目次

 

ドイツ近代の銅像彫刻

 

 

 

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    ルイ王家の夢の跡

 

      

 

ブールボン王家の榮華は三代にして亡びぬ。千七百九十三年、ルイ十六世がギロチンの露と消ゆるや、流れ淀みし斷頭臺下の血は、凝りて王者の恨と朽ちず。されど傳へ聞くだに魂《たましい》銷《き》ゆと覺ゆるは、十四世王が豪奢のさまなり。藤門《とうもん》平家《へいけ》の例は物の數かは、佛蘭西一國の富貴を身一つに荷ひて、全盛は歐洲二千年の歴史に并ぶもの無し。七十二年のあひだ人間の權勢悉く己れに歸して、「吾れは是れ國家」、藝術は以て己れを莊巖《しやうごん》すべく、劍戟は以て己れを誇耀すべし。ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の金碧裡に恒住の春ありて、羅綾の風、粉黛の香ひ、燕樂日夜を分かたず。ルイ大王が黄金《おうごん》の代《よ》は、まこと人生の夢に似て、而してのち二百年、明けがたの薄あかりする我等が世にも、輪廓あざやかに影を遺《のこ》すは夫の二百餘房の歡樂殿なり。されば安房宮の昔は知らず。主|亡《な》き榮華そのまゝの跡を訪はんとするものは、佛蘭西ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の宮殿に往け。

 

      二

 

ルイ家《け》三代の文明は、煥發して、ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の宮殿となれり。宮殿の全部は、やがて一彙の藝術にして、富麗豪華の態、眞に世界の何ものも以て比するに足らず。十七八世紀の歐洲の文華は、佛蘭西に精粹を萃めて、此の一宮殿に結晶せりと見るべし。ポツダムなる無憂宮の規模は、獨乙國民が示して世界の誇りとするところなれども、ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の原本に比すれば、氣品に於いて、はた技巧に於いて、同日の談にあらず。

ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の宮殿がブールボン家三代百餘年の間に於いて多少の變易増減を經たるは言ふまでもなし。ルイ十四世に驕妃マントノンあり。麗はしきこと雪の如く、冷やかなること氷の如く、舊教の狭隘なる情味に矯飾虚榮の色を塗りて、こゝに一代の風尚を作り出だしぬ。ルイ十四世期の文明は、此の意味に於いて一婦人マントノンの導くところ、彼の女もまた大いならずや。ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の藝術に其の風あるは、固より異しむに足らざるなり。

ルイ十五世の内廷には寵妃ポムパドゥア及びデュバリーあり。ポムパドゥアは絶世の美人と稱す。王官祿を以て之れを廷臣の妻たる身分より購ひ得て妾となす。宮殿は是れよりたゞ彼の女《じよ》が紅嬌翠艶の化粧の間《ま》と化し了んぬ。

さはれ是等は尚ほ言ふに足らず。ルイ家の一門悉く革命の浪に漂ひて、引く潮のあとに怪巖の如く聳へ立ちしは、ナポレオン一世の帝國なり。此に至りて、佛蘭西の藝術は明かに一轉化しぬ。ブールボンの文華衰へてボナパルトの文華起こる、ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の宮殿はまた此の對照をも示したり。

去年の夏、われ、ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]に過りて、其の建築裝飾庭園にルイ家の藝術を見る。所謂ロココ(Rococo)の一體是れなり、ルイ十四世の始めて此の宮殿を經營するや、一代の風尚はなほ大にクラシカルなりき。其の庭園の此の理を示せり。然れども其の建築内に裝飾を加ふるに及びて既に大に後のロココの風を成せり。或は之れをバロック(Barock)式と見る。畢竟やゝ原始的なるロココに外ならず。而してのち、マントノンの世はポムバドゥアの世となりて、茲に所謂ロココは其の發展の頂上に達せり。ロココは實にルイ十四世に發し、十五世に滿ちて、十六世に衰へたりといふべし。是れ其のルイ王家を代表するものたる所以。而して其のマダム、マントノンの爲に建てたりと傳へらるゝグラン、ツリアノン宮に入るに及んで、其處《そこ》にナポレオンの遺物と傳へらるゝ家具のかず/″\を見たり。當時おもへらく、何ぞ其の風致のロココと異なることしかく甚しきやと。我れはこゝに所謂アムピール(Empire)體と稱する一彙の藝術に接したるなり。ナポレオンの第一帝國成るや、建國の基礎もと武にあるが故に、音樂に軍樂の發達あり、建築に武器の裝飾あり。されど其の最も顯著なる時尚は、發して雄健の氣、英邁の態を帶びたる裝飾美術となりぬ。雄健の氣、英邁の態、之れを統ぶるものは力なり。力の發現、是れ實にナポレオン帝國の精神にして帝國式と稱する藝術の生命また茲にあり。帝國式藝術の標現は偉大なる力が暢達して無碍不撓なるの姿なり。

ロココに粉脂の氣、柔婉の態あらば、アムピールには、帝王、權を行ふの概あらん。我れは二つのものゝ對照に、言ひがたき味ひあるをおぼえたり。

 

       三

 

ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の地は巴里を去ること汽車にて略々一時間、ルイ王朝三代百餘年の帝都にして人口五萬を超ゆ。定規もて區劃したるが如き長方形の市街を、横に矢の根形に貫き來る三條の大路は、プラース、ダルメーの廣場に相會して、尖頭はすなはち宮殿の入口たり。宮殿の地域は凸字線をなして、矢の尖端は其の底邊の中央に接す。街衢の全觀、たとへば水干《すゐかん》の袖を張りて烏帽子を戴けるものゝ如し。烏帽子は宮殿なり、束帶の紐の垂れたるが如きは三條の王道なり。而して宮殿の背後はすなはち一面の大庭園、其の規模の大にして其の按排の精微なるは、眞に人の目を驚かす。後の自然式建築法に對して所謂古典式庭園の模範たり。

左翼の門を潜らんとして先づ足を返して此の廣大なる一廓の建物を展望す。中夏の空青く澄みて白雲の僅に其の一隅に漂ふところ、麗はしくも畫き出だせる凸凹の古典的輪廊は、左右に延ぶること婉々千餘尺、優に五萬の廷臣を容れて、居然としてまことに人間の天に驕る姿とも見るべし。されど其の高さの二層三層に止まるに比して横に房を連ね閣を並ぶるの限りなきや、全局の眼界おのづから天より壓せられて地に這ふものゝ形を成す。頭上に何物かの重きを戴くが如きは、此の建築の一瞥が與ふる感情なり。即ち些の重濁、沈欝の氣は之より生ず。中に不斷の歡樂を藏するの宮殿が、外形に於いて却つて此の對照を有するは奇といふべし。想ふに是れ、ルイ家全盛のはじめ、マダムマントノンが冷靜の風格をこゝに印するものか。

同じき情味は更に後庭の眺めに於いて明に認めらる。試みに宮殿の西の階《きざはし》に立つて眼を放てば、大いなるかな人の智巧や。翠嵐滴《したゝ》る樹林の間には、中央に一線の大道果つるところを知らず。是れより左右に或は直《なほ》く、或は斜に、枝線縦横に發して、而も均整方圓は必ず規矩によらずといふことなし。芝生あれば轡の形に小路《こみち》を切り、花壇あれば色を組みて鍵子の模樣となす。水あれば、小なるは之れを花瓣に象り、大なるは之れを十字架に象《かたど》る。紋所《もんどころ》に似たるは、角切《すみきり》、武田菱《たけだびし》、九曜星《くえうのほし》、幾何圖に似たるは大小等邊不等邊の三角形、辻は必ず圓形をなして、路の八方より會するもの車の輻《や》の如し。さしも廣濶なる庭園は、たゞ是れ花木水石を使役して織り出だせる一面の絨壇模樣なり。

されば此の庭園には、智巧ありて自然なし。それ智巧は常に劃一を意味し、均整を意味し、規律を意味して而して此の一面に限らるゝものは人間なり。自然はすなはち劃一の裡に變化多態を藏し、均整規律の上に放肆の趣、自在の形を有す。我等が人間の事に倦みて自然に之《ゆ》くとき、放焉として救はるゝが如く感ずるものは、實に此の變態自肆の新生命に觸るゝが故にあらずや。人爲の煩に堪えずして自然に還るものには、常に此の意義あり。

今ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]の庭園は此の變態自肆の一面を缺く、滿目すべて均整なり、劃一なり、之れが調子を定むるものは直線と鋭角となり。されば、明澄徹底の趣は是れあらんも、紆餘たり、雜然たり、朦朧たるの情致は此所に求むべからず。冷かなり、重々し。端嚴はあれども煙波の情に乏し、前人が之れを呼んで嚴刻なる古典式といへるもの、亦た此の義に外ならず。

而して此の端嚴明徹の底には、實に一味の哀傷潜む。夫れ端嚴明徹は我等が知識を窮むるの形なり。知識の到達せんとする形式は、如何なる場合に於いても端然井然として一明徹底なることなり。然れども我等一たび知識の之くところを窮めて洞然たるの後、靜に回顧反覆して其の達し得たる理路に習熟するときは、異しむべし、他が底心より更に微かに一脈の哀感を發し來たることを。言ひがたく微妙なる荒凉寂寞の感は、一見滿足ありて虧隙なきが如き知識の奧より閃き出づるなり。名づくべくんば是れ知識の哀傷か。我等は此所に至りて、天地の最深所に横はる矛盾の大塊に觸着せるなり。我等は知識のあらゆるものを征服せんことをねがふ。而も一たび征服し得たりと信ずるものは、之れに住するとき却つて寂寞の感に堪えず、哀傷は洞穴より吹き來たる風の如く我等を襲ふ。ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]宮殿の庭園は一たび見て端麗なり、二たび見て寥寂なり、三たび見て哀傷を惹く。

想ふ、其のいにしへ、宮中の夜宴曉に徹して、花の如く蝶の如き滿廷の士女、やうやく翠帳のあなたに疲れ去る頃は、初夏の空に殘月淡く、星薄く、庭の芝生に置く露の繁さ。此のとき窓に憑つて望むものは嬌瞼三分の眠を帶びて、明けがたの風に鬢の亂れを吹かす楊家の子、刀もて劃《かぎ》れるが如き後庭《こうてい》の大路《おほぢ》の末《すゑ》、霞《かすみ》にくろむあたりを眺め入りては、歡樂|足《た》んぬ、そゞろに新愁の我を誘《さそ》ふに堪えざりしなるべし。

 

      四

 

ヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]宮殿の外觀は、以上の説に盡く。傍門より入りて、室を巡ること階上階下すべて二百餘房、金粉《きんぷん》堆裡《たいり》を過《よ》ぎりては花を出でし蜂蝶の、身邊悉く黄に染むかと疑はれ、滿壁の畫圖、毎扉の明鏡に包まれては、顧望たゞ七彩の虹、徃返悉く日月の影、人をして路《みち》迷ひ眼《め》眩して出づるところを知らざらしむ。斯くの如きは、謂ふ所ロココ式建築の意を示せるものなり。我れは更に精しく此の絶富麗の藝術を叙するの前少しく之れが説理を加ふべし。

帝國博物館の編述に係る日本美術史は、我が日光廟を以て彼の土のロココ建築に比せりと記憶す。是れ固より何人も想ひ及ぶべき類似なるべく、一は廟宇、一は宮殿たるの差こそあれ、諸多の連想に於いて、まことに日光は我がヴヱルサイユ[#「ヱ」は小文字]たるに耻ぢずといふべし。但し此の場合に於ける建築式上の類似は、單に其が有する濃味の彼此相通ずといふに止まる。豐富を示し、華奢を示し靡麗繁縟を示すに於いては兩者一なり。

然れども、ロココが生命とする裝飾の樣式は此の外にあり。何ぞや、曰はく放肆なる曲線の疊用是れなり、之れを卷曲線の美術と呼ばん。

更に適切に之れを言へば渦紋、螺線、卷葉蔓草の濫用なり。形は悉く彎曲して、線は悉く婉柔自在、舒びて端に至れば、卷縮して必ず多少の螺状をなす。若し我が國に類を求むれば、渦《うづ》、浪《なみ》、雲《くも》、唐草の組織之れに外ならず。而して日光廟は其の堆金堆朱の臺に必ずしも唐草模樣の輪廓を用ひず。是れ其の樣式の異なる所以なり。

今ロココの由來を考ふるに、其の名は佛語のロカイユ(Rocaille)より來たりて、螺状裝飾を意味し今は世に飽かれて、殆んど陳腐俗惡といふ語と同義に見らる。其の樣式に至りては、之より先き十七世紀にバロック式あり、端をミケランゼロが一側の技巧に發して末流の弊は輕快活動の線を用ふること漸く度に過ぎ、典雅平靜なる古建築の威容次第に崩れ行きぬ。ロココは實に此の脈を引けるもの、されば或は之れを以て直ちに佛蘭西化したるバロックに外ならずとするなり。

 

      五

 

凡そ建築裝飾の如き美術に於いては、色彩の外、美の材料となるものは專ら線にあり、而して線は如何なる形に於いても、曲直の二つを離れず。

金を楹《はしら》に泥《でい》し、朱を榱《たるき》に塗り璧《たま》を〓[#「王」+「當」]《たるきじり》に埋むるが如きは、色彩によつて美を成さんとするものなり。塔の圓きもの、尖れるもの、壁は横に劃り、階は斜に渡す。此等のものが畫き出す輪廓の美はすなはち縦横曲直の線の配合なり。直線は常に沈靜を意味し、威巖を意味し、清涼を意味して、色ならば青を以て譬ふべき性を有す。曲線が與ふる感銘は活動なり、輕快なり、温潤なり、紅色を以て之れに比すべし。

建築が最も多く有する美は直線的なること言ふまでも無し。建築の威容は多く之れより生ず。されば、バロック式よりロココ式に及んで、裝飾に曲線美の應用せらるゝこと其の極度に達するや、柱に、桁に、長押に、累々として堆《うづたか》きものは蔓草の形なり、卷葉の形なり、螺背の形なり、渦紋の形なり。建築本自の柱や長押やの力ある直線は悉く之れが爲めに蔽はれて、輕浮滑脱の曲線のみ表面に蔓り來たりぬ。其の標象するところ察すべきにあらずや。

今渦紋状の卷曲線が殊さらに斯く寵用せらるゝに至りし起原を考ふるに、夫のカーツーシュ(Cartouche)といふものと通ずる所あるに似たり。而してヴォリュート(Volute)といひ、スクロール(Scroll)といふもの、また皆カーツーシュと相通ず。蓋しカーツーシュは、上古埃及人が用ひし羊皮紙類の貼札《はりふだ》のさま/″\に刻みし縁《ふち》のあたりおのつから卷縮して、横斷面より之れを見るとき、一種の卷曲線をなすに基づくといふ。されば夫の建築史上にアイオニック式と稱する圓柱の柱頭には、明かに此の起原を想像し得るの裝飾を用ひしもの多し、譬へば一紙を展べて其の兩端を援く下方に卷き放ちて之れを柱頭に冠したるが如きもの是れなり。

然るに下つてコリンス式圓柱の行はるゝに及べば柱頭のカーツーシュは中央より折れて二線と成り、恰も尖端を外《そと》に卷きたる對生葉の如く、はた百合《ゆり》の花瓣を抱き合せたるが如きものと展開し來たれり。是れをアイオニック期に於いて單に直横線の兩端卷縮せるに止まりしと比すれば、媚態幾ばくを加へたるかは、言はずして知られん。後世ロココ式裝飾の中に濫用せられし卷曲圓線は、此に至りて形を成せるなり。啻にロココのみならず、あらゆる樣式の曲線裝飾に於いて、最も寵用せられしもの此の卷曲線の原理に如くはなかるべし。

 

      六

 

また等しく卷曲線の原理といふも、或は對生葉に似たりといひ、百合の花瓣に似たりといひ、或は蔓草の手に似たりといふ。之れを夫の水の渦卷くに比べて渦紋といひ、螺《ほらがひ》の背に比べて螺線といふに對すれば、其のあひだ截然として意義の變遷あるを認むべし。後者は尚ほ多く線條其のそのものに執す、生きたる自然の形似に近づけるの度甚だ微少なり。『意匠の理論及實技』の著者英のジャクソン(F.Jackson)氏は裝飾美術の元素を分かちて幾何學的、建築的、工業的、植物的、動物的、人間的とせり。若し此の分類に從はゞ卷曲線は其の初め專ら幾何學的若しくは工業的より起こり、植物的形似に達して、其の繁盛を極むるものといふを得ん。蓋し幾何學的とは、單に線條の組み合はせに美を求むるの謂なり。工業的とは諸器具類の形似に意匠を藉るの謂なり。植物的とは植物の枝葉花莖に圖案を托するの謂なり。之れを水の渦卷くに譬へて渦紋と呼び、之れを螺《ほらがひ》の拗《ねぢ》れたるに譬へて螺線と呼ぶのたぐひは、其の譬喩的稱呼が自然物の形似を示すにも拘らず、必らずしも實の渦《うづまき》實の螺《ほらがひ》を聯想せしむるが爲に美なるにはあらず、意匠の源は單に其の動いて窮まらざるが如き曲線の一種特殊の進行に存せり。是れ其の幾何學的なる所以。ただ之れを貼札の卷縮せるものと見るのカーツーシュに於いて、僅かに器用工業の上に美の一源を發せしめんとするの意あるを見る。何とならば卷縮せる貼札は一の器具にして此の形を聯想するとき、そこに單なる線條以外の興味を發し得べければなり。また我が邦に雲の卷舒を摸したる雲文といふものあり、浪の頭《かしら》に擬したる返浪《かへりなみ》といふものあり。是等は夫の渦紋、螺線に比して、一段多く自然の形似に近づけるものなれども、なほ植物形の卷曲線よりも多く幾何學的か、然らずんば逸して模樣の外に出で繪畫の域に入らんとするものに似たり。以上の理によりて我れは卷曲線裝飾をまづジャクソン氏のいはゆる幾何學的乃至工業的境域にありしものと見んとす。

之れに植物的標示の加はりしは何の時代なるか、今得て明にすべからずといへども、其の決して新らしきことにあらざるべきは、早くすでに上古のコリンス式圓柱、乃至溯つてはアイオニック式圓柱の或るものにすら之れが應用を見るに徴して察せらる。されば今日にありては、植物的原理もまた始より此の種の裝飾の基礎の一となれりと見るを可とすべし。啻に一基礎たるのみならず、今は之れを以て幾何學的、工業的原理を壓し去りたるものと見るも不當ならざるに至れり。我が邦に唐草《からくさ》模樣《もよう》の稱あり、最も此の意を標するに適せるを覺ゆ。

さらば斯くの如く幾何學性の卷曲線裝飾が其の内容を展開して植物性の卷曲線裝飾となりしには如何の意義ありや。普通に裝飾圖案の要素を分かつときは、上の幾何學的と呼べる無意味無標示の圖紋と、意味あり標示ある自然物の模寫より成れる模樣との二とするを例とす。之れを我が邦の紙門《ふすま》の模樣に徴せんに、其の方圓さま/″\の紋樣が或は井桁に、或は巴に、單に紋樣として描かれたるは幾何學的なり。進んで線を薄《すゝき》に象り、圖を姫小松に作り、雀を散らし、鳩を對《つひ》するが如きは模寫的なり。卷曲線の植物性を帶び來たれるは、此の模寫的裝飾の部に入れるに外ならず。而して模寫的圖紋の最も重要なる特色は、其が自然の有機物に象《かたど》る所ある點に存す。有機物はやがて生命あるものなり。生命!、實に此の一義を加ふるにより圖紋美術は別箇の新彩を發し來たるにあらずや。

我が見るところを以てすれば、植物、動物、人間の三界にわたりて、有機物中最も形式の勝てるを以て直ちに圖紋模樣等の形式美術と調和し得るもの、換言すれば、生命はありながらも、生命が未だ甚だしく其の物體の線形、色彩等を壓するに至らずして、色彩や線形やの外觀が直ちに生命の標示たるもの植物に如くは無かるべし。動物以上にありては其の名の標する如く、動といふ一現象が中心意義として表はれ來たり、他の諸形式をば注意の燒點より押しのくるの感あり。言ひ更ふれば、動物に於いては、單に其が色を見、線の輪廓を見たるのみにては、直ちに生命と聯想するを得ず之れに動くといふ一要素をたしかめ得て、始めて滿足するなり。よし極めて微妙なる線形、色彩の特徴によりて、其の生命の如何を見得る場合はありとせんも此の如きは以て粗大なる圖紋美術の摸し得るところに非ず。強いて之れを摸せんとすれば、走つて繪畫の領に入る。此等の困難以外に立つものは植物なり、我等は、草木花〓[#「クサカンムリ」+「卉」]に動を豫期せず、たゞ其の延びたる枝葉幹根の形式乃至其の色によりて、彼等が有する生々の氣に接す。是れ其の形を摸して生命を聯想せしめ易き所以なり。且つや植物の形似に於ける曲直線の表象は、比較的に簡易單純なり。例へば種々なる葉の周圍は種々なる曲線の配合にして而して其の曲線はたとひ多少の變形を受くることありとも必ずしも以て其の草木が有する生命の表象を失ふには至らず。之れに反して夫《か》の人體の面を劃れる曲線の如きは、一分一厘の微といへども、之を變ずることによりて其の體の生命を疑はしむるほどに鋭敏なる表象を有す。是れより推せば、いちぢるしく線形の變形を要する圖紋美術には、植物の形似こそ最も攝取し易き材料にして、動物の形似は之れを圖紋化するの頗る困難なるを見る。

 

      七

 

總じて圖紋美術の原理は美學上稱するところの形式美の原理なること言ふまでもなし。而して形式美の原理は之れを一括して變化の統一(Unity in Variety)といふ一語に簡示するを得べし。或は線を用ひ或は色を用ひ、或は形を用ひて、種々の圖樣を描くものあらば、其の種々の線、種々の形はやがて變化なり。すでに二個以上のものありて、加ふるに此等は地位形態一ならず、變化にあらずして何ぞ。然れども、此等多態變化の形象は、決して無制限に雜多なるべからず、必ず如何なる邊に於いてか劃一せられ統一せられざるべからず。部分は雜多なり、されど全體にわたりて一定の規律あり、是れを變化の統一といふ。圖紋が美術の性を帶び來たるは此の理に合すればなり。

然れども斯くの如き原理の下にある圖紋は、他の姉妹美術と同じく、おのづから二つの相反せる方向に馳せんとす。一は其の原理の半面たる變化に重きを置くものなり。變化を先にするものは、自由を喜び、不規律を喜び、自然の物象は凡て必ずしも赤裸々の統一性を表せず、一見全く不規律なるが如く見ゆるところに其の妙あり。是れ、自然物を模寫すれば、其の形圖は多く自から變化勝ちて統一性に乏しき所以、前にいはゆる模寫的圖紋は、來たつて茲に美を求めんとするに至る。日本の裝飾美術に此の傾向の著しきは何人も容易に想ひ到るところなるべく、花草を描き、鳥魚を描くも、すべて之れを原形の自由なるに象りて、たゞ僅に圖紋美術の必要性たる統一の意を點す。されば日本の模樣圖は、模樣化したる花鳥にあらずして、花鳥化したる模樣といふを適當となすの觀あり。西人にして此の理を考へたるものゝ一例は、夫の『生理的美學』を著して近世の美學界に一紀元を作れる英のグラント、アレン氏が千八百七十九年の雜誌『マインド』に寄せたる文中に見るを得べし。其の要に曰はく、均整(統一といふも同理)といふことの快味は知識の滿足に萠す、理解を助くといふこと是れなり。又斯くして此れを喜ぶの情は遺傳的に集積して一種の愛着の情となり、此の情の滿足みづからも快味の一源となる。また斯くの如きものを産する人の熟錬を嘆稱するの情も同一理に歸すべし。之れを總括して均整統一の快味といふ。然れども均整の快味に慣るゝ時は厭きて一種の反動を生ず、規律を幼穉として不規律を喜ぶの情是れなり。昔者希臘人は早くすでに模寫美術、裝飾美術の區別に於いて、此の反動を模寫美術の上に示したり。更に極端にまで此の意を示したるものは日本の美術にして、日本人の自然を寫すや、先づ其の不規律の方面に筆を着け、進んでは裝飾美術にすら此の方法を用ひたりと。變化の一面を過分に愛するの趣味が、果たして統一を過重する趣味の反動として起れるものなりや否やに就いては、尚ほ大に論あるべしといへども、日本の裝飾美術が西洋のそれに比し、一見別樣の觀あるは實にアレンの言ふが如き事實に基づくなり。形式美の原理中、統一の方面よりもむしろ變化の方面を顯著にして、裝飾美術より模寫美術に之《ゆ》くの中途にあるが如きもの、我が模樣類の特色たるは爭ふべからず。之れに反して、統一を先とするの圖紋は、よし自然物の模寫に其の形を發することあるも、而も統一といふ約束のために多大の制縛を蒙りて、自然物が有する自由奔放の態を失ひ、固滯して生動の致なきに至る。余りに規律あり、余りに整然たるなり。夫《か》の、始めより全く幾何學的なる圖紋類、たとへば龜甲形といひ、綸子形といひ、萬字といひ、雷文といふが如きは、瓣ずるまでもなし、形を植物に取りたるものにすら、此の傾向あるもの少なからず。十六の菊は菊の花に則り、五三の桐は葉と花とに則れりといへども、其の模樣化して均整統一を重んずるの結果は、殆ど模寫の原意を沒して、幾何學的圖樣と成り了りたり。其の他斯くの如く全然有機的本性を沒却するをも厭はず、單に模樣圖案を自然物中より探り出ださんとするに於いては、進んで之れを動物の形に求むるも容易なるべし。蓋し動物の形は概して均整的規律的なり。植物に於いては我等は其の不規律的なる點に自然の生命を認むれども、動物にありては、却つて規律的なるを自然と見る。若し樹木にして左右全く均等に枝葉を發したるものあらば、人は之れを不自然にして造り物の如しと感ずべけれど、魚鳥の形ありては、左右畧ぼ均等ならざれば不自然と呼ばれん。色線等の幾何學的形似よりいふときは、植物界の支配原理は變化にして動物界の支配原理は統一なるを見るべし。

 

      八

 

然らば統一的なる動物の形似は、同じく統一を生命とする模樣圖紋の材案として最も妙なるべきの理なれども事實は之れに反すべし。蓋し圖紋が幾何學的立脚地より離れて模寫的立脚地に接せんとするの動機は、アレンの所謂單調幼穉なる均整に厭きて、之れに不規律自然の趣を加へんとするにあればなり。即ち統一を生命とするものが、之れに變化を加へんとするなり、模樣が繪畫の姿態を着けんとするなり。從つて單に形似よりいふときは、動物よりも寧ろ此の點に自由なる植物を取るを便とすべし。動物の形は之れを淺く寫すときは均整統一の意には調和し易きも、自然の生趣を失ひて、殊さらに之れを借り用ふるの本意に違ふを如何にせん。また之れを寫して深く其の生命に觸れんとすれば、已に高遠に過ぎて模樣圖紋等の形式美に止まるに堪へず、逸走して寫生本意の繪畫に投ぜんとす、紋樣美術の約束を破るなり。要するに模樣と繪畫と、若しくは形式美と内容美との混和に最も恰當なるものは、植物程度の自然物なるに似たり。

模樣が、繪畫の分子を混和して、統一裡の變化を自由にせんとするの意は、また靜的趣味に動的分子を加味せんとするにあり。統一といふ現象に對しては、人心は常に靜止に近き態度を持つ。凡て領會し、徹底し、結了せる形は統一なり。我等の意識作用が、一たび斯くの如き域に達して、之れを反覆するときは、慣れ滑りて漸く其の活動力の消費を減じ、茲に靜止の状に近づき行くは何人も輕驗する所の事實なるべし。此の際之れを搖り興こして、新たなる活動に導かんとせば、其の結了し徹底するまでの過程に曲折を加へて、意識をして容易く駛走せしめざるに如くはなし。變化多態にして、各部の經過にも多分の活動力を要するが如くならしむるを妙とするなり。變化を豐富にし自由にするの義これに外ならず。動の理また茲にあり。

而して此の如き變化と統一と、動と靜との美學上の原理を、最も簡單に標出するものは二個の線なり、所謂曲線と直線と是れ。

直線は統一を意味し靜的を意味す、蓋し線のうち最も單一にして力を要せざる進行の形を標せるものは直線にして、從つて其の印象は冷靜、明徹、威巖といふが如きものならざるを得ざればなり。曲線は之れと異なりて、すでに二個以上の力の協同を意味し、直線の靜的なるに比して遙に動的なり。我等の是れに對するも、直線のひたすらに無碍なるものを追ふとき、突として彎曲したる線に移ることあれば、茲に一種の刺戟を感じて、將さに靜止に入らんとせし注意力が、遽然として活動し來たるを覺ゆべし。之れに反して、若し曲線より直線に移るときは、其の結果また相反す。要するに曲線には常に努力の意識を伴ひ、直線には休止の意識を伴ふ、一は動的にして他は靜的たる所以なり。

而して此の如き意義ある曲線を比較的自由に表はすものは植物の形似にして、植物の形似を、或る度まで生動の原意と共に傳へんとする圖紋は、實に唐草《からくさ》模樣の類に外ならず。唐草模樣が有する原理の價値察すべきに非ずや。

唐草といふ稱呼については、古來|絡《から》み草のみの字の省かれたる名なりといふ説あり、此の説に從へば、から草とは蔓草といふ義に外ならず、然れども他方より觀るときは、夫の唐紙《からかみ》唐繪《からゑ》等と同じく、支那より渡來したる珍しき草模樣といふ義ならずやとも想像せらる。稱呼の起源はしばらく何れにありとするも、此の種の裝飾模樣が我が國にては如何なる時代に如何にして現はれたるか。同一原理に基づける類型模樣にて、必らずしも草ならざるもの、例へば前來しば/\いへる渦紋、螺線乃至卷雲の形等の何れが先なるか。古き建築物乃至經卷類の金具、梵鐘の縁飾《ふちかざり》等に彫《ほ》られたる唐草《からくさ》、蕨手《わらびて》、渦《うづ》まきの類が古きか、將た狩衣地、錦、緞子等の織物に見えたる雲菱《くもびし》、龍膽《りんどう》、唐草《からくさ》、蔓牡丹《つるぼたん》などいふものが古きか。此等は全然支那より輸入せるものか將た我が國自發のものか、そも/\兩源相合したるものか。若し其の起源を支那にありとすれば、之れと西洋との比較、關係如何。すべて此等は趣味深き別箇の研究題案たり。

 

      九

 

而して如上諸圖紋の根本原理は卷曲線といふ事なり。夕映の空にさま/″\なる雲の卷舒を見、若しくは河中の水の渦まき海邊に浪の道まくを見て、こゝに卷曲線圖の落想を得るが如きは、稍々稀なる場合なるべしといへども、紙片、葉端、花瓣等の卷縮せるを見て、卷曲線圖の工風を案出するが如きは、むしろ頗る自然の順序ならんか。さらに進みて、蔓草の一莖生じては卷彎し一莖伸びては卷彎し行くさまに想を托するに及べば、卷曲線の原理は十分の發展をなせるものといふべし。

さらば、卷曲線の原理とは何ぞ。古來線の美に論及したるものゝうち、曲線美について最も重要の説をなしたる者は、『美の分解』の著者英のホガース(W.Hogarth)なるべし。彼れは、形式美の原理たる變化の統一を以て、美一切の原理とし、之れを一種の曲線に代表せしめて、以て就中裝飾美術について巨細の論をなしたり。之れをホガースが美の線の説といふ。要は波線若しくは蛇線で描いて、其の二個以上の曲線の連續せる所に變化の意を尋ねんとするもの、ホガースみづからの語を藉れば、美の最要素たる複雜葛籐(Intricacy)を之れによりて標示せんとするなり。

曲線の連續によりて複雜なる一切の美を説明し去らんとするの難事たるは言ふまでもなけれど、之れによりて形式美の一面たる變化活動の理を標示するの思想は、注目に値するものたり。また『裝飾意匠の原理』と題する書を著はせし英のドレッサー(C.Dresser)氏が楕圓曲線の説に以爲へらく、楕圓線が正圓線よりも美なるは、正圓線が一中心點に發するものなるに反して楕圓線は二個の中心點を有するがためなり。言ひかふれば一個の出立點を有する曲線よりも二個の出立點を有する曲線が、之れを考察するとき意義複雜なるの理なればなり。從つて楕圓線は更に三個の中心點を有する卵形曲線の複雜なるに如かずと。是れまた曲線美の説明に於いて注目すべき思想の一たるべし。

我等は以上の説より更に一歩を進めて、卷曲線の上に同一の原理を認めんとす。之れを例へば、蕨の芽、浪の頭《かしら》の如き圖紋は、其の軸に於いて直線若しくは非常に鈍き曲線をなし、其の頂《いたゞき》に及びて急遽彎卷して、而も圓《ゑん》に還らず、次第に其の彎曲の度を急にして、こゝに二個以上の中心點を有する曲線が、不即不離の微妙なる關係を以て連結するの状を呈す。其の意義、夫の卵圓線よりも更に複雜なるを見るなり。蕨の芽、浪の頭が、枝を生じ脈を分かち、且つ伸びては且つ卷曲して窮まるところなきの觀を成すものは、即ち一層複雜なる唐草模樣の原理なり。卷曲線の美は茲に至りて十分の展開をなせるものといふべし。

此の點を超ゆるときは、形式美の原理盡きて、内容美の原理其の作用を始む。すなはち、寫生の意を援《ひ》き來たりて、模樣の中に繪畫の味を點加するなり。而して唐草模樣の多くは、また此の原理をも適度に包含す、其の謂ふところ成長の原理(Inflorescence or Principles of Growth)を加へたること是れなり、植物が根より長じ行くの姿を攝取したること是れなり。植物に象りたる殆ど凡ての卷曲線圖には、如何なる形に於いてか其の根を標すべき區劃線を加へて之れより上騰し行くといふ、成長の意を明にするを例とす。卷曲線圖は、此に至りて啻に其の線形を蔓草に似するのみならず、其の精神をも蔓草に擬して、以て生動の氣を着け來たるを見る。一彙の卷曲線の理はしばらく茲に盡きたりとせん。斯くの如きものを堆積したるヴェルサイユ宮殿の樣は如何。

 

      十

 

幾變遷の後のヴェルサイユは、一箇の美術宮たるに過ぎざれども、其の昔は、眞に情海無限の波瀾をこゝに寄せたり。庭の構へは冷《つめた》きまでにクラシカルなり。膨らみに微妙の線を見せたる古代の石瓶、冷靜の美を希臘に寄せし大理石の彫像、此等のものを點綴せる道は悉く直線にして、此所《ここ》に逍遙せる宮人等が、肉を暴《あ》らし情を暴《あ》らしたる蒼白の顏には、歡樂の底より湧き出づる荒凉の感、隱すべくもあらず。

然れども、一たび紅緑の帳《とばり》を掲《かゝ》げて内裡《だいり》に入るときは、光景おのづから一變す。冷靜沈重の威あるすべての建築的直線は、漸く注意圈外に墮ちて、視界に進み來たるものは、彫《ゑ》りたる裝飾、塗りたる裝飾の堆積なり。中にも長押《なげし》に、柱頭《カピタル》に、額縁《がくぶち》に、累々として彙をなし房をなすものは、夫の卷曲線形にして、卷曲線形のあるところ、金粉狼藉、碧堊を照し、紅帷に映じ、燦爛として我が顏も輝くかと異しまる。すべてこれ歡樂圓滿の姿なり、粉脂温柔の氣、歌舞周旋の態、到るところに充ちたり。壁に名畫を懸け、床に名器を列ね、柱に彩紋を施し、天井に神仙を刻む。二百の房子之くとして是れならざるはなし。人間富貴の家も亦た極まれるかな。

 

      十一

 

中央正面の階上に、幅六間、高さ七間、長さ四十間に余るの一室あり。淨玻璃の間(Galerie des glaces)と呼ぶ。室内一切の裝飾は此の宮殿と共に一代の文華を代表する名畫工ラブリュンの意匠に成りて、當代美術の粹を集めたりと稱せらる。天井の區界長押まはりの凸凹線等に、尚ほ必ずしもロココならざる趣味はありといへども、全局に漲れるものはロココの風潮なり。此の室、庭に而して十七個の大窓を開く。窓の高さ三間に余り、幅之れにかなふ。白玉を溶《とか》したるが如き日光の窓より汪溢して正面の壁に達すれば、こゝには柱間悉く大玻璃鏡を掲げたり。埋め木の床また精磨したる一面の玉の如く、走るものをして直ちに滑り且つ倒れしむ。日光この間《あひだ》を、左往右往に照射して、身はたゞ大光明の中にありと感ずるの外、何事をも思ふの遑《いとま》なし。柱はすべて碧、黒の大理石にして、磨き出だせる自然の理紋は、或時はしよろ/\流れの水の跡、或時は曉の空に棚引く横はた雲、或は蔓の如く延び、或は蟲の如く這ひて、こまやかに其の面を飾れり。畫幅を箝したる圓天井は、虹の如く其の脚を垂れて、脚のつくるところ、簇々として群り起こる彫刻彙は、多く形に於いて卷曲、色に於いて黄金、柱頭以上の壁面は之れに蔽はれたり。コリンス式の柱頭、窓のアーチの花環、見るとして黄金の光り饒《ゆたか》なる卷曲線にあらざるはなし。されば此の淨玻璃の間《ま》に緩舞の裳《もすそ》を飜《かへ》したる當年の宮女等が、其の風俗に於いて、浮誇の粧ひ殆ど人間の自然にあらざるが如き狂態に陷りて異しまざりしもの、まことに故あるかな。

 

      十二

 

淨玻璃の間《ま》に隣して大きさは其の十が一とも見るべき一室あり。ルイ十四世の寢室にして、彼れが臨終の寢床も今なほ舊のまゝなりといふ。蓋し王者の富と力とによりて、あらん限りの善美をつくせる此のヴェルサイユ宮殿に於いて、更に其の華奢の極點を示したるもの、此の室の如きは無からん。此の意味よりすれば、ルイ十四世の寢室は、またヴェルサイユ宮殿の眼目ともいふべきなり。

室に入ればたゞ見る、中央に逞しき金塗《きんと》の欄を横たふ。蓋しルイ大王の遺物を保護せんがため、後世の構ふるところ其の彼方《あなた》に一基の寢臺を安置せり。ルイ十四世が七十二年の長き王位の後、千七百十五年九月一日を以て安らけく此の世の眼《まなこ》を閉ぢしはこゝなりといふ。深紅《しんく》の帳《とばり》を深く絞りて、上には天葢に淡紅淺緑の彩帷を垂れ、崩るゝばかり盛り上げたる卷曲葉の彫刻には、金粉を恣《ほしいまゝ》に堆《つい》して、指頭を觸るれば指頭も埋もるゝかと疑はる。右に暖爐あり、縁《ふち》は金粉と唐草となり。其の奧に數尺高き燭臺を置く、また黄金と卷曲線となり。畫幅の縁《ふち》、柱の頭《かしら》、長押《なげし》の上、扉《とびら》の面、色として金色《こんじき》ならざるはなく、形として卷葉蔓草にあらざるはなし。我れの始めて此の室に入るや、見ること暫時にして眼眩《めげん》し氣暈《きうん》するの感に堪えず、終に長く留まるを得ずして出で去りぬ。あゝ是れルイ王が空しき榮華の跡なり。

 

      十三

 

風物の遷らんとするや、ルイ王の富貴、ポムパドゥアの驕奢を以てするも、ヴェルサイユ宮殿をして長く美術の宗たらしむる能わず。其の繊細婉柔に對する反動の機は、早く十八世紀の後半、ルイ十六世が頃に萠したり。ルイ十四世は十八世紀の始めに死せりといへども、ロココ式美術はむしろルイ十五世の寵妃ポムパドゥアの生涯と終始して、十八世紀の後半に其の衰微を示せるなり。さればまたロココ美術の運命はルイ王家の運命にして、ナポレオン一たび之れに代つて起つや、反動の氣勢は所謂帝國式美術となりて第一帝國と共に興こりぬ。

ロココに對する反動は第二のクラシシズムなりき。一旦卷曲線の下に隱れたる建築的直線が、其の沈靜の威容を呼び返して、再び表面に顯はれ來たらんとせるなり。而して古典的といふが中にも、希臘よりはむしろ羅馬に心を寄せて、一切の事、羅馬帝國の昔に式せんとせしは實に、ナポレオンの理想にしてまた其の期の文明なるべし。羅馬式といふものゝ委細は今こゝに論ずを得ざれども、希臘の後を受けて、典雅沈靜の中に一味の雄健を加えたるものは、其の主なる特色なるべし。支配の氣、帝王の相はあらゆるものに影を宿して、威力といひ雄大といふことを其の生命とするに至れるなり。是れ社會國性のおのづからの發現に外ならず。而して歐洲統一の覇圖を有せるナポレオンの人格は之れと歸を一にす。彼れが羅馬帝國の古に式せんとするの好尚は、當時の藝術に影響して、第一期佛蘭西帝國の下に帝國式の一體を生ずるに及べるもの、亦た宜ならずや。帝國式美術について稍々精しく論ぜるものには、獨のカール、ロスナー氏(K.Rosner)が『十九世紀裝飾美術』と題する書あり。此の體の美術を標して、威力、單一、適當の三語につゞめたるを見る。

 

      十四

 

ヴェルサイユ宮殿に遊ぶものは、また必ず之れと隣りしたる大小のツリアノン宮殿に過《よぎ》るならん。其の大ツリアノン宮に於いて、我れはロココとアムピール、ルイとボナパルトの對照を見るを得たり。

グラン、ツリアノンは既に述べたる如く、固とルイ十四世がマダム、マントノンの爲めに建てたる小宮にして、其の尚ほ平明なる古典式建築の面影を存するところ、多く後の風氣に感染せざるの藝術たり。中にナポレオン一世の遺物を保留したる一室あり。彼れが用ひし寢臺は、以て前のルイ十四世のそれと對照すべく、其の他、椅子に卓子に、ある限りの什器は一種別樣の色調を有して、ヴェルサイユ宮の靡麗の藝術に馴れし眼を新たにす。

ナポレオンの寢臺は其の臺の輪廓、截りたる如き方形にして、頭尾の楯の内面に用ひたる卷曲線は細麗の風を避けて、數尺たゞ一卷曲の雄勁なる趣きを寓したり。金《きん》を泥《でい》すべき所に一面の木地を見せ、圖紋を要する處には直線を以て劃りたる中央に唯《ただ》一《ひと》つの卷曲線圖を施して堆積累重の臭味を脱せり。之れを要するに金粉を用ふること漸く濫ならず。鋭き直線は凡てのものゝ輪廓直線は凡てのものゝ輪廓を支配して、圓かりしものは多く方形となりぬ。全面にわたりて小卷曲線を堆積せしもの、今は之れをたゞ一の大卷曲線にして雄健の致を添へ、若しくは之れを中央の一彙に減じて純潔單一なる品位を貴ぶ。其の印象は高貴なり、英邁なり、帝王の氣を帶びたり。

後のマホガニ細工または我が欅細工の類に似て、橙黄色の木地を磨きたる中央に無造作に黄金の圖紋を置き其の他には周圍の直線の外何ものをも配合せず、たとへば我が漆器類に菊桐または三葵《みつあふひ》の金紋を蒔繪したるが如き高貴の風あるもの、茲に見えたる裝飾の特徴なり。總じて我が紋章といふものに一種の韻致あるは其の多く曲線を用ひたる圓形圖なるに拘らず、規律を持つこと巖に、且つ之れを累積して濫《らん》に流ることなく、婉曲を整々の中に保つの微妙なる調和あるがためにあらずや。

 

      十五

 

帝國式美術は、斯くの如くロココに對して清新なりきといへども、何ものか長しへに清新なるを得べき。此の體もまた時勢の遷移には抗し得ず、やがて過去のものとなり了んぬ。ロスナー氏は、此の體の美術を以て千七百八十年より千八百二十年に亘りて行はれたるものとなす。千八百二十年はナポレオンがセント、ヘレナに死せるの前年なり。其の他は、ロココ以後の美術を以て一に古典式復興と概稱するもの、又はルイ十六世に己に此の氣勢ありしが故に之れを古典的ロココ時代と稱してナポレオン期はたゞ其の連續たるに過ぎずとなすものあり。我れは帝國式に一期を劃するの説を採れり。而して千八百二十年頃より後の古典的美術は、羅馬より更に希臘に溯らんとせりと稱せらる。

嗚呼ルイ家とボナパルト家と一代の氣風はまた其の代表者の運命なり。文藝も亦た往々にして之れと消長を等しくす。王者逝いて藝術も其の墓に葬らるといふもの、ヴェルサイユに於いて其の理を見る。(明治三十九年九月)

 


 

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目次

 

ルイ王家の夢の跡|一

 

 

 

近代批評の意義