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眞理と快樂とは我等人生の闇の荒野にさまよつてゐる姉と妹である。互ひに呼びかはす聲は相聞きながらも、絶えてめぐり逢はず。逢へりと思ひしは假り寢の夢。何時かは再び相抱かう。思ふに人の世一切の努力は皆此の一つの願ひである。批評も亦た其の數には漏れぬ。
さて茲に批評といふのは專ら文藝上の批評を指す、狹い意義である。或る文學美術の作品を取つて之れに或は説明を與へ或は評價を附するそれが文藝上の批評である。
而して批評の意義といふのは、就中其の近代批評の意義といふのは、是れが時代の遷移につれ近く十九世紀の末に於いて如何に目的風格を變じたかといふ〓(「こと」の合略仮名)である。勿論我が過去の文藝壇には、西洋のそれに對當し得る程の批評といふ者はなかつた。從つて其の歴史的變遷といふが如き者にも、取り出して論ずべき意義は無いのであるが、西洋に在つては文藝の他の一方即ち創作の方面と相并んで、批評も盛んに行はれ、また批評そのものに關する議論なども屡々繰り返されてゐる。我が文壇でも近時批評無用有用の論などが盛んであつたやうに記憶する。支那では流石に文學の國であるだけに、古くから批評が可なり盛んであつた。夫の六朝あたりから起つて唐宋、就中宋以後に榮えた修辭、詩話、文話の類、其他畫話、金石談の如きから、金元以後には金聖嘆等が小説批評の如きすら出て來た。古人をして宋に詩なくして談詩ありといはしめたのを見ても、其の如何に批評の盛であつたかは推し測られる。唯此等斷片の批評を全體の上から見て、そこに一貫した意義乃至傾向といふやうなものを見出だす研究が缺けてゐたのである。されば本論は自然西洋の批評を中心として立言する〓(「こと」の合略仮名)となる。但し今は敢て科學的に批評といふものゝ定義を下さうとするのでは無い。批評は勿論有用である。古來批評といふことありしがために、文藝が其の眞價を發見せられ、其の生命を永くせられ、其の内容を展開し増加せられた〓(「こと」の合略仮名)は明白な事實ではないか。
また批評そのものゝ定義解釋についても、專門的に論ずれば未決の大問題が殘つてゐる。前に言つた文藝上の作品を取り扱ふ二方法、即ち一はそれが説明一はそれが評價についても、或は前者が主であるといひ、或は、後者が主であるといふ。而して此の爭論を解くのは決して容易で無い。實は批評といふものゝ根本問題乃至批評の變遷原理は此の二句の消長にあるといつてもよい。
茲で文藝上の作品に對する説明といふのは、何も訓詁註解の意味では無い。其の作品の有してゐる、形式や中身やの生命を、或は分解し、或は綜合して解説するのである。又評價といふのは、文字通りに其の作品の價値の高下を何等かの標準尺度に照して判定するの謂である。
斯やうに説き去れば何事も無いやうであるが此の二命題からして批評は申すに及ばず、文藝全體の運命を左右するやうな疑問をも提出することが出來る。吾人は先づ下に批評の二面について實例を示し、論の出立點を一層明にして置かうと思ふ。
西洋の批評史の中で最も有名な出來事の一節は十八世紀の中頃獨乙で起こつた夫の美術史家ヴヰンケルマンと批評家レスシングとのラオコーン論であらう。ラオコーンとは今伊太利羅馬の法王殿附屬の一博物館にある彫刻像の名で、ラオコーンといふトロイの僧が、親子三人大蛇に取り卷かれて將に死なんとする斷末間の苦惱を現はしたもの、よく寫眞版になつて我邦にも來てゐる。此の彫刻の出來た年代は或は西洋紀元前五世紀ともいひ或は同一世紀だともいふが、蓋し後説が正しいやうである。即ち世は希臘の末、將に羅馬時代に移らんとする頃で作者はローデヰアン派といつて、小亞細亞沖のローヅ島に根據を有する一派の美術家が三人の合作、十六世紀にチチュスの温泉場から掘り出された。
而して世界近世の最大彫刻家といはれるミケランゼロは當時之れを見て驚嘆のあまり「藝術の不思議」と叫んだといふ。思ふにラオコーン像は、此の大彫刻家が一叫の批評によつて先づ世の注意力を吸收し得たこと幾ばくであらうか。言はゞ此の一句の批評は今や此の作品の威嚴の源となつてゐるのである。
さて此の彫刻像は博物館中では同じく有名な、世界に二つとないベルヴヱデヰアのアポロと相隣して、何れも別格の取扱を受けてゐる。傳説によるとラオコーンはトロイ人のために希臘の神ネプチューンに捧げ物をせんとしてアポロの怒に觸れ、海から上つて來た二頭の大蛇のために、先づ二人の子を聖壇の前で捕られ、之れを助けんとした父みづからも遂に取り殺されたといふ。
彫像は即ち此の親子三人が大蛇に取り卷かれた瀕死の瞬間を刻んだもので、其の大蛇に締めつけられる七轉八倒の苦みを現はしたのである。中央に立てるラオコーンが體は、そつて、右の手に大蛇の胴を高く掲げ、左の手は將に腰のあたりに咬み入らんとする首を掴んで、體躯手足の筋肉の怒張に、非常なる苦鬪の力を表し、顏は絶望の眼と吟呻の口とに限り無き苦痛を臓してゐる。
斯やうなラオコーン像に對して、初めて有名な評を下したのが獨乙のヴヰンケルマンで、其の名著『古代美術史』は實に美術研究の上に一期を劃したもの、ヴヰンケルマンみづから、希臘美術に精通して、秀拔な鑑識力を有した人であつた。彼れがラオコーン論は「繪畫及び彫刻に於ける希臘作品の模效に就いての説」と題する評論文中の一節で、今は其の美術史の末に採刊せられてゐる。「浪の表は如何に荒れ増さるとも底ひは寂然として騒がざる大海の如く希臘の彫像に見はれし表情は、如何なる感情に於ても常に偉大にして節制ある精神を表出す。ラオコーンの顏面に見ゆるものは此の精神なり」。といつて、啻に顏面の表情のみならず、全體の筋肉に漲りわたつた大苦痛の状を説明し、希臘人が如何なる苦痛をも冷靜沈着の大忍耐を以て迎へる偉大の格性こゝに現じたりと讃美するのが其の趣意である。
然るに獨乙國民文學の先聲者レスシングは、上の如き論を以て慊らずと、『ラオコーン』と題する長論文を公にして、詩と彫刻との限界を論じた。蓋し同じラオコーンの傳説は、羅馬の詩人ワ゛ージルも其の作『エーネイド』に於いて使用してゐる。されば論はおのづから兩者の比較に移つて、詩が言語を以て現はし得るところは轉瞬に遷り行く感情の動き方であるといふ。而して彫刻の爲し得るところは此の遷り行く感情の一轉瞬を石に附するのであるから、刻々に動くべきものが却つて定着したものになり、同一感情が其のまゝ其處に殘留し永續することゝなる、即ち不自然の状態となる。從つて其の力は弱はり其の性質は變ずる。今ラオコーンの像が斷末間の大苦痛を見はしながら、尚且つ一味の平靜を其の中に有するは、畢竟彫刻の現じ得る感情が其の制限度に達したからである。彫刻では是れ以上の熱烈な感情は表出せられないのである。必ずしも希臘國民性の然らしむる所ではない。といふのがレシングの趣意である。
予は此所で此の兩説を是非しやうといふのでは無い。其孰れが是としても、面白い説明である。此等の批評ありしが爲に、ラオコーンといふ一藝術品は幾層倍味ひの源を豐にし得たか測られまい。今日では、此の一團の彫刻像から如上の批評を分け去ることは出來ぬ。此の批評は殆ど作品そのものゝ生命の一部と化し了つたといつても差しつかへはあるまい。我等が此の像を打ち仰いで見てゐる刹那ヴヰンケルマンやレツシングの言つた所を想ひ起こして、成程斯うもあるか、ああもあるかと思念するときは、即ち趣味の分量がそれだけ豐富になつたのである。而して此の種の批評は實に説明的批評である。ラオコーン像が有する生命を、推理を交へて説明せんとしたものである、取り廣けて其の成分を解説せんとしたものである。
之れに反して評價的批評とは或る既定の尺度基準に照して作品の價値に高下を附するものをいふ。我が舊時の歌俳諧の批評などゝいふものには是れが多い。短歌は必ず二段切れで無くてはならぬといふ規則を設ければ三段切の歌は幾ら面白いと思つても右の規則に合はぬから、腰折れとして、價値の低いものとする外は無い。俳句には必ず季を入れよといふ以上は若し季の無い句で面白いのが出來ても、それは取るに足らぬものとせらるゝであらう。西洋には人も知る通り古來劇の三一致といふ法則があつて、時の一致、事の一致、處の一致を缺いた劇は價値の少ないものとせられた。他の人々が許して世界の最大戯曲家とするシヱークスピーアも佛蘭西の此の派の批評家には上の理由で野蠻の作と罵られた。佛蘭西近世の文學史で最も面白い一節は、夫の十九世紀の初めがた史家がローマンチシズムと呼ぶ歐洲共通の新文藝の始めて巴里に凱歌を揚げた時である。由來佛蘭西人の爲す所は概して革命的激變的であるといはれる。頃は千八百三十年二月廿五日の夜、あらゆる戰鬪準備を整へて鐵の如き決意を合言葉に、テアターフランセースの劇場に新文藝の狼烟を擧げたものは、ヴヰクトル、ユーゴーといふ若い詩人であつた。作は『エルナニ』。夕方から新派に味方するものは後ろや二階の席あたりにひし/\と詰めかける。平土間、うづらには當時文壇の主權を擁してゐた反對派クラシシズムの人々が陣取つてゐる。而して幕は明いた。ユーゴーが思ふ圖は外れず、開卷第一に舞臺の上なる女主人公が戸の音に耳を傾けながら唱ひ出だす句は、ことさらに巧んで舊來の格を破つた跨ぎ句であつた。當時の古典的な好尚には、詩の句は必ず一句の境が一意の境であつて欲しい。斯やうにすればおのづから句法が整然として、明晰典雅の調を具して來る。けれどもユーゴーは之れを避けた。整正を破り典雅明晰を破つてそこに格以外、調以外の激越の音を求めんとした。一つは是れがやがて舊派に對する第一の矢文であつた、挑戰状であつた。舊派の面々も、其の金科玉條とするものを無視せられて、何條默して已まう。忽ち矢聲は場の一隅に擧つた。身方も豫期したること、鬨をつくつて之れに應戰し、茲に『エルナニ』を中に据えたる新舊二思潮の決戰が開かれた。而して終宵熱罵怒號の聲休まず。斯やうにして此の劇は遂に四十餘回を重ぬるに至つたが、結局最後の勝利は新文藝の手に歸し、新しい趣味は革命的に佛の文藝壇を席捲し了すると共に、ユーゴーが第一流詩人の地位は之れによつて固まつたといふ。此の時古典派が擧げた第一の叫びを解釋すれば、曰はく詩は必ず句意共に切るゝを法則とす、之れに合せざる作品は劣等なり。といふに歸するであらう。之れを評價的批評といふ。
説明的と評價的、此の二面の交代によつて、近く十九世紀歐羅巴の批評は其の端緒を開いてといつてよい。歐洲の十七八世紀は人も知る如く佛蘭西文藝全盛の時代で各國とも多少其の感化を蒙らぬは無いといふ状勢であつた。而して當年の佛文學は世にいふクラシシズム、即ち古典的趣味を生命としたものである。されば批評も亦た其の數には漏れず、十九世紀の初頭まで傳下したものは、所謂古典的批評である。
古典的批評の特色は上に説いた評價批評を主とするにあつて、其の評價の標準は概して狭隘陳套、且つ多くは形式上の法則といふが如きものに拘泥する。希臘のアリストートル、伊太利のカステルヴヱトロ、佛蘭西のブワロー等が垂訓は永く軌範の淵源とせられた。是れ恰も我歌俳の上に奧義口傳の沙汰ありしと同一轍である。
十九世紀の新批評は他の創作、乃至政治社會萬般の上に見えしと同じ精神を以て、此の舊式の批評から脱出して生きたる新しき天地に入らんとする一種の自由運動であつた。從つて其の特色は古典批評の評價的なるに對して説明的ならんとするにあつた。史家之れを名づけて批評界のローマンチシズムといふ。獨乙のレスシング。ヴヰンケルマンは早く秀拔なる其の批評に於いて此方面を開拓したが、海を渡つて英國に來ると、詩壇に於ける同一機運の先達たる湖畔詩人ワーヅワース。コールリッヂ、中にもワーヅワースによつて批評壇の新聲が最も明快に發唱せられた。即ち彼れがコールリッヂと合著の第一詩集第二版の有名な序文は、詩界に新光明を注がんとすると同時に批評の標準に根本的發動を起すべき者であつた。其の結論は詩を感情の自然自由の流露にありとする所から、延いて詩句法といふものゝ之れを拘束するを惡み、一切のポエチック、デヰクションを斥けんとするの極端にまで走つた。而して傍らにはハズリット等の如き純批評家としての大なる文星が同じ方向に來たり會する、此等の勞力で佛國傳統の古典批評は略ぼ顛覆せられたと見て差つかへない。之れが十九世紀始めの二三十年代である。佛國では稍後れてサント、ブーヴ出でゝ批評界の形勢が定まつた。佛蘭西近代の最大批評家たる彼れも亦たローマンチシズムの新批評を主張して舊來の古典批評を排斥し、批評は凡て評者が作品から得るところの印象の記述であるが如き觀を呈せしめた。
斯やうにして十九世紀の上半は批評界の革命期である。狭隘な定規標準で評價を下す舊來の批評は破壞せられて、説明的な批評が勃興して來た。今此の新批評が提唱する所を聞くに、從來の偏狭に對しては、曰はく趣味の寛宏、多樣。從來の拘束的なるに對しては、曰はく自由の判定、從來の推理的傾向に對しては、曰はく感情を重んぜよ。從來の附會的なるに對しては、曰はく印象を先にせよ。從來の缺點を穿鑿するものに對しては、曰はく美所を發見するを本意とせよ。從來の叱責的なるものに對しては曰はく作そのものゝ鑑賞を本とせよと。寛宏(カソリシチー)自由(フリードム)鑑賞(アプレシエーション)。凡そ是等のものが新批評の合言葉である。
更に之れを別の方面からいふと舊批評は自然其の判斷の標準を客觀に并べ立てるに反し、新批評は之れを單に評者の心内にあるものとして明白に標準を定立することをば避くるが故に、之れを名づけて主觀的といひ得やう。また蘇格蘭エヂンバラ大學の教授セーンツベリー氏は、其の批評史第三卷に於いて、此の種の批評を名づけて一は先天的(ア、プリオリ)一は後天的(ア、ポステリオリ)と呼んだ。即ち客觀的古典的な批評にあつては、其の作品の産まるゝよりも以前に標準が先づ生じてゐるから、先天的である。ローマンチックの主觀評はすなはち作品あつて後はじめて判斷の標準もそれに應じたのが立つ、後天的たる所以であらう。是れ亦た事實に當たつた名目ではないか。要するに近代の批評は主觀的後天的に端を開いたのである。
併しながら斯くの如き批評が十九世紀の中葉以後に帶着し來たつた重要なる意義傾向は、實は此の點から始まる。蓋し批評が創作と異なる最大の理由は、其の如何なる方式に於てか一層多く知識推理の作用を有する點に存する。自然の事象に感じて、之れを文學に托すれば創作を成し、創作中の事象に感じて之れを文字に托すれば批評を成す。批評と創作と同じく感情を根本とすべきは勿論であるが、唯是れにありては其の感情を〓(「テヘン」+「慮」)ぶる間に理智の案排を要すること多く、彼れにありては寧ろ之れを感情下に埋沒せしめんと欲するの差がある。或は作品の鑑賞享樂を其のまゝに寫し出だして、文字通りの第二の創作を成すを批評の本意と説くものも無いではないが、是れはどうも我等が懷く批評といふ語の意義とは違ふやうである。鑑賞享樂の感に如何なる方式を以てか理知の味ひを加へて描出する、それに眞の批評といふ意識は發しなくてはならぬ。
然るに一旦斯くの如き意識の竄入を我等の心作用に許すときは、初はたとへ半歩であらうとも、其は既に全歩を許したと同じ結果になる。我等の理知は、究極するところ事物の理由を知らんとするにあるべければ、之れを與へざる限り、其の批評は到底動搖を免れぬ。而して批評の理由はすなはち標準で標準を與ふるはやがて評價の始めである。批評の歸適するところは結局評價ではないか。此の一意識を拔き去つた批評は完成しないものではあるまいか。
一代の才人紀の貫之は『古今』の序に於いて「月やあらぬ、春や昔の春ならぬ、我身一つは元の身にして」の作者在原の業平を評して「その心餘りありて言葉足らず、萎める花の色なくて香ひ殘れるが如し」と言つた。茲に一輪の名花の、色は無慚に褪せ形は哀れに萎んでも、蕋に薫ずる清香は尚蝶の羽の移り香に鎭魂の思を殘す。簡にして美なる絶好の説明批評と稱してよからう。而も之れすら「心余りありて言葉足らず」といふ推理の辭を冠するを禁じ得なかつた。文屋の康秀を評して「あき人の善ききぬ着たらんが如し」といひ「言葉巧みにて其のさま身におはず」と推理したのも、小野の小町を評して「よき女の惱める所あるに似たり」といひ「強からぬはおうなの歌なればなるべし」と推理したのも皆同一經過である。唯貫之は業平の評に於いて、康秀の評に於いて豫め「歌は凡て言葉と感想と一致せざるべからず」といふ規則をば有してゐなかつた。また小町の評に於いて「歌は凡て作者の人物を現出す」といふ結論をも作らなかつた。是れその説明批評に屬する所以である。けれども是れから一歩して規則標準を作り出すのは譯も無いこと、成程貫之は「言葉と感想とは常に一致せざるべからず、業平康秀の歌は此の理に合せざるが故に完美ならず」とは言はなかつたが、之れを逆にして「業平康秀の歌は言葉と感想と一致せずして完美ならざりき、されば完美の歌は兩者常に一致せざるべからず」とは容易に言はせ得やう。
前に引いたヴヰンケルマンの場合の如きは一層明白に此の過渡を示してゐる。彼れはラオコーン像を以て、表面の強烈な感情の裏に偉大な冷靜の覺悟の潜んでゐる所に美があるとした。而して同時に彼れが美學上の原理は、斯やうな反對なものゝ調和といふことに存した。兩者は相照してゐる氣味である。ヴヰンケルマンのみならず、古來の評價批評といへども、其の前提としてゐる規則標準は必ずしも先天的とは限らぬ。劇の三一致といふことは、コーネイユやヴオルテールや、後の批評家が之れを應用すれば先天的、演繹的でもあらうが、アリストートルが始めて其の『詩論』で筋の一致といふことを提唱した時は、彼れは「オデヰッセーを作るときホーマーはユーリッセスに關せし事柄をば一も語らざりき。たとへばバーナッサス山にて傷つきしこと及び希臘軍にて狂氣を粧ひしことの如き、一あれば他はあるを要せず、またあるべくもあらざるの類なり。斯して彼れはオデヰッセーをイリアッドと同じく一事件の上に作成したり」といつて、ホーマーを其の歸納的根據としてゐる。降つては伊太利のカステルヴヱトロ等が之れに時の一致、處の一致を竄入するに至つたのも結局は彼等が先づ作品の上に經驗したところから歸納した後天的のものであるかも知れぬ。
論じて茲まで來れば、説明的と評價的、後天的と先天的、主觀的と客觀的の批評の區界は甚だ模稜たるものとなる。所詮は連續した一大作用の右と左の兩端のみを取り出した名目に過ぎない。且つその兩端に於いてすら二者は互に相結合して存し得ること、恰も夫の論理學が取り扱ふ演繹歸納の二方式の關係に於けるが如し。客觀的批評の中にも、其の客觀の標準を擬する前豫め心中に此の作は佳し彼の作は惡しといふ判斷成つて、而して後ち其の佳き所以惡しき理由を既成の標準で説明したものがあり得やう。また主觀的批評といふものも、其の一作品を佳しと鑑賞する裏面には、惡しと否認する作のあり得ることを拒む理由はあらず。而して佳し惡しの判断は一種の評價である。縱ひ其の標準は明に客觀には掲げられずとするも、主觀の心の底に埋まつて存してゐることは疑ふべくもあらぬ。意識の閾の外で之れに照準したに過ぎない。從つて之れを我等が知識作用の自然に任すれば、主觀の底に埋沒してゐる標準を其のまゝに埋沒せしめ置くことは不滿足である。之れを發掘して明に客觀に掲出せんとするのが、おのづからの傾向である。此の傾向の好實例は、前に點出した佛の批評家サント、ブーヴの上にも見られる。佛文學史に於いて近代の典據たり、且つ彼の國第一の評論雜誌レヴユーデ、ダー、モントの主宰者たるブリュンチエール氏は、彼れの批評を目して單に自家印象の日記たるが如き主觀批評から、漸次に方面を轉じて其の作者の上に考量を及ぼし、作者の性風感想を研究する心理的批評に移つたものとしてゐる。即ち自家の主觀のみに依頼せんとしてゐたものが、それに不滿足を感じて作者の性風といふが如き客觀的のものに根據を托せんとするに至つたのではないか。而して此の傾向は更に發展して彼れが餘風を追うたといふ夫の、我が讀書社會に能く知られた英文學史の著者テーンに及び、遂に立派なる一種の客觀的標準を形成することゝなつた。即ちテーンが作者の境遇、時勢、人種の三標準を掲げて、是れで一切の作品を批評せんとしたのは、サント、ブーヴに見えた思想の同じ流れと見てよろしい。史家之れを呼んで科學的批評といふ。
さらば窮まるところ十九世紀の新批評は如何なる意義を有するか。豫期に於いては新批評家等は舊來の評價的基準的客觀的なる批評を根本から、破壞せんとした。併し結果は稍々豫期と異なるものであつた。何とならば眞の評價批評、標準批評、客觀批評は之れが然めに滅びず、唯其の地位を變じたのみであるから。而して所謂地位を變ずるとは、丁度哲學と科學との近代に於ける關係と同じく、始め先天批評から出立するに重きを置いたものが、後には後天批評から出立するを本意とするの形勢となつたことである。昔は「先づ理法を習へ、而して作品を之れによりて評價せよ」といつたのが、今は顛倒して「先づ作品を鑑味せよ而して其の中に理法を見出せ」といふに歸した。演繹から歸納に入つたものが歸納から演繹に入ることゝなつたのである。是れが概般の形勢から見て、近代批評の我等に教ふる事實である。
然らば斯くの如くして近代批評が求めんとする新標準は何であるか。
舊批評の標準は破れた。跡は批評壇の亂世とならざるを得ない。標準はたゞ主觀にあるべしといふ。要は其の主觀が完全なものでなくてはならぬ。主觀に受けたる印象のまゝを記すといふ印象派の批評も、若し不幸にして其の主觀が歪んだものであつた時は、舊批評の狭隘から來る弊と何の甲乙もない結果となるであらう。たよる所はたゞ主觀である。此に於いてか彼等は先づ其の主觀の完成に根據を求めた。批評上の歴史派比較研究派が廣く古今東西の文藝に通ぜんと要した一理由は此の意に外ならぬ。而も尚ほ無標準の批評界にはあらゆるものが跋扈し得る。偏狭なる個人の好惡、恩怨に基ゐする個人の愛憎、政治宗教等の相違より來る黨派心、是等のものが他の正しい標準と相班して侵入し來たるは誠に已むを得ぬ次第であつた。英國の十九世紀上半に於ける批評壇はまたよく此の事實を證明する。マシュー、アーノルドも指摘してゐる如く、英國評論壇の檜舞臺たりし『エヂンバラ、レヰ゛ュー』の自由黨に於ける、之れに對岐して起こつた『クオターリー、レヰ゛ュー』の保守黨に於ける、黨派の感情が當時如何に多く文藝の批評に累を及ぼしたかは人の知るところである。
されば到底批評壇は舊標準に代つて立つべき新標準を何れにか見出ださゞるを得ない状勢となつた。此の時にあたり、劃然異つた二つの重大なる傾向を代表して英國の批評壇に見はれたものがカーライルとマシュー、アーノルドとである。カーライルは人も知る如く英国精神界の豫言者と歌はれ、現在の社會に慊たらずして、新天地新文明を絶叫し、いはゆる文明の批評家指導者を以て一代の任とした人であるが、其の半面はやはり文藝の批評家である。
マシュー、アーノルドはカーライルに比すれば、後一輩の關係である。カーライルをして十九世紀の中葉を代表せしめれば、アーノルドは其の次の一ゼネレーションを代表する。但し彼れは一方に於いて當時詩壇の知識派といもいふべきものに重要の地位を有すると共に、純批評家としては、恐らく近代最大家の一人であらう。獨のレスシング、佛のサント、ブーヴと并んで近代の三大批評家とたゝへられる。
さて此の二人が代表するところの傾向を觀るに、カーライルは批評の最後の標準を實人生に求めんとし、アーノルドは之れを實人生より獨立して文藝そのものゝ上に求めんとする。カーライルに取つては、其の『英雄崇拝論』中ダンテ。シヱークスピーアを論じた條などがよく立證する如く、詩人と豫言者は同一である。美と眞理至善とは同一である。眞理を宣傳し新文明新人生を豫言する者が詩人でなくてはならぬ、兩つながらゲーテがいはゆる造化の「公然の秘密」に透入する者でなくてはならぬ。唯一は之れを啓示し他は之れを好愛せしむるの差あるのみ。されば詩人ダンテが大なる所以も亦此所にある。其の眞摯誠實にして深く/\胸の奧に徹する所が価價の源である。ダンテの濃厚熱烈は是れから來る。「ダンテは廣く寛なる心の人として我等に對するに非ず。むしろ狹く片寄れる心の人として立つなり。」「彼れが世界大なるは世界廣なるが故に非ずして世界深なるが故なり。」カーライルは斯くの如き見地に立つて批評を始めた。是れ批評の標準を人生そのもの文明そのものゝ上に求むるの思想ではないか。されば彼れは晩年に及ぶに從ひます/\此の傾向を強くして、『ラターデー、パンフレット』時代に及べば、文藝としての現在の文藝は彼れに半一錢の價もあらず。縄飛び踊り、オペラ踊り、街道流しの音樂と何の選ぶ所もなきものに、何で精神指導者の任が托されやう。一國の元氣精神は本來文藝によつて指導せらるべき筈である。文藝は一種の宗教でなくてはならぬ。と疾呼するに至つた。而して彼れみづから終には文藝批評の域から脱出して、純粹なる史家、文明批評家となり了つた。
アーノルドは其の批評論中「現代批評の職能」と題する文に於いて、有名なる批評の定義を下し「世に知られ若しくは考へられたる最好のものを知り且つ廣めんとする公平無私の努力」といつた。而して其の公平無私といふことを説明しては心を自由にして物みづからの本然の法則に從ふといひ、高く實際的見地、就中政治宗教の実際的見地より脱越せよといふ。文藝をして宗教たらしめよといふのカーライルに對して、高く實際的見地より脱越せよといふのアーノルドあるは、面白い照映ではないか。其の單に「最好のもの」といふは、何が最好であるかと問ひ得る限り無判断不完結の語たるを免れぬが、是れは新派批評の當初の沒標準的傾向が別な定義らしい言葉で殘つてゐるものと見てもよい。アーノルドの特色として必要な點は其の「感じ且つ廣む」といはずして「知り且つ廣む」といふ所に知識的配色を多分に有すること、及び其の「實際的見地より脱越す」といひ「物みづからの本然の法則に從ふ」といひ「公平無私」といふ所に客觀的傾向をあらはすことである。
此に至つて想ひ起すのは創作方面に於ける自然派、及びそれと相混じつてゐる「藝術は藝術の爲也」主義である。ブリュンチエール氏がアムパーソンネルといつたフローベール等が自然主義乃至之と連續したモーパッサン等が純客觀的描寫の「藝術は藝術の爲也」主義は要するに作品中から作者の個人格を拔き去らんとするものであらう。又「藝術は藝術の爲也」主義の他の一意味は之をして道徳上の實目的から獨立せしむるにある。而してアーノルドの説くところも結局は文藝を道徳上の實目的、若しくは評者の個人格から離れて批評せんといふに歸する。文藝は文藝みづからの目的法則に從つて判斷せよ、他より標準を〓(「ニンベン」+就)ひ來たる勿れといふのが中心の趣意である。アーノルドの説は批評界に於ける一種の「藝術は藝術の爲也」主義では無いか(彼れみづからは是れを認めざるに拘らず)。
要するにアーノルドは、文藝をして文藝みづからの標準に依らしめよといひ、カーライルは文藝をして實人生の標準に依らしめよといふ。思ふに是れが近代の批評に相矛盾して存する二大精神では無いか。文藝は文藝の爲めなりといふと文藝は人生の爲なりといふと、二つの思潮は決して遽に一を眞とし他を妄とすべきものではない。吾人は實に此の二つのものゝ抱和した所に文藝の極致を求めんとするものである。
文藝は文藝の爲めなりといふ語には内容の變遷がある。今若し其の第二句たる「文藝の爲め」といふ意を「美のため」と解するときは、美そのものゝ説によつても標準は變ずる譯である。而して其の變じて近代に及んだ諸意義のうち、顯著なものは快樂的傾向であらう。此の主義に從へば、文藝は結局快樂の爲である。英國近代の批評壇では、ウォルター、ペーター乃至今のセーンツベリー氏等の唱ふる所が之に歸趨する。同時に文藝は人生のためなりといふものにも變遷がある。功利の爲め乃至教訓勸懲のためといふ思想は、今は過去に屬する。近代の意義は人生最後の眞理と接觸するの謂ひである。文藝が快樂以外に求め得る最偉大のものは是れに外ならぬ。
快樂と人生最後の眞理と、近代の批評的精神が二途に分かれて相得んと爭ひつゝあるものは實に此の二者である。而して文藝上の快樂は萬境凡て同一味たゞ有りといひ無しといふの二斷あるのみ、所謂評價無し、大小高下無し。絶對的である。之れに反して人間の眞理は無限の階級を追うて發展する。文明の程度と相應じて變ずるを厭はぬ。相對的である。さりながら獨り此の眞理が文藝に入る時は、最後最上のものとなつて、しばらく絶對の相を着けなくてはならぬ。左なくば眞理は遂に絶対性の姉妹たる快樂と安全に巡り合ふことは出來ぬであらう。たゞ其の最後最上たり絶對たるの假相が所詮人間のものであるため、時と共に、人と共に、種々として動搖するをば免れず。即ち美の此の方面に於いて對比を許し評價を許す所以である。
重ねていふ、文藝の絶對的快樂と人間最後の眞理とは、何れの日か相抱和して不滅の淨光に此の世を包むであらうか。(明治三十九年六月)
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