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知識ある批評

 

 

 

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    「五人女」に見えたる思想

 

      

 

西鶴が好色本に思想を云々するといへば、或は奇異の感を懷く人もあらう。所謂浮世草紙の片々たる小話、描くところはひたすらに色道の微細にわたり、脚色の不十分なるは以て後世の小説といふ名に適せず、目的はた偏へに猥雜者流の翫弄にまかすにあつて、絶えて其の以上の消息を意識せず。斯くの如き作品の中に思想をたづね哲學を索めるとは腐つた魚の眼を強いて珠玉の扱ひにするにも増した無理ではないか。想ふに斯やうなる疑ひは、啻に西鶴物のみに限らず、多くの古風なる作品の研究に常に伴ひ起こる批難である。併し此の批難は必ずしも當たつて居らぬ。

或は啻に古風なる作品のみならず、そも/\文藝上のもの一切は、之れに思想をたづね哲學を索むべき性質のものではないと觀る人もあるかも知れぬ。けれども是れはた一概に當を得た批難とは言はれまい。文藝の中には理を索め得る、また之れを索めることによつて始めて眞の文藝上の批判の成立する場合がある。從つてまた古風と今風とに論なく、すべての作品は之れを思想の液に浸して始めて其の生命の不朽なる所以が明らめられる。吾等が今西鶴の『五人女』に思想を索めるのも此の意に外ならぬ。

總じて文藝上の作物が、其の發相に於いて情的なるべきの理は、何人といへども之れを否むものはあるまい。其の來たつて我れに觸れ、我れを動かし、我れを醉はすとき、味ひの情にあることは文藝上の第一事實である、何ものも此の事實を覆へす力はない。文藝は情の物である、其の生命の永遠なるは實に其の情の永遠なるが爲めである。情として來たるとき、始めて之れに文藝の銘を打ち、また情として存する限り之れを文藝の類に編み入れる。

されども——然り吾等は茲に重要なる一轉語を用ひて、されどもといふ——若し文藝の事實にして單に情といふに盡きたらば、文藝の意識は全く絶對のものとなり了るであらう。何とならば情には高下の相對比較が立たぬからである。情に活きてゐる限り、あらゆる作品は一樣に價値あり生命ある文藝といふの外は無い。而して之を享樂して居るものゝ刹那の心境からいへば、文藝はまた實に如是絶對である。文藝に高下の別は無い、文藝に醉うてゐる刹那の心には比較の意識は無い。されども、是れが文藝の一面であると同時に、他面には別の事實がある。即ち文藝の意識を時間に延ばして見ると、茲に事前すなはち享樂以前にあつて享樂に導かるべき案内の意識及び事後すなはち享樂以後に及んで回顧思念する批評の意識、この事前事後兩樣の意識が中間なる享樂の意識に首尾を附して、始めて完全なる文藝の意識を完成する。文藝の心は決して單一なるものではない。學説研究の上から言つても是の如く審美意識を單一ならざるものと見るところに近代の意味がある。審美意識を合成的と見ること、是れ吾等の重大事として豫め特記し置かんとする點である。

事前の意識、事後の意識、及び中間なる感興そのものゝ意識、此の三段は、時として斯くの如くあらはに分かれて營まれる場合もあらうが、また時としては密に相接して存する場合もあらう。吾等が茲に之れを分畫するのは、理論の明瞭を希ふがためである、事實すべて斯くの如く分立すといふのではない。而して斯くの如き三段の意識中、事前事後の兩者はすなはち知識理解を主とするの意識である。知識はやがて相對比較の心であるから、茲に文藝は分明に相對の一面を有し、比較の一面を有して來る。先づ感興享樂の前に於いて我が知識思想に種々なる愬へをなすものがある。其の模樣によつてそこに雜多の情が震動を起こす、此の情の震動が感興の本體である。また更に感興享樂の刹那の終り毎に直ちに、之れに接して情裡の事どもを回顧してさま/″\に思念反覆するの知識、延ひて之れより生ずる第二境の情趣、此等の者は打して吾等が審美意識といふ一團の中に納むべきものである。文藝心は斯やうに複雜なものである。而して評價は實に此の兩樣の知識思想に存する。吾等の知識思想には如何なる標準に於いてか常に高下の價値がついてゐる。之を言はゞ文明の評價とも名づけ得樣か。文藝が相對比較に於いて、其中に存する知識の文明史的評價と運命を共にするの理はこゝに存する。要するところ、吾等が一作品に對するや、先づ感興の意識によつて其の文藝たるか然らざるかを定むる。而して後ち事前事後の意識によつて其の高級文藝たるか低級文藝たるかを判斷する。一は有か無かといふ絶對判定で、他は有中の大小如何といふ相對判定である。

以上の如き立ち場から、吾等は文藝上の作品に思想知識の品等を索むるものを是認する。而して其の如何なる思想知識が最も高級に位するかといふの論は、おのづから別の重大なる研究となる。たゞ其の思想知識が如何なる方式によつて文藝中に伏在するかといふの説は、こゝに一考の要がある。

そも/\西鶴が浮世草紙の如きは、始めから思想の研究に斑すべきものでないといふ人は、文藝中の思想の伏在に少なくとも二樣若しくは三樣の方式のあり得ることを思はねばならぬ。作そのものゝ結果について見ても、潜在的と顯在的との二樣の思想がある。『五人女』二の卷、おせん長左衛門の結尾に「あしき事はのがれず。あな恐ろしの世や」などいへる類は、馬琴等の勸懲家が口吻にも似て、理趣の最も顯著なものであらう。けれども西鶴本來の作意は此の點にあらずして、結構着想の間だ隱約として寧ろ其のあしき事といへるものに滿幅の同情を注ぐの點にある。末の句はたゞ申譯の贅言とも見られる。即ち此の場合の西鶴が作は、顯在的思想として淺膚なる勸懲の理を含蓄しながら、潜在的思想としては、更に深奧なる人生の一面を説かんとしてゐる。斯かる事例は尚ほ枚擧に遑ないほどであらう。

また之れを作者の心の状態から見れば、思想の作中に吹込まれるに凡そ三樣の方式があり得る。第一は殆ど無意識不用意の間に思想の響作中に傳はるもの、第二は明かに意識して思想を作の中心に構へるもの、第三は更に一歩を進めて、意識して思想を構へながらわざと之れを埋伏せしめんとするものである。第一種はすなはち吾等が假りに名づけて古風といつたものである。古風といへばとてそれが必ずして今日に行はれぬものといふのではないが、第二種第三種の比較的近代の傾向なるに對して、しばらく斯う名づけたのである。近代の歐洲文學は、其の思想知識の頗る顯著となり、且つ作者みづから明白に之れを主張として意識し居る點に其の特色の大部を托してゐるものではないか。而して之れに慊たらぬものが更に進んで意識して思想を結構し、意識して之れを神秘の奧に隱さんとするのではないか。此の境に至れば、文藝は顯はれたる思想をこそは有せざれ、却つて名状し難い凄凉の氣ある大思想のそこに隱約するを覺えしむるが如きものとなる。今西鶴の『五人女』に伏在する思想を見れば、其の方式は明かに第一境にあつて無意識的潜在的である。從つて是れだけの事情をさへ許せば、西鶴が作中に思想を索むるも決して失當の事とはならぬ。彼れが作にして大なりとの感を吾等に與ふる限りは、其の理由を尋ねて感情前後の思想に及ぶの必要の事でなくてはならぬ。

 

      中

 

西鶴が作中の思想については、十年前に草した西鶴論の中に、

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西鶴が作の原來小説にあらずして短き記事文なる由は既に申上候、隨ひて作者の理想を加へて結構せるもの尠く、多くは俗にいはゆる寫實に候。されど一方より申すときは、却りて頗る理想派に近き點もなきにあらず『一代男』『一代女』など、全躰より見るときは、即ちこれに候、其のゆゑは、此等の作の表にては、人生は全く好色氣質の獨舞臺にして、何程蕩淫を極むるとも社会的制裁とか周圍の係累とか申すことは殆どなく、好色者流の理想郷も斯くやと思はるゝ有樣に候へば也。すなはち個々の事柄は寫實なりといたすも、全局の上よりいふ時は、實際にあるまじき世相に候へば也。『一代男』『一代女』の描ける所は、好色といふ目安より割り出せる一種の理想的社會にして、また西鶴が好色の窓より觀ぜる人生の極致に候。さもあらばあれ、是れ彼れが人生觀の一部のみ、之れを以て全西鶴を掩はんとするは僻事に候べし。夫の西鶴を譯の聖といひ又は高上の理想なき野人といふが如きは、貴ぶも賤むに、ともにこの間の消息を會得せざるによるものと存じ候。或は西鶴の何故にしかく不健全なる理想世間を不健全と知りつゝ描きしかと訝る者も候はんか、そは戯作者の本意を餘りに重く見たる論と申すべし。昔時は戯作者の筆を取り候や、まづ念頭に浮ぶは讀者を娯ましめんの事にあり。『一代男』『一代女』の成れる、はた此の目的にしたがへるに外ならず候。されば西鶴のはじめより人生に對する己が感情を歌はんとせるにあらざるは申すに及ばず、彼れは人生の圓滿を夢想して之れを髣髴せんとせるにも候はず。否、圓滿を髣髴せんとは致したれど、其の圓滿は人生の圓滿にあらずして歡樂の圓滿に候ひしなり、就中強大の勢力ある色欲的歡樂の圓滿に候ひしなり。而して西鶴の之れを擇ぶに至りしは、彼れの時勢と彼れの地位との所以にして、猶馬琴が勸懲の眼鏡によりて仁義世界の圓滿を想望せるが如きものに候。たゞ馬琴は、一途道念の滿足を得んと欲して煩惱の念を拒斥し、之れを以て人生の圓滿と心得候へど、西鶴はは然らず、西鶴が色欲の滿足をもて直に人生の圓滿と觀ぜしにあらざるは、『一代女』『五人女』などの中に勸懲の口氣を帶べる節少からぬを見ても知らるべく候。殊に自恣自由なる『一代女』を讀み了へたる眼を『五人女』に移すときは、此の事實最も著く見えすき申候。『五人女』は即ち西鶴の觀ぜし人間の全相なるからに、其の中なるは、色も戀も、『一代女』と異なり、極めて窮窟にして、煩惱の傍に常に何物かの看守するが如き心地いたし申候、例へば等しく肉欲の戀を寫し候も、『一代女』にありては、青天白日誰れ憚る所なきに引きかへ、『五人女』にありては、お夏と清十郎、お仙と長左衞門、おさんと茂右衞門、お七と吉三郎、何れも其の戀密事の性を有せるたぐひ、若しくは「世に神ありむくひあり、隱しても知るべし、人おそるべきは此の道なり」「あしき事はのがれず、あなおそろしの世や」等の評語を以てせるなど、明に西鶴が描ける人間の煩惱一偏に非ざりしを證するに候はずや。(『風雲集』)

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と言つたのは、大體に於いて今も變はらぬ吾等が考である。彼れが作中、小説として最も傑れた『五人女』に於いては、さすがに人生が馬琴等の描いた如く不具でもなく、死物でもなく、活きてしかも要を摘み得た全人生の縮圖が描き出されてゐる。而して斯くの如く描き出された人生は、其の歸趨に於いて一種の西鶴調を具してゐる、それがやがて彼れの人生に對する思想の影でなくてはならぬ。

いかにも彼れは色道の快樂を中心として其の作を仕組んだ。物語の表は快樂觀の人生である。併し其の底に作者の思想として潜んでゐるものは直反對なる哀傷である。一冊五篇の小説は悉く人生の悲哀歌つたものと見られる。但し斯いふのは必ずしも作の結末が悲劇であるためでないのは言ふまでもない。結末はたとひお夏が尼とならずして清十郎の命を救はうとも、おさん茂右衞門が殺されずして隱れおふせやうとも、聊かも變りはない。全部讀みゆくうちに、吾等が心は一種のみじめにして濕つぽいやうな、もどかしくて胸の底をかきむしられるやうな、たまらぬ不滿足な感を發して來る。いはゞ厭世の感でもあらう、歡樂きはまつて哀傷多しといふ、其の套語の意味が正しくそれである。感情派が感情の行くところを窮めて、終に言ひがたき最後の不滿不安に到達し、絶望して自暴自棄に身を破る。此の間の心的状態が作の生命で、また思想であらう。人生は所詮感情の悲劇の場である。人生に對して我等の發する聲は、讃美にあらずして哀訴である、疑惑である、絶望である、自暴自棄である。西鶴はすなはち我等に代つて此の哀訴、疑惑、絶望、自暴自棄の聲を擧げたものではないか。

近松も西鶴と同じくいはゆる心中物の淨瑠璃を作つて同一材料をすら使つたが、彼れの見るところはまた西鶴のとも違つてゐる。近松の作は讀みゆくに何となくうれしい心地がする、暖かな、圓い花やかな、おだやかな所が彼れの調子である。同一悲劇でありながら、其の中の人生は頼み多い、ふつくりとしたものである。西鶴のは之れに反して頼み少ない、哀れに不安不滿な人生である。言はゞ近松の人生は社會性と個人性、道徳と快樂との矛盾の底に其の歸一の望を見せたもの、西鶴の人生は個人性、快樂性、感情性の一圖の向上より生ずる寂寞不滿の感を見せたものではないか。此の意味よりいふときは、西鶴の思想は多くの點に於いて却つて近代の歐洲文藝に見えたる思想と接邇する。個人性の寂寞、感情性の不滿、快樂性の悲哀、これ併しながら已みがたき人生の眞相である。

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其の頃おさんも茂右衞門つれて御寺にまゐり、花は命たとへて、いつ散るべきも定めがたし、此の浦山をまた見る事の知れざれば、今日の思ひ出にと、勢田より手ぐり船を借りて、長橋の頼みをかけても、短きは我々がたのしみと、浪は枕の床の山、あらはるゝまでの亂れ髪、もの思ひせし顏ばせを、鏡の山も曇る世に、鰐の御崎の遁れがたく、堅田の舟よばひも、若しや京よりの追手かと、心のたまも沈みて、ながらへて長柄山、我が年のほども此處にたとへて、都の富士二十にもたらずして頓て消ゆべき雪ならばと、幾たび袖をぬらし、志賀の都は昔語と我れもなるべき身の果ぞと一しほに悲しく、龍灯のあがるとき白髭の宮所につきて神いのるにぞ、いとゞ身の上はかなし。兎角世にながらへる程つれなき事こそまされ、此の湖に身を投げて長く佛國のかたらひ、といひければ、茂右衞門も、惜しからぬは命《いのち》ながら、死んでの先は知らず、思ひつけたる事こそあれ、二人都への書置殘し、入水せりといはせて此所をたちのき、いかなる國里にも行きて年月を送らん云々(『五人女』三の卷)

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または、

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切戸の文殊堂に通夜してまどろみしに、夜半とおもふ時、あらたに靈夢あり、汝等世になきいだづらして、何所までか其の難をのがれがたし、されどもかへらぬ昔なり、向後浮世の姿やめて、惜きと思ふ黒髪を切り出家となり、二人別れ/\に住みて、惡心さつて菩提の道に入らば、人も命を助くべしとありがたき夢心に、すへ/″\は何とならふと構はしやるな、こちや是がすきにて身に替ての脇こゝろ、文殊さまは衆道ばかりの御合點、女道は曾て知ろしめさるまじといふかと思へば、いやな夢さめて、松の風ふけば、塵の世ぢやと、なほ/\やむ事のなかりし(同上)

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其の松風の吹く曉、いやな夢心地のあとの氣持はどんなであつたらうか。みじめなる快樂、哀れつぽい人世の感は、殘なく此等の情景に描き出だされてゐる。

尚ほ近松の『戀八卦柱暦』と西鶴のおさん茂右衞門との比較については、同じく『風雲集』中の論文で、

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西鶴のおさんは近松のとも異り、近松にありては、道念の手にさいなまれての驅落に候へど、西鶴にては、濡れぬ前こそ露をも厭への意氣ほの見え、道義世界に絶望せし極終に「此のうへは身をすて命かぎりに名を立てん」と一直線に煩惱に走れるおもむき有之候(中畧)彼れに取りては道念の覊は以て狂へる意馬を制するに足らず、隙だにあらば、驀地煩惱に馳せんとするを人間の本相とせるものに候。

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といつたのも同じ意味である。

 

      下

 

其の他西鶴が作の滑稽に至つては、徳川期の散文々學中多く類を見ないほどの妙を有してゐる。他の多くの劣等なる滑稽と異なり、言々悉く眞味を帶びて、鋭く人生の矛盾を剔抉し、しかも冷刻に落ちずして、おつとりとした中に滑稽の色を配し、人をして快く之れを翫味するの情に堪えざらしめる。其の例は、

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菊の節句より前に逢はし申すべしといへば、樽屋、いどゝかし燃ゆる胸に焚きつけ、かゝ樣、一代の茶の木は我等つゞけまゐらすべしと、人は長いきの知れぬうき世に、戀路とて大ぶんの事を請け合ふはをかし。(『五人女』二の卷)

久七とゞめけれども、いや/\奧さまに男ぐるひなどしたと思はれましてはいかゞと出て行く。風呂敷包は大義ながら久七殿たのむといへば、肩がいたむとて持たず、大佛稻荷の前、藤の森に休みし茶の錢も銘々拂ひにして下りける(同上)

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以下、石山寺の開帳の條、水茶屋の品定めの條、吉祥寺の小坊主のくだり、神佛のお告げ等、枚擧に遑あらず。記事の卑陋にわたる箇條すら、滑稽によつて微かに之れを緩和したるの氣味あるは、げにも夫の伊太利散文の父と言はれるボッカチオが『百物語』を思ひ出さゞるを得ない。ボッカチオはたゞ百物語に卑陋の事をも憚らず書いて一方道徳の世界からは批難を受けることを免れぬが、それは以て彼れが文學史上の地位を動かすに足らぬ。詩のダンテ、畫のジォットーと共に、散文のボッカチオが名は、伊太利文學の存する限り亡ぶまい。百物語中の諸短篇が、嚴格なる意義に於いて小説といふ名に合しないのも、また其の有名なる卷首の疫病の記事以下、寫生の筆に獨得の妙ありといふ評も、チョーサー。ドライデン。レッシング。キーツ以下諸多の後代文學に詩材を給したといふ事も、乃至其の文體が後の伊太利の散文を支配して、幾多の追随者を出したといふ事も、全體の記叙に一味の滑稽詼諧の氣あることも、凡てボッカチオを我が西鶴に對比する理由となるであらう。


 

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「五人女」に見えたる思想|上

 

 

 

イブセン小傳