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明治四十年十月二十日、予が母校早稻田大學は、創立者伯爵大隈重信氏の銅像を建てゝ其の除幕式を行つた。予も亦た大典に參し得た一人として試に歐洲近代の銅石像彫刻に關する趨勢を述べ、以て當日を紀するの意に代へやうと思ふ。
蓋し歐洲に於ける近代の立像事業はドイツにあつて最も盛んである。此の國が新興の勢にまかせて專心一意、内に智と富との充實を圖ると共に、國民傳來の強烈な祖國的觀念で巧に之れを集散する結果は、發して外に見はれるもの、概して誇耀盛裝、修飾して以て國を美にせんとするにあらぬは無き趣を呈する。街衢、建築の外觀から、庭園、車馬の設備に至るまで、およそ新代の技術、新代の文明で成し得るもの、乃至新代の富によつて購ひ得るものは一つとして之れを逸することを欲せず、汲々として備へて至らざらんことを恐れる。かやうにして新代文明の光華は、燦然として此の國に輝く。此の意味でドイツの美術工藝は最も觀るに値するのでドイツに銅像石像等の見るべきものゝ多いのも一つは此の理に外ならぬ。啻に見るべきものが多いのみならず、見るに足らざるものも亦た多く、凡秀相混じて數の上に先づ此類のない盛觀を示した。學者、文藝の人、軍人、政治家、およそ傳へて國の誇りとするに足るもので、彫像によつて紀念せられないのは稀れである。ヨーロッパの中でも、別けてドイツは紀念彫像の國である。從つてヨーロッパの近代に於ける紀念彫像の變遷は、最も明にドイツで見られる。
紀念彫像の一般彫刻に於けるはいふまでも無く丁度肖像畫の一般繪畫に於けると同じ關係である。根本に於いて現實自然を離れ得ない。本人に肖ぬ紀念像は紀念像の役をせぬ譯である。其の美術的生命は現實自然に似たといふ事以内に存せねばならぬ。されば繪畫に肖像畫の繁昌するのが、一方から見れば所謂寫實的風潮の一面であると同じく、彫刻界に肖像彫刻の勃興して來たのが、斯界の寫實的傾向である。
今ドイツに於ける近世の彫刻發達の次第を見るに、普通其の中興の祖を十九世紀の始めに榮へた彫刻家シャドウ(G.Schadow 1764-1850)に歸する。夫のベルリンの正大門とも見るべきブランデンブルグ門の上に安置せられるクォドライガの馬車像、佛人の爲に一時奪ひ去られて復更に取り返した有名な彫刻の作者は此人である。けれども茲に述べんとする紀念彫像の眞の開祖は稍〓[#踊り字「二の字点」]後輩たるラウホ(C.D.Rauch 1777-1857)に求むるを至當とする。ラウホといへば、或は名を忘れてゐる人があるかも知れぬが、ベルリンの菩提樹街頭に立つてゐる、あのすばらしいフレデリック大王の馬上像の彫刻者といへば、知つてゐる人は容易にうなづくであらう。ベルリン中にある銅像の數は何百か知れぬが、美術史上の偉觀として見るべきもの、此の銅像の如きは稀である。
フレデリック大王の銅像をして益々意味多からしむ他の一對照は、新議事堂の前に建てられたラインホールド、ベガス(R.Begas 1831-)のビスマーク像である。フレデリック大王の銅像と、ビスマークの銅像と、すなはちラウホとベガスとの對照でドイツ近代の紀念彫像の大勢は代表せられる。
彫刻界のラウホを説けば、勢い傍らに建築家のシンケル(K.Schinkel 1781-1841)のゐたことを想ひ起こさゞるを得ない。シンケルとラウホ、是が實に十九世紀上半のドイツの美術界を支配した名である。シンケルは千八百二十一年にベルリンの帝國劇場を立てたが其の樣式は一言以て掩へばクラシカルであつた。沈着典雅の中に變化の味を持たせた點に於いては、彼れが一代の作中最も優れたものゝ一と稱せられ、彼れは此等の作によつて建築界の泰斗と仰がれると共に、古典的趣味は愈一代の風潮となつた。ギリシア人の建てたと同じ氣持で同じ物を建てたいといふのが、シンケル一生の願であつた。
斯やうな建築界のシンケルと絶好の一幅對と見られたのは即ち彫刻界のラウホである。彼れの彫刻樣式も亦た當時の風潮と相合して、クラシカルであつた。たゞ彼れの一大飛躍は、紀念彫像によつて寫實的意義を斯界に導き入れたことである。勿論彼の刀法は何所までも古典的であつた。すなはち其の刻む所はフレデリック大王の肖像であつても、其の中に見はれた美術的感想は、熱烈にして動いて居る大王よりも、冷靜にして沈着高尚な、威儀の勝つた大王となつた。しかも、斯くの如き感想を他の空想的な題材に寄せずして、フレデリック大王の肖像を寫生する中に寓した。一面は古典的であるが一面は大に寫實的である。斯やうにして從來あまり振はなかつた紀念彫像界に新生氣を注入し、ドイツ彫刻の大半を此の方面に趨かしめた。ドイツの銅像美術は實に是れから興こつたといつてよい。
ラウホがフレデリック大王の像を刻んだのは、千八百五十一年であるから、正に彼の技の老熟した時代である。像は凡て四十四呎の高さに上り、大王が右手に撞木杖を持ち、毛皮の外套をゆるやかに羽折つて逞しい馬に跨がり、凛然として行手を見やつた姿である。俊邁の氣が颯として人を襲ふ。馬は將に一足を曲げて歩まんとして居る。而も此の像全體が我等に與へる感は、千軍萬馬の間に馳驅する人といふよりも、むしろ靜に玉座に憑つて威風あたりを拂ふの人といふ意味である。動的よりも靜的に近い。要するにドイツの紀念彫像は其の始め十九世紀の前半に於いて、紀念彫像といふ點で彫刻界を寫實の方面に向かはしめると共に、古典的風格で在來の好尚を續けてゐた。蓋し夫のナポレオンのためにベルリン全都を荒されて以後、ドイツ人の執拗な反動力は、却つて堰き止められた水の一時に切れる勢ひで、新興のベルリン大学學を中心に、文明のあらゆる方面が非常の活氣を呈して來た。彫刻界建築界に於けるラフホ。シンケル等が古典趣味の隆盛も此の潮勢の結果に外ならぬ。加ふるに、大戰後のドイツとしては、一代の偉人と崇めらるべき勇士が續々出て來て、之れを紀念して表彰する紀念彫像の必要が一層ラウホの大才を刺戟したのであらう。
下つて十九世紀の後半に及び、一方には尚多分にラウホの餘風を追ふ、シーメリング(R.Siemering 1835-)等の古典的紀念彫像の行はれると共に、他方に一條の新路を開拓したのが前に言つたベガスである。評家は之れを名づけて彫像上の自然主義といふ。すなはち彼れはラウホ乃至その餘流を汲むものゝ作の、寫實とは言ひながら、尚大に形の典雅均整などといふことに束縛せられて生きた當人を十分に自由に刻み出し得ざるを遺憾とし、出來得る限り生きた人間を彫らうと企てた。是れが近代に於ける紀念彫像の一轉歩である。 ラウホに建築界のシンケルを配する如くベガスには繪畫界の大才レンバハ(F.Lenbach 1836-)を并べることが出來る。レンバハは人も知る如くドイツ第一流の肖像畫家で、ベガスと同じくビスマークの肖像を描いて有名な人である。其の地位といひ、偶然相一致した成功作の題目といひ、此の兩人はおのづから并べ擧げらるべき奇縁を有してゐる(ベガス以下レンバハに至るまでの人々には、既に物故したものもあると記臆するが、今手元にそれを調べる材料が無いから、暫く其の生年のみを記して置いた)。
ベガスの頃から紀念彫像の事いよ/\多く、漸く濫に流れんとするまでに及んだ。ベガスは一方シーメリング等の古典派と相並んで畢竟此の気運に乘じたのである。彼れの作風は一方に於いて前述の如く古典派の沈靜典雅の形式を脱却して更に多く現實自然の人間に近よらんとすると共に、一方、古典派の反動とも見るべき文藝復興期式の華麗な所をも加へんとした。此の二面の趣味の結合したものが彼れの重なる風格と見られる。
彼れの傑作ビスマークの銅像は、千九百一年の完成で、此の偉人が頭に兜形の帽を戴き、制服を着け、左手にドイツの國劵を持ち、右手に劍を杖ついて、やゝ反り身になつて正面を凝視した所である、立像の高さ二十呎、臺ともでは八十呎に及ぶ。ビスマークといふ性格の中心を其の強大な意志の發相に求めて、言はゞ比較的に現はし易い道を選んだため、銅像としては十分の成功を得たと稱せられる。其の臺下の寓意的彫像については批難もあるが、彼れの本領——肖像彫刻の偉大はよく其等の批難の上に挺立してゐる。されば此の咄々として人を壓するやうな大銅像は實に自然派紀年像の目標である。
ヨーロッパにあつては、銅像彫刻の上にも是れほどの變遷曲折があることを忘れてはならぬ。(明治四十年十一月)
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