといふ。

イブセンが此の雜誌に書いたものには『ノルマ一政治家の戀』と題する三幕の音樂的悲劇があつて、傳記家ヘンリック、イェーガー氏によれば、注目すべきものであるといふが、書物にはならなかつた。又同じ頃『勇士の墓』と題する作がクリスチアニアの劇場に上つて、イブセンは始めて兎も角も劇詩人といふ地位を得た。此れが彼れの第二の作で同じく書物にはならなかつた。前の『カチリーナ』も始めは同じ劇場に持ち込んだのであるが、是れは不首尾で、僅に友人の周旋で出版することになつたのである。此の前後のイブセンの困窮は非常のもので、日々一膳飯屋に飢を凌ぐといふ樣であつたと傳へられる。然るに右の『勇士の墓』に其の才を認められた彼れは、一躍して新たに出來たベルゲンといふ所の劇場の支配人になり、そこへ移り住んだ、それが矢張り千八百五十一年廿四歳の十一月である。從つて學校も此の頃に退いたものと見える。

引きつゞいて書いた作には、千八百五十三年の『セント、ジョンの夜』などが著名であるが、併し要するに劇場主宰者となつてより後のイブセンは、餘り得意ではなかつたらしい。其の作の如きも數は可なりあるが、多くは印刷もされず、從つて今日には傳はらぬ。而して此の頃の彼れが作は概してローマンチックな、夢幻的な、どちらかといへばコンヴェンショナルなものであつたといふ。『勇士の墓』には丁抹の戯曲家エーレンシュレーガーの傳奇的な跡を追ひ、『セント、ジョンの夜』にはシェークスピーアが『眞夏の夜の夢』の夢幻的な跡を追うたと稱せられる。其の他抒情的な詩も幾十篇か作つた。またイブセンは此の頃(千八百五十二年)丁抹及び獨乙の劇場視察にも出かけた。而して丁抹の詩人戯曲家にして批評家たるハイベルグなどにも會い、深く自國の社會状態に慊たらぬ感を抱いて歸つたといふ。

ブランデズ氏は『カチリーナ』と後の『ゾルハウグの饗宴』の二篇を呼んでブレンチース、ワークス即ち見習作と言つたが、茲ではむしろ此の語を上に擧げた『セント、ジョンの夜』までの諸作に冠せられやう。言はゞ此等はイブセンが手習の作である。今一度之を列記すると、

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 『カチリーナ』(原名 Catilina—1850)

時代を羅馬に取り、カチリーンといふ史上の人物を主人公として、之れに妾フリア及び妻アウレリアといふ二人の婦人を配す。前者は意志強く野心逞しく、常にカチリーンを煽動し、後者は温和可憐にして、カチリーンに勤めて平和の生活に安んぜしめんとす。而して此の相反せる性格の二女性に挟まれたるカチリーンが反亂を起こして遂に滅亡するに至る根本をば其の壓制を嫌ひ個人の利權を主張する性に歸せしはイブセンが面目を豫見せしむと稱せらる。

ブランデス氏曰はく、イブセンは好んで強く逞しく才能充實せる一男性を中間に立て、之れに一は猛烈にして男らしき性質の婦人、一は柔和可憐にして女らしき性質の婦人の二人を配す。カチリーンを怖ろしきフリアと優しきアウレリアとの間に置けるが如き是れなり。また『ゾルハウグの饗宴』に於いてラグンヒルドとレギッセとの間にグートムントとを置ける、『海豪』に於いてヒョールデヰス[#「ヰ」は小文字]とタグニーとの間にジグールドを立てたる、『ブランド』に於いてゲルドとアグネスとの間にブランドを立てたるが如き皆同じき例なり。云々。

『イブセン著作解説』の著者ポーイセン氏曰はく、千八百四十八九年の匈牙利の動亂はイブセンの革命的熱心を興奮せしめ、千八百四十六年の波蘭土の反亂はイブセンの熱烈なる同情を惹けり。此等の大事件は深く彼れの心を刺戟して其の振動は容易に止まず、遂に何等かの此電力を放散するものを要するに至れり。此の要求を充たしたるものを悲劇『カチリーナ』とす。之れによつて彼れは年來鬱結したる凡ての憤慨を滿さんとせり。暴虐不義の跋扈する社會は破壞し去るを可とす、羅馬大帝國の如き即ち其の例なり、之れを救濟する事能はずんば之れを破却するに如くはなし、といふがカチリーンの意なりしなり。云々。

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『勇士の墓』(英譯名 The Warrior's Tomb——1851)

『ノルマ一名政治家の戀』(英譯名 Norma,or a Politician's Love——1851)

『セント、ジョンの夜』(英譯名 St.John's Night——1853)

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      (二)

 

イブセンが始めて其の手習作の歴史的傳奇的な方面から清書を試みたといつてよいのは、前の作から三四年を經て、千八百五十七年に成つた一團の戯曲である。而して此の年がまた彼れのベルゲン生活の終りであつた。作は、

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『オストラートのインゲル夫人』

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十六世紀の諾威を舞臺とせる散文の史悲劇にして、インゲル夫人が丁抹の壓制を助くる王黨と自國の獨立を謀る國民黨との中間に立ちて己れの私生兒を王位に上さんとの野心の爲に、誤つて其の私生兒を殺し、驚愕のあまり不意の死を遂ぐといふ筋なり。インゲル夫人の性格をシェークスピーアのマクベス夫人に比して論ずるものあり。作の風格は全體に依然としてエーレンシュレーガー等の夢幻劇の脈を傳へ陰鬱の調戰慄の興味を以て貫くと稱せらる。

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『ソルハウグの饗宴』(英譯名 The Feast at Solhaug - 1857)

『オラーフ、リリェクランス』(原名 Olaf Liljekrans - 1857)

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前者はイブセンの作にて始めて舞臺の上に好評を博したるもの、後者は印刷はせられざりしも始めて民謠に材を取りたるものにして此等の點は作者が漸次新時代に移るの端緒を示すものといふべし。但しローマンチックの傾向は此等の作に於いて頂上に達せりと稱せらる。

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この年イブセンはベルゲンの劇場支配人たることを辭して、首都クリスチアニアに歸つた。代つて此の座を支配したものは友人のブョルンソンであつた。

 

      (三)

 

イブセンがクリスチアニアに歸つた同じ年に、ブョルンソンの小説集が出て、之れが始めて明らかに自國民族本來の感情を發揮し、茲に國民文學を喚起するの端となつたと稱せられる。而してイブセン亦た之れに和して諾威の文學を丁抹の勢力から獨立せしめんと努力した。前に言つた中古の傳説サガの中から諾威の民族の眞の聲を聞き出して之れを新なる文學とせんとしたのが即ち彼れの『ヘルゲランドの海豪』である。引きつゞいて『僭望者』に筆を染めたが、事情あつて之れを中絶し、更に有名な『戀の喜劇』を出した。之れがクリスチアニアに引移つた翌年即ち『海豪』の出た年から五年目で其の翌千八百六十四年には前きに書きかけた『僭望者』をも出した。而して其の四月二日彼れは本國を跡にして實に二十七年の流浪の旅に上つた。されば此のクリスチアニアに移り住んでから其の地を去るまでの六年間の一期は、彼れに取つて複雜な意味のある時代で、單に一身上の事件からいふも、之れより先き『海豪』の出た年に、彼れはマグダレーネ、トーレーゼンといふ女作家の娘と結婚した。之が必ず彼れの人生觀に多少の影響を與へたに相違ない。三四年の休息の後に全く從來の作と風格を異にした『戀の喜劇』を書いた所を見ても此の間の消息は推し測られる。また作其のものについて見るときは、此の期は一の過渡時代とも言へやう。評家によつては『海豪』に至つてイブセンは既に在來のローマンチックな作風から脱出したといふのもある。併し一方にはまた之れに同意せず、彼れは此の作乃至『僭望者』に於いて依然として在來のローマンチックな、豪壯奇怪な作風を生命としてゐるといふものもある。獨り『戀の喜劇』に至つては、何人にも其の別生面であることを疑ふの餘地を許さない。

思ふに此の三作中『海豪』『僭望者』とは縱し其の題材結構に於いて、過去のものであり、また傳奇的の趣味は存するとしても、其のうちまた慥かに新代に遷るべき動搖の跡をば認められるのであらう。即ち『海豪』はあの通り國民的自覺といふことに、他の作よりも一層密接の干係を有してゐる。言はゞイブセンは此の作に於いて先づ單純なる歴史的一般感情的の興味から覺醒して、一層自己の本體に近邇せんとしたもの、即ち自國民の過去といふ〓[#「こと」合略仮名]に興味を轉じたものであらう。言ひかへれば、單に漠然たるローマンチックの興味から頭を轉じて、其の中に何物かの意味ある人生を見んとするに至つた。是れなくては滿足が出來なくなつた。所謂自覺の第一歩として、彼れは自國民族といふことに注意を向けたのである。之れに『僭望者』を対比すれば茲には更に別樣の意義がある。ブランデズに從へば、材は單に『アラビアンナイツ』にもあり、エーレンシュレーガーにもあるアラデヰン[#「ヰ」は小文字]とヌレッデヰン[#「ヰ」は小文字]の傳説に過ぎぬが、其の精神は遙かに異つたものである。即ち作者が其の僭望者の一人たるスクーレ王をして詩人と問答せしめる語、

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(スクーレ)我れ王たらんが爲めには如何の天禀をか要するぞ。

(ヤトゲイル)其の疑惑の天禀こそは要無けれ。それだに無くば然ば問ひ窮め給ふまじ。

(スクーレ)我が要する天禀如何にと問ふなるぞ。

(ヤトゲイル)我が君、君には既に王にてましますよ。

(スクーレ)して御身みづからは、此の國の歌人たることに些かの疑も起こらずや。

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といふ所に、近代思想の懷義自覺の一面を表出したものと見て差しつかへはあるまい。『海豪』に國民的ならんとしたイブセンは、『僭望者』に於いて更に片脚を活きたる現代に觸れしめんとした。

而して刊行の年代こそは前後してゐるが當然前二作の後に列すべき『戀の喜劇』に至つては、彼れは全然歴史的といひローマンチックといふ從來の方式を脱し去つて題材精神ともに現代を主とするの途に這入つた。ボーイセン氏曰く、

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『僭望者』は當時作者の心に相競ひつゝありし二つの傾向の爭鬪を現はしたり。彼れの自國史に題材を取らんとする國民的熱心は漸く冷え來たつて近世社會の諸問題が之れに代つて彼れの注意を惹きつゝありしは疑ひもなき事なり。是れその『僭望者』を一時中止して近世的なる『戀の喜劇』に筆を着けし所以なるべし。また彼が人生觀も變じつゝありたり。若き人々に通有なるローマンチックの自盲の夢は次第に覺め來たりて、老熟したる明瞭の觀念漸く之れに代はりたり。云々。

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さもあるべしと思はれる。

イブセンのクリスチアニアに歸るや、千八百五十九年に同志の者と諾威協會を創立して諾威文學の獨立を謀ることに盡力した。ブョルンソンは推されて其の會長となり、イブセンは副會長となつた。又その作『海豪』をクリスチアニア座に提出した時、拒まれはしなかつたが丁抹の支配人の爲に冷過され、イブセンは憤慨のあまり新聞紙で之を攻撃しブョルンソンまた之を扶けて、諾威文學を丁抹の覇約から免れしめるといふ趣意で戰つた。此等の事情よりしてか、イブセンはクリスチアニア座と反對な劇場の支配人となつたが、其の座はイブセンの此の地を去る前に失敗した。斯樣な形勢であるから當時尚ほ勢力を占めていた丁抹黨の多數の新聞紙などがイブセン。ブョルンソンの二人を嘲罵し攻撃することは中々烈しかつたといふ。

イブセンが諾威を去るに至つたのは種々の事情もあつたからであらうが、其の一理由として當時自家の四圍に不快を感じたといふ事は事實であらう。ボーイセン氏が此の間の消息を叙述してゐるのは、之れをゴッス氏の記する所に比するに、稍惡い方面のみに傾き過ぎてゐるかとも察せられるが、面白い節がある。曰はく、

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クリスチアニアはたゞ一の大なる村落の廣がり過ぎたるもののみ。讒誣中傷の巣窟にして、精神的生活の状態は極めて劣等なり。予みづから千八百六十四年より六十九年まで彼の地にありしかば其の頃の社交的風調べをばよく記憶す。十萬の村落民は以て一の都市を作るに至らず。諸事について判斷の標準は卑く小さく偏狭なり。獨乙人の所謂ブロートナイト即ち商賣讐の嫉妬非常に強く、上中下層を通じて競爭者と見れば打ち倒さんとするの慾心盛んなり。勿論淺薄なる教育はあり、また例外の少數家に立派なる人々も無しとは言はねど、大學仲間以外に出づれば精神思想方面の興味は索然として缺乏し、大學内にすら商賣的精神は瀰蔓して、到底我等が倫敦、巴里、羅馬等にて味ひ得る如き、精神上の興味ある歡待、乃至思想美に對する寛宏自由の熱心等、大都市に於ける生活を快くするものは一もあることなし。勿論何所に行くも偏狭固陋の徒は無きに非ざれど、此等の大都市にありては欲するまゝに之れを超脱して思想の軟風爽かに大氣をゆするあたり、高尚なる悦樂の境に入り、男女は商工俗務の爭鬪に累せられざる邊に相逍遥するを得べし。クリスチアニアにては、イブセンの頃は全く固陋の徒より免るゝの途なく、社會の頂より奧底まで此の種の輩を以て充たされたりき。また諾威人は常に熱烈なる黨派心を有し冷靜公平の判斷を文學史上の作品に下すこと能わず。例へばブョルンソンにはブョルンソンの黨與ありてそれらの人々はイブセンを敵とし之れを引き倒すを以て務と心得たり。之れに対してイブセン黨はブョルンソンを目して不當の聲名を得たるもの、國民的に過ぐるものとして批難す。而してイブセン。ブョルンソン各自は與り知らざる所なれども、追隨者の黨派熱を如何ともし得ざるなり。イブセンが此の種の狭隘卑小無益の爭を事とするものに倦み疲るゝに至れるは恠しむに足らざるなり。

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斯くしてイブセンは本國を去つた。其の後彼れが聲名は益々昂つてクリスチアニアの劇場は遂に彼れを迎へて主宰たらしめんとするに至つた。併し彼は歸らなかつた。而して彼れが眞の著作期は此の他國に客となつてゐた間である。

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『ヘルゲランドの海豪』(英譯名 The Vikings at Helgeland ——1858)

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女主人公ヒヨールヂスといふ悍妬にして意志強く愛憎の感情熱烈なる婦人を中心とす。而して之れに對するにダグニーといふ柔しく弱き婦人を以てすること例の如し。さて海豪中の勇士ジグールドは白熊の獵にて勇猛第一の名を博し其の賞として右のヒヨールヂスを得、妻とする筈なりしに事情ありて之をグンナーといふ勇士に密かに讓り、みづからはヒヨールヂスの義妹たるダグニーを妻とす。ダグニーが夫より貰ひて帶する腕輪は實にヒヨールヂスのものなり。然るにヒヨールヂスは其悍妬の性よりして、饗宴中に己が夫グンナーの白熊を獵りて己を得し物語をなさしめ、其の勇に誇りてダグニーの夫ジグルードを辱しめんとす。ダグニー憤りて遂に夫より聞ける秘密を打明け腕輪を示して、實の勇士は我が夫なることを公言す。グンナーも強いられて斷然其のヒヨールヂスを得し次第を白状す。ヒヨールヂスは驚き且つ失望せしが再び悍然として復讐を決意し、我れ死するか、我が愛を賣りしジグールドを斃すか二者一ならざるべからずと叫ぶ。而も尚ほ彼の女はジグールドに逢ひ、今一度己れと奔りて王位を得んと計らずやと説く。ジグールド心動かんとせしが遂に誘惑より逃る。今は是れまでなり殺して我が望を達せんと、ジグールドを射殺す。死に望みジグールドは、己れが既に基督教の新宗教に歸依し居るものなれば、死後といへどもヒヨールヂスとは行く所を異にする由を告ぐ。ヒヨールヂス絶望のあまり深淵に投じて死し、異教の天國ヴァルハラに昇る。盖しワグナーが『ニーベルゲン、リング』に使用せし傳説と相通ずるものなり。

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上に掲げたる圖(之れを省く)は、第一場、ヒヨールヂスが甲冑に身を裝ひ長槍を携へて始めて出場するところである。此の劇は數年前倫敦イムペリアル座にて興行せる者、エレン、テリーの息子ゴールドン、クレーグといふが新案の舞臺裝置に世人を驚かした。此の人の爲す所は、甞て他の雜誌にも述べし如く、舞臺裝置上の一種のローマンチシズムまたはシムボリズムともいふべきもので、結局近時の舞臺裝置の益々寫實的になり行くを非とし、其の以外に於て、實形以上の効果を想像の上に求めんとするのである。例へば此の劇にて第一場ヘルゲランド島の荒磯の物凄き景の如き、岩石と見ゆるものをば一も用ひず、たゞ黒ずんだる深海の色と荒れたる天地の音を聞かせて、光線を凡て鋭く、舞臺の上方の蔭より射下し、之れにも必要なる場合には、物凄き色を染めて、人をして北海の荒れたる島を想像せしめる、要するに色を用ひ圖線を用ひ音響を用ひ、光線を用ひて、盛に空想を刺戟せんとするに外ならぬ。第二場は饗宴の場、これ亦た室の周圍には何物をも具へず唯黒暗々たる背景にして之に時々、赤、青、紫等の光線を射下し、以て果て知れざる不思議の大廣間の如く見せ、其の前面には、篝火を焚き大卓子を据え、之に甲冑綺羅の色さまざまなる賓主が席を占めてゐる。第三場はヒヨールヂスが絃を造りゐる所にて、其の服裝蒼白色、其背後には一張のカーテン掛かりて、是れまた蒼白、而して其の奧には一面に紺青の天空穹見えたゞ一本の緑の大木、浮き彫りの如く立つて、之れに種々の色したるヒヨールヂスが衣服かゝれり。但し斯く盛に色彩をば用ゆれど、其は單に富麗といふ〓[#「こと」合略仮名]を目的とするに非ずして、寧ろ相寄つて神秘、古怪、莊嚴などいふ感を刺戟するを主意とするのであらう。元祿よりも桃山、ルネーサンスよりもゴシックといふ趣を備へてゐる。

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『戀の喜劇』(英譯名 Love's Comedy — 1862)

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是れイブセンが社會を諷刺したる劇の一と稱せらるゝもの、結婚といふことに就いて根本的の疑問を提出したる律文劇なり。スワ゛ンヒルドといふ女とファルクといふ青年文學者と相愛したる二人は、新たに結婚したるスワ゛ンヒルドの姉夫婦其の他友人の夫婦等が或は献身の理想を結婚のために棄て、或は唯金錢打算の人となりて當初の花の如き恋愛は萎み行くを見るにつけ、種々煩悶疑惑の未遂に結婚は却つてファルクが眞の幸福を成す所以に非ずと悟り、斷然女より先づ其愛を忍んで婚約を破り他の富商に嫁せんといひ出で、男も結局之に同意す。女は婚約の指輪を拔き棄て、「これにてわれは君を下界に失ひぬ。是れにてわれは君を永劫に贏ち得たり。」「今こそ我が世は終はりたれ。野に原に木の葉は落ち落つ今こそ我が身は浮世のまゝなれ。」といふ。

此の劇の始めて世に現はれしときは本國批評壇の攻撃は猛烈を極め、無理想不道徳等の語を注ぎかけらるゝと共に、クリスチアニア大學の高き地位にある或る者の如きは、イブセンに手當を給せんかとの議に反對して、『戀の喜劇』の著者の如きは、手當よりも笞杖に値すと激論せりと。

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『僭望者』(英訳名 The Pretenders — 1864)

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イブセンがローマンチックなる作の殿りなり。自信あり地歩ある王子ハーコンと懷疑的にして決斷力乏しく自己の力量をすら信ずる能はずして而かも野心ある公子スクーレとが王位の爭奪を描けるもの、結局ハーコンが王位に即きて、スクーレの爲めに種々讓歩の策を立つれども、僧正ニコラスといふ惡魔の如き姦人スクーレの傍らにありて彼れを煽動し、之れに應ぜざらしむ。而して遂に兵を擧ぐるに至り、敗れてスクーレ父子は民衆の屠る所となる。

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      (四)

 

國を出てからのイブセンは、主として伊太利の羅馬、獨逸のミュンヘン。ドレスデンに居た、その間が千八百六十四年から千八百九十一年まで二十七許りである。千八百六十六年に始めて外國から送つた作が『ブランド』で是れが忽ちにして深大の感動を喚び起こした。此処に至つて彼は『戀の喜劇』から百尺竿頭に轉歩して純然たる歐羅巴近代の思想の最も奧深い所に分け入つたと見てよい。『ブランド』以後のイブセンはおのづから以前のイブセンと面目を異にしてゐる。此の以後の作については、次の諸家の文章が自然之れに言ひ及ぶであらうから茲には單に梗概を列記するに止める。イブセンの生活は此の頃までも尚甚だ窮乏勝ちであつたといふ。然るに此の年を以て諾威國會は彼れに六百弗許りづゝの「詩人手當」を給する事を議決し、其の他著書の版權料等も増して始めて生計上全く自由の人となつた。

其の他彼れの身世に關しては其の千八百七十一年『青年結社』を作つた頃は恰も普佛戰爭の際で、自然彼れは現實社會の諸問題に多くの興味を有したと稱せられる。其の所謂社會劇即ち社會問題を中心とした作は、恐らく此の興味の結果であらう。勿論前期の作『戀の喜劇』が既に同じ傾向をば現はしてゐれど『青年結社』など以後に此の方面が一層顯著となつたと言つてよい。またイブセンは當時の思想界に重きをなす程の諸作物は自己にヒントを得る範圍ぐらゐには讀んでゐたといふ。ブランデズ氏が傳へたダーウヰン[#「ヰ」は小文字]。スチュアート、ミル。アウギュスト、コント。テーヌなどは皆イブセンにもブョルンソンにも影響を與へたと察せられる。イブセンは獨乙語に熟通し、佛伊も一通りは解したれど英語は知らなかつたといふ。

イブセンが『ブランド』以後の作は之れを全體についていふと、凡そ三種に彙類することが出來やう。第一は『ブランド』『ピーア、ギント』『人形の家』其の他の作に於ける如く、道徳問題乃至深い人生問題を如實に取り扱つたものである。所謂自然派的問題文學の最も深奧な域にあるものである。第二は稍淺い現実實の社會問題を取り扱つたもの例へば『青結社』其の他二三の作の如きがそれである。ゾラ等の社會問題的作品と伯仲の間に列せらるべきものであらう。第一種を若し哲理的又は第一義的を名づけ得るなら、此の第二種は社會的または第二義的とも呼び得やう。第三は『海の夫人』『建築師』『我等死より醒めなば』等一種のシムボリズム乃至超自然的な所を有してゐる、言はゞ空靈的な作物である。尚ほ此の三樣の傾向の關係發達を精しく論じたら面白からうと思ふが今は省く。 イブセンが他の諸作家に及ぼせる影響は廣大なものである。現時歐洲の眞面目な社會悲劇は殆ど尚ほ多數イブセン式と稱してよい。英のピネロ、獨のズーダーマン等の過去の作が取り分け明らかに此の影響を現したものであることは、人の知る通りである。イブセンの死は今千九百六年五月廿三日。其のクリスチアニアに歸つて以後の生涯は無論尊敬と平和とを以て包まれ、啻に諾威國の誇りたるのみならず、實に歐米文壇の最頂上に輝く大光明であつた。晩年には歩行視聽も自由ならぬまでに老衰してゐたが、去る七十五歳の誕辰には、ひとりブョルンソンのみは自分の室に通じて閑談したといふ。

彼れの傳記は同國人イェーガー(Jaeger)氏のを以て最も典據的且つ詳密のものとする。英譯もあるが、予の此の傳を作る時には手元に無かつた爲め、他書から間接に之に勘校したに過ぎぬ。評論では、イブセンを最も早く最も大膽明快に歐羅巴に推薦したものは、ブランデズ(Brandes)氏である。英譯では『イブセン及ブョルンソン』と題する書に氏の有名な第一印象第二印象第三印象の評論文が收めてある。又最も早く英國にイブセンを紹介した評論家はゴッス(Gosse)氏で、其の文は論集『北方研究』の中に這入つてゐる。されば參考の爲め下に此の二氏の評論文の一節を抄する。其の他にはウヰックスチード(Wicksteed)氏の『イブセンに關する四回講義』ショー(B.Shaw)『イブセン主義の精華』等、また獨乙にはパッサルゲ(Passarge)氏、佛蘭西にはラメイトル(Lemaitre)氏等が第一に讀まるべきイブセン評傳家である。イブセンの著作はウヰリアム[#「ヰ」は小文字]、アーチャー(W.Archer)氏、ゴッス氏、ハーフォード(Herford)氏等によつて專ら英譯せられてゐる。之れが劇場に上つたことについては、更に書くべきことも多いが、茲には略す。予の見たるは獨乙にて『人形の家』『ボークマン』『民人の敵』英國にて『海豪』等である。獨乙劇場に於ける『人形の家』に關しては巖谷小波氏が筆を執られるから、予は英國劇場に於ける『海豪』に關して其の梗概の條下に舞臺裝置の事を述べて置いた。尚ほ英國ではイブセンの劇は通常の興行では餘り多く出さなかつたと見える。ツリーが『民人の敵』を演じた外は、倫敦の劇場で普通の引きつづいた興行にイブセン劇を出した例は右のエレン、テリーの『海豪』を始めとする。マーテルリンク。ズーダーマン。ブョルンソンにまで手を出した、パトリック、カムベル夫人すら未だ一回もイブセンをば演ぜぬ。特殊の興行では、エリザベス、ロビンス嬢の『ロスマースホルム』『ヘッダ、ガブラー』『建築師』、チャールス、チャーリントンの『人形の家』等が主なるものであるといふ。

 

      (五)

 

イブセンが第一の知己にしてイブセンの發見者ともいふべきブランデズ氏がイブセン論の重なるものは、千八百六十八年に書いた「第一印象」千八百八十二年に書いた「第二印象」、千八百九十八年に書いた「第三印象」である。されば典據的イブセン論の例として下に其二三節を抄譯しやう。

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(第一印象の冒頭)ヘンリック、イブセンの名が主として丁抹の讀書社會に知られしは反抗的なる二作によりてなり。此の二作必ずしも同程度の作にはあらざるべきも、而かも其のイブセンの性質は非常に健鬪的なりとの感銘を世人に與へざるを得ざる點は一なり。『戀の喜劇』にては美と詩との爲めに、『ブランド』にては道徳と宗教との爲めに、イブセンは戰を宣したり、而して現存社會のあらゆる規定に反して戰はんと發足せり。攻撃の的はいふまでもなく特に自國諾威にありき。此等の作の眞價如何は暫く論ぜずとするも、吾人は斯くして茲に一人の詩人が厭世の眼を以て現代の人世に注視するを認むべし。但し厭世家といふも、其は哲學的詩歌的意義の厭世すなはち單に人生現存の缺陷に對して發する悲哀瞑想といふが如きものに非ずして、此等の缺陷を擯斥し憤慨するの道義的性質を有せる厭世なりき。彼れが事物の暗黒なる方面を觀察するの習ひは、彼れをして第一に反抗的ならしめ、第二に苛烈性ならしめたりと。

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厭世悲觀の人に單純なる受動的瞑想的と進んで之を如何にかせんとするの發動的道徳的との二あつて、イブセンは寧ろ後者に屬するとした所が、注目に値する點である。而して斯の如く現社會の制度と矛盾する邊に眞理を觀て其の衝突を描き、延いて眞理そのものゝ破滅を描く。ここが彼れの厭世的絶望的なる所以である。『ブランド』の主人公の強大な個性も遂には勝者たり得ずして亡びる。『戀の喜劇』のファルク。スワ゛ンヒルドも、眞の愛を幾分たりとも成さんが爲めには現實の世界から半ば亡びねばならぬ。『我等死より醒めなば』のルベル。イリーネも眞理の爲には風雪の山腹に埋もれねばならぬ。要するに眞理の支持者は常に悲劇である、偉大なる、併しながら絶望的なる煩悶努力である。イブセンは究竟此の悲しき事實を描き此の不可解なる問題を提起して、其の奧に如何の解釋を具してゐたか。是れは何人も先づ聞かんとする疑問であらう。ブランデズ氏は是れに四つの答えを掲げた。

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第一、社會が餘りに深く堕落して、之れを引き上ぐるに由なきの致すところか。第二、眞理の支持者そのものが同じく不義罪惡の渦中に立つて之れを救わんとするがためか。第三、眞理といひ美といふものは唯々一時に映ずる光にして一たび地に觸るれば消ゆるの性なるが爲か。第四ヘンリック、イブセンの詩人的精神に何物かの偏見雲かゝりて好んで人生を不具に描くの結果なるか。但し第四ならば其はイブセンの本然の底に何等かの陰鬱激烈なる、必至の性あるに由るべしと。

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此の四ヶ條の内、第二については多く言ふを要すまい。蓋し如何なる眞理の把持者といふとも、獨り全く現社會の外に立つて事を成すことは出來ない道理である。強いて之れを成せとなら、それは結局下界では出來ぬものといふの第三の箇條に歸して了ふ。されば今ま殘りの三點について批評を試みんに、第一、社會の堕落といふも、現當の社會が到底眞理の力で救ふことの出來ざる程に堕落したものであるなら、過去の如何なる時代に於いてかの社會は救はれ得べきもの、隨つて樂觀せられるべき者であつたらうか。若しさやうの社會が過去にも無く、将來には勿論現出さする方法が無いとすれば、歸するところは社會といふものみづからを根本から破り棄てざる以上、眞理は到底安全に實現することが出來ぬといふに落ちる。即ち社會破壞の精神に歸するのである。

ブランデズ氏に從へば、イブセンの個人的向上は、果然彼れをして一切既成の國家社會といふが如きものに反感を懷くの已むを得ざるに至らしめたといふ。

さらば斯くして社會を破壞し去つた跡の人生は何であらうか。此の問題に達すれば、論は自ら移つて、第三の箇條たる、眞理は到底地上のものに非ずといふ解釋に歸する。イブセンは果して、此の世を以て所詮眞理の安全に現ぜらるべき場所に非ずとしたであらうか。此の説に近い見解を持する人の一例は、『戀の喜劇』『ブランド』等の譯者ハーフォード氏である。氏は其の譯書の序文に於いて、イブセンの戀愛の自由は結局此の世以上に超脱すること、即ち肉界を逃るゝことによりて始めて全くせらるべきものであると解した。此に至ればイブセンは樂天的厭世觀に到達したものである。現實の世にあつては、人は啻に社會國家のみならず、人生そのものをも併せて破却するの外は無い。現世に對しては厭世である。併しながら眞理は其の後に於いて全うせられるといふ希望を持つてゐる、樂天的たる所以である、不可解若しくは無光明を以て最後の解決としてゐるものでは無い。さて斯くの如き解釋は、イブセンが思想の傾向から自然に來たるべき哲學であるが、イブセンみづから如何なる程度まで此の種の結論を意識してゐたかは尚ほ研究の餘地ある問題である。之れに對して、少なくとも斯くの如き哲學を生ずべき原因は彼れが性向の中に存してゐると見て、而して此れに論を止めて、必ずしも之れを哲學化し普遍化することを敢てしない觀方が第四の説である。此の説に從へば、人生が果たして一般に厭世的であるか否かは知らぬが、少なくともイブセンといふ個人に取つては、人生は斯かるものである、斯かるものとより外は見ることが出來ぬ。即ち彼れの本自内に悲觀の理由が存してゐるのである。而してブランデズ氏は其の「第二印象」に於いてイブセンが氏に寄せたる手簡中の語「朋友といふものは費用のかゝる贅澤品だ。人生の天職に對して資本をおろさうとするには、到底朋友を持つことは出來ないものだ」といふ語を引いて、イブセンが性の個人的なる〓[#「こと」合略仮名]及び其の精神の寂寞といふことを證し、之れから悲觀的の思想は生ずるとしてゐる。ハーフォード氏が「寂寞の力」を以てイブセンの作の命根とするのも同じ見解であらう。

次にはブランデズ氏が「第二印象」に於いて、現代の人心を支配する諸問題四條を數へ上げた項を抄せんに、

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第一、宗教に關するもの、すなはち宗教を超自然と信ずるものと之れを自然と信ずるものとの爭ひ。第二、過去と未來との對照に關するもの、すなはち老と若、古と新兩代の爭ひ。第三、社會の階級に關するもの、すなはち高下、貧富、勢力無勢力の對照。第四、男女兩性の相互及び社會的關係。

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是れであるとして、イブセンの諸作に此等の問題が入り來たることを論じた。彼れが作中の思想を此の四點から観察せんとしたものである。

エドモンド、ゴッス氏が千八百八十九年に書いたイブセン論が、イブセンを英國人の多數に紹介した始めであるとすれば、其の文はイブセン傳に於いて殊に重要の地位を占める訳である。今左に其の開卷第一の節を抄して此の文を終らう。蓋し此の節が當時の状勢を想像するに於いて最も興味あるものと思ふからである。

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今ミユンヘンに中年なる一人の諾威紳士住めり。快活なる此の都市の群衆間に出入して、人に氣づかるゝこと稀れに、引き籠もり勝にて、想ひに耽る無邪氣の人物なり。折々彼れは一卷の原稿をコーペンハーゲンに送るを見る。

同時に丁抹の新聞紙は、イブセンの新詩出でんとすとの報道を傳ふ。此の報道は文學界に於ける他の何事よりも多く人々の視聽を聳てしむるなり。而して温雅なる瑞典の記者等は、此れを機會に此の高名なる詩人が好んで他國に流浪することを止め本國に歸らんことの、如何に妙なるべきかを説いて休まず。

暗澹たる森、陰鬱なる水、磽〓[#「石」+「角」]の峯、北洋の氷山は沖に聳えて、空氣は鋭く冷かなり。斯かる地にありては、自然夢の如き神女の歌に慰められずして、暴力の爲に捕へられたり。斯くの如く諾威は、元氣溢るゝ若き健兒、優しき乙女、疲れずひるまざる民衆の母國なり。

此所には人みな胸を開き身を伸して闊歩し、思ふまゝを直言して憚らざるを得べし。而して此のわかく強健なる國民の中より二人の作家出で、アポロの笑みの前に月桂冠を額に戴きたり。其の一人ブョルンソンに關しては、英人は既によく知れり。彼れは祖國生活の幸福輕快なる一面を代表す。彼れは申分なき諾威文人なり。粗豪にして男らしく、文飾なく、譬へば若きチタンの肉的喜悦に充ちたるが如し。イブセンは之れに反して、此の山獄地方には意外の産物なり。模範的なる近代歐洲人なり、其の胸には懷疑充ち悲哀充ち不滿の望充ち、暗く深き人世の根源にまで覗き込まざれば已まず。一個の戯曲的諷刺家なり。

[#ここで字下げ終わり・「イブセン小傳」了]


 

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目次

 

イブセン小傳 (1)

 

 

 

イブセンの解決劇