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鑑賞┐ ┌研究的──美學
│ │
├批評┤ ┌人格的┐
│ │ │ ├力を説理に代ふ
│ └説定的┤文學的┘
説理┘ │
└知識的──理智の力による
今の文壇に奇異なる現象の一つは、創作界が却つて知識に少なからぬ尊敬を拂ふに反して、批評界が甚だしく知識の權威を蔑視せんとするの事實である。文藝上の創作は常に中心の生命を感情に託するに拘らず、其の感情の深大を致さんがためには、知識の堀鑿に待つところ多き人格の泉に、先づ十分の水脈を引かねばならぬ。知識の水脈を穿つ〓(「こと」の合略仮名)いよ/\深ければ、之れに湧く感情は、いよ/\切に我等が生命の核心に肉薄して、我等が生命の全部を撼搖し、延いて其の背後に横たはる宇宙の生命まで響くの趣を呈する。感情に高下の品があるとすれば、それは感情を荷ふところの知識の高下にたよつて附ける階等である。知識の展開はやがて感情の展開を意味するの理は、多く茲に言ふを須たぬ。創作に從事する人々が、漸く三昧の境に出入りして至醇の心を其の業に傾けるに至れば、おのづから此の源泉に深處大處の依頼あるを要するの理を感悟する。眞に豐熟した創作心には、決して知識の蔑視といふことは含まれて居らぬ。あらゆる知識、最高の知識を悉く自己以内に沒收し去らんとするところに、大いなる創作心の威嚴が存するのであらう。創作に取つては、知識は擯斥すべきものでなく、招徠すべきものである。秀吉ほど家康に尊敬を拂つてゐるものは無い譯である、最高の知識に對して最高の尊敬を拂ふの必要を感ぜず、又之れを征服せんとするの希望をも有しない程の創作心は、なほ甚だ憫むべきものではないか。無論斯くして却つて知識に征せられるものあると否とは、其の作家の才分如何による。吾人は如上の意味で創作界が感情を生命としながら而も知識に尊敬を拂ひ知識に依頼を求めんとすることの至當且つ喜ぶべき現象たるを信ずるものである。 批評は之れに反して、始めから其の生命の多分を知識に發する。知識を疎外するところには、眞正の批評の成立する理由が無い。然るに今の評壇には批評の筆を取るものみづから知識的條件を無視するを以て高しとするが如き稚態のなほ消えぬものが多い。知識は修養の結果である、上の如きは畢竟修養の足らざるものが、自ら其の足らざるの弱點を掩護せんためにする擬勢たるを免れぬ。
批評はそも/\如何にして起こるか。一文藝に對して下したる價値の判斷、及び此の判斷の知識的説明、此の二要素が批評といふ言葉の正常な内容である。此の作品は美しい。彼の作品は美しく無い。美しいにも甲と乙とは程度が違ふ、丙と丁とは具合が違ふ。此所までは我等の文藝に對する價値の判斷である。之れを名づけて鑑賞の意識といつてよい。而して鑑賞の意識が發表せらるれば、茲に批評の半面が成立する。夫れ鑑賞は人々の自由である。從つて自己が自由の鑑賞意識を自由に發表する上に、他から何等の故障をも挿まるべき理由は無い。創作が作家の創作意識の自由なる發表であると同じく、鑑賞評は評家の鑑賞意識の自由の發表である。
盖し世の短見者流が往々にして懷く誤謬は、批評を以てさながら、創作者の爲めにするもの、隨つて創作者は批評家に對して「我れは批評を要せず」といふの權利あるかの如く思惟すること、是れ一、次には批評が單に創作の後に生ずるといふを以て、直ちに批評は創作の下位に隷屬するが如く考へること、是れ二。中にも後者は最も笑ふべくして而もしば/\耳にする陋見である。常識の上から言つても、茲に先づ一塊の土といふ事實が存する。人間の心といふ事實が之れと相觸れて考察、説明といふが如き次の事實を生ずる。彼れもおのづからして生ずる事實であり、是れもおのづからにして生ずる事實である。類こそ違へ宇宙の事實たるに於いては兩者に何の等差もない、生起の先後といふことは以つて價値の高下を定めるに足らぬこと勿論。批評の創作に於けるも亦た同じ理である。文藝の作品は即ち與へられたる尊き事實である、之れに對する人々の鑑賞批判もまた件の事實に續いて發する尊き事實である。何ものか能く彼れは尊く此れは卑しといふ位階を此の間につけ得やう。
斯くの如くして單に之れを存在觀事實觀の上から考へても、批評は夫の造化が自由に造る萬象、作家が自由に作る文藝品と同じく、評家が自由に形成する鑑賞意識の發表である。他の認諾を待つて始めて存するものでも無ければ、他に倍隷して存するものでも無い。然り、此の理は既に早く批評の半面たる鑑賞に於いて明白なること以上の如くである。
併しながら更に之れを目的觀、究竟觀の上から考へたらどうであるか。創作について言へば、或は理想の體現、或は眞理の闡發、或は利用、或は美徳、或は淨樂慰藉の附與、何れを是とするも兎に角創作が概して目的を有して生ずることは明かである。而して之れによつて其の作品の人間に於ける地位が定まる、價値がつく。批評はすなはち何を究竟目的として起こつたであらうか。
此の疑問を釋くためには、批評の他の半面を見ねばならぬ。即ち批評は鑑賞の上に之れが知識的説明を要する。鑑賞意識と説理意識の結合したものが眞の批評である、批評は單なる鑑賞ではない。批評の存立する必要は實に此の説理意識に在るといつてよい。批評の目的は此の半面によつて最もよく解釋せられる。言ひ換へれば、批評は本來知識の要求に應じて形をなしたものである。たとひ出發點たる鑑賞意識の發表、此れは美しい、彼れは美しくないといふに止まるの判斷は、尚ほおのづからにして發する叫び聲であると假定しても、之れに歴然たる目的觀を加へて、其の存立の意義を明にしたものでなければ、今日の批評といふ概念は完成せぬであらう。單に鑑賞すなはち此れは美しい、彼れは美しく無いといふだけならば、批評は或は目的觀の上から閑却し去られるかも知れぬ、無くて済むかも知れぬ、人間に必要なしと言はれても致方の無い場合が多いかも知れぬ。たゞ是れに説理意識の加はるに及んで、始めて人生必須の一現象となり、根を人間必然の要求に托するに至るのである。
世の輕卒なる者が批評の無用を唱へ若しくは批評の無根柢を難ずるに當たつて、多く陷るの弊は、此の鑑賞を批評の全部と速斷するにある。批評は鑑賞の上に説理を加へねば完結しない。批評は畢竟知識上の要求に應ぜんがために起こつたものである。
知識上の要求とは何であるか。曰はく、疑ひである、知らんと欲することである。此の簡單な命題を文藝の鑑賞に當てはめれば、其處に批評の必要といふ結論が出て來ると思ふ。
文藝の鑑賞に知識的要求の伴ふ場合が二つある。一つはたゞ其の理が知りたいといふ漠然たる欲求である。二は甲乙鑑賞の結果を異にしてゐる場合に、孰れが眞であるかを定めたいといふ欲求である。前者は一見唯好奇の知識慾であるが、併しあらゆる高尚なる學問は此の知識慾を本とする、少しく深く考へれば其れが決して無意義のもので無く、實に遠く人生の根本に連なつてゐることに思ひあたるであらう。我等は何がゆゑに事物の根原理を知らんとするの慾を有するか。ショペンハワーの哲學を倩ひ來たるまでもなく、人は常に眼前の事物と自己との關係を最後まで明めねば安んぜられぬといふ性を有してゐる。言ひ替へれば、其の事物が宇宙に列するの地位本來を知つて、我れの之れに對する覺悟を極めたいと思ふ。此の覺悟がつかねば、我れは常に不安不定の念に禁えぬ、詮ずるに我れの安立のためである。此の要求は進歩した頭腦の人ほど強い、即ち所謂哲學的要求である。之れを平凡に解すればたゞ其の事物の理が知りたいといふ漠然たる好奇心、乃至知識慾といふに歸するのであらう。而して此の要求は、當面の事物が知識的に明瞭で無ければ無いほど其の度を増すと見える。文藝鑑賞の如きは其の好例といふべく、美しい美しくないといふ趣味上の事實ほど知識的に確説し難いものは無い。且つ動ともすれば、文藝は利用厚生の上に無用の長物とすら見られて其の存立の意義最も不明瞭と考へられるものゝ一つである。之れに對して根本理を知らんとする要求の起こるのは至當の事ではないか。
斯くの如き要求から出發する批評は、鑑賞の上に説理を加えて文藝の最後の理に到達せんことを斯する、其の終點は文藝の哲學である、所謂美學は之れに相當する。我等は文藝に如何なる價値を附し如何の態度を以て之れを遇すべきか。文藝は宇宙の現象中如何なる位置に据わるものであらうか。要するに美學は批評のために區々たる尺度を給するよりも、寧ろ文藝の宇宙人生に於ける地位を明めんとするものである。批評は此の最後の原理に詣らんとする實驗的研究に外ならぬ。之れを研究的批評と呼んでよい。
次には鑑賞の彼此甲乙相合せざる場合、若しくは自己の鑑賞に他の鑑賞を合一せしめんとする場合に、之れを説明して、鑑賞の眞僞を定めんとする要求から、説定的批評とも呼ぶべきものが起こる。是れが最も普通な場合の批評で、詮ずるに自家の鑑賞を是として立てる、延ひて他を之れに統一するといふ、言はゞ一層實際的な目的を含んだ批評である。明に或る目的を意識した以上に成立するもの、即ち完備した批評たるに於いては、研究的批評も説定的批評も同一であるが、其の目的に間接直接の差があるといふに歸する。さて斯やうな説定的批評の目的すなはち一鑑賞の定立といふことは、之れを成就するに於いて必ずしも一方法のみとは限らぬ。事實に徴するに、或は美しいといふ唯一言の鑑賞も、他の千萬言に勝つて人を服せしむるの力を有する、殆んど裸な鑑賞の發表のみと見える批評もある。又或は語を多く費したに拘らず、言ふ所は美しいといふ當初の鑑賞の叫びを繰り返すに過ぎず、文辭を彩り感情を連帶せしめて、自家を定立せんとするの批評がある。前者にあつては直ちに之れを發言する人格の信用威力が他を説定する役を務め、後者にあつては説者の文學的技倆のみで是が非に變り果すものではないから、結局は此の種の批評も矢張り人格の力を基礎としたものとなる。即ち此等の批評は理の上の是非にたよらずして、偏に發言者其の人の力によつて説定せんとするもの、鑑賞に加ふるに人格力を以てした一種の説定的批評であらう。また之れに對して專ら知識を方法とした説定的批評があり得る。「我れは之れを美しいと見る、其の理は云々なるが故に」といふ方式で自家を定立せんとするもの、知識的根據によつて他を説服せんとするものである。而して吾人が本論で提擧せんとするものは此の種の批評に外ならぬ。
以上吾人の論はやゝ微細の理に馳せ過ぎたやうであるが、つゝまる所、我が現文壇の問題として先づ人格の力を頼とするものと理知を頼みとするものと二種の批評を並示して其の根柢を明にせんとするのが吾人の趣意である。すなはち茲に上來の論緒を結束して、今の批評壇は人格によるの批評と知識によるの批評と、若しくは一言にして東西を決する力の批評と、知識に照して是非を判かつ理の批評と、兩者いづれが時務に急なるかといふ問題に還る。
言ふまでもなく、全きを望めば力と理と並せ有するものが最上の批評である。併しながら是れは事實に於いて多く期待せられぬとすれば、先づ其の何れかに着いて評壇の流風を新たにするの策を講ずるのが目下の要であらう。思ふに今の評壇は、人格の批評。力の批評の出來損つた餘弊に苦んでゐ氣味ではないか。夫のたゞ力を重んじ、たゞ結論判斷をのみ重んじて其の力の力たり判斷の判斷たる根本に常に知識の保證といふ威嚴の存すべきを忘れんとした一時の風潮は、青年の人を驅つて、ひとへに理知を輕んじて淺薄なる一時の妄斷放語に快を取らんとするに至らしめた。今の批評には理知の根柢いさゝかも無きが上に、之れに代はるべき力も無く、剰するところは、たゞ漫然たる鑑賞の發表に過ぎぬものとなつたのが多い。其の評定の根據が薄弱で、たゞふわ/\とした好惡の發表に過ぎぬといふ感を人に與へる。其の結果、或る時は、多少でも力ある批評が出れば、枯葉の風に隨ふ如く之れに附和し、又或る時は、極端にまで顛倒差錯した無統一の評壇と化し去る。要するに無定見の雷同か、然らずんば全然オーソリチーの權威を無視する破壞的亂脈かゞ、其現状である所の我が批評界にあつては、幾分たりとも之を整調し得るの途は、其の批評をして知識の根據に立つものたらしむるにあると思ふ。例へば批評と批評とをして相較べしめるが如きも妙であらう。此の品が美しいといふ、要は知識の許す限りに於いて其の美しいといふ鑑賞の内面を展開し説明するにある。鑑賞の瞬間は多分に感情が作用してゐても、其の後に起こる意識、たとへば此の鑑賞は正しいか否かといふ疑惑の如きは明に知識の作用であるから、要求の本來から言つても、知識上の解説こそ最も此の際の用を充たすに足るものであらう。
人或は、理知の上で正しいものが、必ずしも鑑賞の上で正しいとは限らぬといふ。併しそれは眞に理知上の滿足といふものを輕驗したことのない人が言ふ僻説である。如何なる知識でも最後の一斷、之れで滿足といふ所は感情である。此の最後の滿足は何時でも知識から一歩を超越してゐる。此所は飛躍である。如何に論理が徹底してゐても、此の最後の感情と接近する滿足がなければ人は承知せぬ。最も多く之れに接近した知識が最も多く正しい。知識は此所まで行けばよいのである。斯くして最後の滿足に一歩は一歩より接近し行く所に知識の進歩はあるのだから、我等は我等が達し得る限りに於いて最後の判斷を下すに何の不都合も無い。斯くの如き意味で、正しい知識は必ず正しい鑑賞と一致する。 之れを總括するに、吾人は正しい鑑賞の上に十分なる理智ある批評を今日に要求する。之れによつて批評本來の面目も威嚴も庶幾はくは立つであらう。今の評壇は餘りに意識を忘れ過ぎてゐる。(明治四十年九月)
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