← 扉 へ
← 目次 へ
← 歐洲近代の繪畫を論ず へ
--------------------
歐洲近代の彫刻を論ずる書
此たよりで僕は先四葉の寫眞(卷末參照[1][2])を君に贈る。第一は十九世紀の初めに出たデンマークの大彫刻家トルワ゛ルゼン(Bertel Thorvaldsen)が大作の一つたる『マーキュリー』の像である。第二はフランス近代の彫刻家シャプー(Henri Chapu 1883-1891)が傑作『ジャンダーク』、第三は同國現代の彫刻家ヂュボア(Paul Dubois 1823-)が傑作『ナーシッサス』また第四は同じく最近の名家ローダン(Auguste Rodin 1840-)が傑作『接吻』の彫像である。僕は此四圖によつて歐洲近代の彫刻史を論じ、併せて實物の一瑞を君に想像させやうと思ふ。
パリーの學校町の近くから、彼の有名なパンテオンの前へ出ると、廣いスフロー街の行どまりに肅然として高く立つてゐる此の堂の樣子が僕には當時何となく心にかゝつた。其のクラシカルな、百年の風雨に黒んだ、さも/\靜な大伽藍の中には、斷えず冷たい他界の風が吹いてゞもゐるかと思はれて、何となく寂しい感じがする。祖國感謝、名譽の最高座、ヴォルテヤもルーソーもユゴーも茲に骨を〓[#「ヤマイダレ」+「夾」+「土」]めてゐるのだとは思ふが、いかにも淋しい。
パンテオンを後にして、サン、ミセールの大通りの方へ向かふと、之れはまた打つて變つた繁華のさま、カフェーの繁昌も車馬の雜踏も、あらゆるものが華やかに動いて躍つてゐるやうだ。寂然として之れと相對してゐる彼の大堂宇の靜けさは、どうしても他界のものとしか思はれぬ。スフローとサン、ミセールとの截りちがふ辻からリュクザンプールの公園を拔けて、そこの美術館に通うたびごと、僕はパンテオンに對して、クラシシズムと死の美しさといふやうな感じを起こすことを禁じ得なかつた。
第二
リュクザンプールの美術館は御承知の通りルーヴルに對し專ら現代の繪畫彫刻を藏する處である。建物はさして大きくもないが、現代美術の趣向を知らんと志すものに取つては、或る意味でルーヴルよりも此の方が貴い。夫の本國イギリスに容れられずして、ロンドンの畫堂に一枚も其の畫を見ることの出來なかつた、近世畫界の奇傑ホイッスラーが其の母の像を描いた圖も此處に來て始めて見られた。ローランの史畫、デタイユの戰畫等いはゆるアカデミー派の大畫は言ふに及ばず、印象派のデガー。モネー等に至るまで、凡そ我等がフランス近代の繪畫論を讀んで一たび其の實物に接せんと焦慮した作品は、リュクザンプールに於いて遺漏なく見ることが出來る。而してフランス近代の繪畫論は、やがて歐洲近代の繪畫論に指示を與へるものである。斯かる形勢を實物の上に展覽するを得るの便宜は、リュクザンプールを措いて他に多く求められまいではないか。こんな意味でリュクザンプール美術館はルーヴルよりも違つた貴さを有してゐる。
彫刻に於いても同じ興味がこゝに集まつてゐる。カノーワ゛(Antonio Canova 1757-1822)トルワ゛ルゼン以後の近代彫刻が如何なる方向に起伏の波を揚げ來つたかといふことは、此の美術館に於いて最も明白に解釋せられる。
前四葉の寫眞中第二、シャプーの『ジャンダーク』第三、デュボアの『ナーシッサス』及第四、ローダンの『接吻』は、すなはちリュクザンプール所藏の彫刻で、始めの二は其の彫刻室に、終りの一は其の繪畫室の端に据えてある。第三は塑像、第二第四は大理石像である。幾十百點に上る作中から、僕は特に此の三例を撰んで近代の彫刻を論ずる根據としやうと思ふ。
第一圖『マーキュリー』の作者トルワ゛ルゼンは、デンマーク第一の彫刻家でまた歐洲近代の彫刻界に一期を劃する人である。彼れと國を同じうする評論家今のブランデズ氏が、壯時はじめて巴里に出た際に家郷へ書き送つたといふ文に「先づ感ずるは、フランスにトルワ゛ルゼン無しといふことに候、デンマークは彼れあるによつて無上の寳を有し候、我等は少なくとも三四の點に於いてヨーロッパ中の第一流國たりまた永くしかあるべきこと爭ふべからざる眞實と存じ候」といつてゐる。此の年少文人に取つてトルワ゛ルゼンといふ名が如何に故國の誇りであつたかは之れで察せられる。
トルワ゛ルゼンの先輩にイタリーのカノーワ゛がゐるが、二十年ばかりの相違で、二人ながら十八世紀の末から十九世紀の初めに亘つた人である。而して其の大成した彫刻の風格は謂ふクラシシズムであつた。蓋し當時は繪畫に夫のフランスのダヰ゛ー出で、ルイ家傳來の繁縟なロココ趣味に反動して、冷靜沈重なクラシカルの趣味を復興した時である。世はナポレオンの天下となると共に、フランスの文藝は、さながらそのあらゆるものを總括して、將に終らんとする一世紀の總勘定をする必要でもあるかの如く、文學はいふに及ばず繪畫をも彼れダヰ゛ーを代表として同じクラシシズムの趣味に還らしめた。 されば彫刻に於いても同じ形勢をば脱せず。當時パリー人が最も嘆美した大彫刻家はイタリーのカノーワ゛であつた。彼れもまたしば/\パリーに來て其の影響を殘した。而してフランス以外にあつて此の思潮を代表し、終にカノーワ゛に駕して上るに至つたものは即ちトルワ゛ルゼンである。
斯やうにして、トルワ゛ルゼンは所謂十八世紀クラシシズムの最大彫刻家となると共にまた其の殿將となつた。蓋しトルワ゛ルゼンの後、遂に彼れを凌ぐの大家なくして、クラシシズムは漸く地歩の傾向に讓らんとするに至つたからである。僕は今トルワ゛ルゼンを通じて此の點に論を起こさうと思ふ。
第三
トルワ゛ルゼンは千八百四十四年七十五歳で故郷コーペンハーゲンに頓死した。彼れは前後二回にわたつて十餘年間ローマに留まつてゐた。其の名作數あるが中に、始めて名聲を搏しかけた初期の作は多く古ギリシアの神話などに材を取つた。中ごろは基督に材を取つた宗教的のものが多く續いて、後動物研究に入つて有名な獅子の彫刻などを殘した。それから空想的寓意的の材に移つて、夜、朝等のレリーフ彫刻を殘した。而して後ち今一度古ギリシアの題材に歸つたのは後年腕のます/\冴えた頃である。寫眞に示した『マーキュリー』は此の期の作と知りたまへ。此の大理石像は今コーペンハーゲンのトルワ゛ルゼン美術館に藏してある。
マーキュリーはギリシアの神話では最も慧敏な神である。智慧逞ましく、且つ敏捷無類で、飛行出沒自在、使者、説客、周旋、偵察を專務とし、傍ら商機に通じて商業の守護神ともなり、竊盗の術に長じて掏兒、盗賊の神ともなつてゐる。能辯で且つ樂器の發明等をもなした。巧智辯才の權化、今ならば善惡ともに才子の標本となるべき神である。
斯くの如きマーキュリーをトルワ゛ルゼンは如何に刻んだか。そも/\トルワ゛ルゼンが彫刻の風格は、彼れみづからの熱心な古代彫刻研究に端を發して、同じ方針を取りつゝあつた二人の先輩、すなはち獨乙からコーペンハーゲンに來てゐた圖畫の名家カルステンスと、前に一言したイタリーのカノーワ゛とが影響は益々之れを古典的ならしめたと稱せられる。要するに此等の人々は皆相寄つて當時の輕快なる藝術に反抗し、冷靜沈着な古典的傾向を以て之れに代へんとしたものに外ならぬ。トルワ゛ルゼンが早時同じくギリシア神話の勇士『ゼーソン』を刻むや、カノーワ゛は驚嘆して「此のデンマークの若者が作には新らしい非凡な手法が籠つてゐる」といつた。「新らしい非凡な手法」とは即ちトルワ゛ルゼンが擬古の手法に外ならなかつたのである。クラシカルといふと、是れ彼等が當時新しいと見た傾向であつて、またトルワ゛ルゼンが早く此の方面に非凡な影を見せてゐたことも之れによつて察せられる。さて年代は移つたけれ共、彼れの『マーキュリー』も畢竟は同じ手法に成つたものである。題材のクラシカルなのはいふに及ばず、之れに見はれた意義、感想乃至技風、すべてクラシカルといふ評の外に出ない。
『マーキュリー』像の感想は顏を中心とする。其の端麗な若い顏には、殊さらに鋭い智慧が溢れて、其の智慧の發相のあまりに勝つてゐる極、やゝもすれば情味全く缺けて冷刻、狡黠、一點の邪氣をすら含むに至らんとしてゐる。頭には翼を有する所謂ペガサスの帽子を頂いて飛行力を示し、垂れた右の手には劍を提げ、胸に横へた左の手には樂器(?)を持つてゐるが、是等はすべて其の體躯の滑かにすらりとした態度殊には其の脚部のいかにも勁捷といふが如き味を有するのと相合して、機敏、鋭利、巧智といふが如き感を人に與へる。蓋しマーキュリー神の本意に叶つたものであらう。而して之れが最も明らかに出てゐる燒點は顏である。
斯やうな事實は何を意味するか。思ふにこれ選び得て最もクラシシズムの目的を達するに便宜な題材を取つたものではないか。ギリシア民性の中心は其の智識の優秀にあると言はれる。感情の激越を示すよりも智性の支配力を示すところが其の特色であるといふ。從つて其のあらゆる文明にあらはれた風格は冷靜統一、明快といふ如き智的形式である。是等が所謂クラシシズムの本色であることは、言ふまでもなからう。而してマーキュリーは實に智性の權化である。數あるギリシアの神々の中でも、彼れが如きは此の意に於いて特にギリシア的なものであらう。クラシシズムを本意とせるトルワ゛ルゼンが之れを題として成功の作を得たのは自然の事である。
要するにギリシア藝術の風格、從つて凡そ其の餘派を追ふところのクラシシズムの藝術は一言以て掩へば、端麗、完全といふ〓[#「こと」合略仮名]に盡きる。形式に微塵も澁滯のあとなく、圓なるものは優麗、方なるものは端巖、二つながら相調和して美しい中に威巖あり、温い中に寒凉あるが如き感を人に與へる。端麗とは之れをいふのである。また完全とは其作品の全部相諧應して一となり、屑々の末に至るまで凡て彫琢せられ整頓せられて、部分としても全體としてもみな美しく、一毫も未完成、不徹底、無統一といふが如き感を遺さゞらんとするをいふ。僕は後の論のため特に此の二點を茲に掲げて置く。 此等クラシシズムの特徴は、他語を以て言へば智性的形式であると共に、動的に對する靜的、心的に對する物的、内面的に對する外面的、時間的に對する空間的である。隨つて其表現する所は、凝固して平らな面となる。中にあるたけのものは悉く外に流れ出でゝ、そこに結晶してしまふ。名目と意味とが一になりて、名目だけの意味、意味だけの名目となる。之れを譬へば外形の奧に分け入つて、そこに隱れたる内容を認めるといふが如き縱の關係が無くなる。ヘーゲルがクラシシズムを解して内容と外形との過不及なき美術といつたのは斯やうな範圍に於いて眞實である。
併しながら之れを評価するに當つては、十九世紀以後の人の多くは、斯くの如き風格の藝術に一種の不滿足を感ずる。彼等の心は、是等のみでは何となく罅隙があるやうに覺える。彼等は之れを呼んで「淺し」といふであらう。近世の藝術は實に此の點に其の回轉機を有する。彫刻も亦た其の一である。
古今に亘つて最も興味ある彫刻論はやはり夫のヴヰンケルマン[#「ヰ」は小文字]とレスシングとがラオコーン論である。彫刻が其の初め自然物の模寫に端を發して、且用ふる所の材が石といふ自在性に乏しいものであるため、やゝもすれば動くべき感情を凝結させて淺いものにしてしまふといふことは、或は彫刻の發達を遲くする性質かも知れぬ。併しながら是れを直に彫刻の力の限りとして其以上に出で得るものでないとするレスシングの説は、果して不拔の論であらうか。彫刻も或る程度までは能く詩の爲すところを成し得るものではないか。トルワ゛ルゼン以後の近世彫刻は、レスシングの結論を事實に於いて覆さんとしてゐるものではないか。
ヴヰンケルマン[#「ヰ」は小文字]はクラシシズムに全藝術の極致を見た。けれども近世の彫刻家は之れに不同意である。またレスシングはクラシシズムに彫刻そのものゝ極度を見た。けれども近世の彫刻家は之れを不平とする。近世彫刻の出發點はこゝにある。
第四
前にも言つた如くギリシアの彫刻は完全な形式を有してゐる。一彫刻中の何れの部分が特に其の重要部で他は之れを補足するたけのものに過ぎぬといふやうな不均等の形が少なくない。何れの部分も遺憾なく完成して此等の諸部分が歩調を揃へて或る感興の一刹那を表出する。されば假りにその彫像を頭と體とに取り毀つとするも、頭は頭としてその彫刻の中心感想を表し、體は體として同一の表現を有するの氣味がある。是れ一は其の感想の比較的淺くして、よく斯やうな斷片の上にも見はれ得るにもよれど、又一は何れの部分も完成してゐるために外ならぬ。無論ギリシアの彫刻といつても、其の年代は長いのであるから、其の間にはおのづから變遷があつて、或時期は特に空想的に傾き、或る時期は特に寫實的に傾くといふが如き〓[#「こと」合略仮名]はある。從つてある風の作品は特に顏を中心とし、或風のものは體を中心とし、或る風のものは衣を中心とするといふ如き差別は生ずる。併しそれは態と一部を揚げて他部を粗にしたといふのではなく、たゞ其の風によつて完成の度が違つたのである。
ロンドンの博物館にある夫のパーセノン宮の遺物、たとへば『三運命』と題する斷片の彫像の如きは、緩衣を以て掩はれた體部のみの女性の巨人像であるが、それが踞するもの、横たはるもの、憑りかゝるもの三樣の姿勢を取つて、しかも其一刀に削り去つたやうな奔放な刀法で、微妙な緩衣の襞を刻み出し、石ながらも柔かな薄絹の下に曲線豊かな胸、乳房、脚部の肉の圓みを見る心地せしむるのは盖し衣の彫刻に中心を置くものであらう。原作が目的とした優美崇高な三女體といふ感想は、たとひ失はれた手を補ひ失はれた頭を補ふも此の上に多く加はる所はあるまい。此の作が衣襞の彫刻に於いて古今に獨歩するといはれるのも、此の理である。
亦パリーのルーヴルに『ボルギースの勇士』と題する紀元五世紀頃の彫刻がある。勇士が體を前に四十五度ぐらゐにのめらして、一杯に差し延べた左手には楯を持ち、後ろに控えた右手には劍を持つてゐたと推定せられる。全體の姿勢がさながら隼の風を切つて飛ぶやうな俊邁の感を見はし、肢體は具さに解剖學的精確の妙を見せてゐる。是等は即ち體に最も多く成功した彫刻であらう。
其の他顏に多く成功した彫刻の例は幾らもある。けれども要するに其の體を主とすると、顏を主とすると、衣を主とするとに論なく、是等は凡そ作者がことさらに之れを中心として他を閑却し、特に一部に力を與へて他を抹し去つたといふ譯ではない。從つて他の部分でも或度迄はみなそれ/″\に獨立して成功してゐる。たゞ顏は體ほどでないとか、體は顏ほどでないとかいふに止まるのだ。されば同じくルーヴルにあつてミローのヴヰナス[#「ヰ」は小文字]と呼ばれる彫刻の如きは、全部凡て圓滿に近いものゝ例となるであらう。史家は此れを以て今日に傳はつてゐる古代彫像中最も美しいものとする。愛の女神の優美にして圓滿なる顏にギリシア特有の威嚴と聰明とを藏するは言ふに及ばず、首yほり胸、腹にかけての肉附の絶妙、就中斜に體をひねつた立ち姿のうまみは評家の嘆稱して已まぬところである。兩手を缺損してゐるから何をしてゐるところかは分らぬが、腰より下に緩衣を纏うたのは、全裸體が女神の威嚴を傷くるのを恐れての當時の套襲手段であらうといふ。而して其の緩衣の刻みかたも、たとひパーセノン宮の女像に於ける精緻はないにしても、粗刀を使つて而も纏綿自在の優美さを十分に發揮したのは、其の完作たる所以であると稱せられる。結局此の作は之れを頭のみと見るも、體のみと見るも、はた衣のみと見るも、凡て完域に達して全體何れの部分が特に目につくともなく渾然として優雅美妙の感を人に與へるものである。世界最美の彫像といはれるのも所以あることであらう。
第五
大體に於いて以上の如き風格を追うたトルワ゛ルゼン等の彫刻は十九世紀の初めからして、早く既に之れに代はるべき潮流に伴つてゐた。十九世紀の前半に於いてフランスにはリュード(Francois Rude 1784-1855)ドイツにはラウホ(Christian D. Rauch 1777-1857)が出て、何れも寫實的方面に前途を開いた。ラウホはベルリンのウンテル、デン、リンデン街に立つてゐる有名なフレデリック大王像の彫刻者で、近代の紀念像彫刻の父といはれる人であるが、彼れも初めはカノーワ゛。トルワ゛ルゼン等の古典的作風を慕ひ、中頃轉じて寫實的傾向を打開するの先驅者となつたのである。リュードはむしろ此の方面の中間にさまようた氣味であると共に「古い形に近世の感想を盛らんとしたもの」と評せられて、其の追ふ所は一層多く現實の近づかんとする寫實的傾向であつた。されば此の二人の如きは、トルワ゛ルゼン等の代表するクラシシズムが漸く新樣の藝術に移らんとする過渡の状態を示すものといつてよい。
其の後三四十年のあひだフランスには、ダヴヰー、ダンゼル(David d'Angers 1788-1856)バーリー(Barye 1796-1875)カルボー(Carpeaux 1827-1875)等みな前後して寫實的傾向に一進し、以て寫眞に示したシャプー。デュボア等の時代に及んだ。之れが略千八百六七十年以後を代表する。さればシャプー。デュボアも、其の作風が古典的に對する寫實的であるといふことは言ふまでもない。即ち圖に示した二人の作品を以て、前のトルワ゛ルゼンが作に比べれば、そこに兩者の相違が認められる。併しそれと同時にまたシャプーが作とデュボアが作及び更に此等と次のローダンが作との間にも重要の相違が認められる。寫實的傾向がさらに動搖して自然的傾向に行くの端は茲にあるのでないか。
第六
シャプーは最も人氣のある作品を作るを以て知られる。一代の傑作は即ち此の歴史彫刻『ジャンダーク』で無邪可憐な田舎乙女が、一朝神の命に感じて、身を以てフランス一國を救はんとするの大決心をなす其の神秘な瞬間を刻んだものである。題が已に彼の國人の興味を惹くべく出來てゐるのは言ふまでもない。今なほリュクザンブールの彫刻室に備へつけられて、藝術を解すると解せざるとに拘はらず此の前だけは誰れでも素通りしないで立ち止まるといふ、言はゞ素人好きのする彫刻である。上を見上げて一心を凝らした顏には、非常な大決斷の威力が眼と口とに見はれて、殊に其の堅く結んだ口の廻りの筋肉には、強すぎはせぬかと思はれるまでの力が出てゐる。兩手を膝に突き合はせたのは顏の表情を補助するものと見るべく、曲げた首の角度、體のひねり、袴の和かみ、足の優しみ等は彫刻的技巧の興味の源となつてゐる。評家は此の作がかゝる題目のやゝもすれば陷らんとする弊、すなはち芝居氣、舞臺的といふ〓[#「こと」合略仮名]を脱し得て、無垢單純な田舎乙女の美しさを失はなかつた〓[#「こと」合略仮名]を稱へる。盖し一層多く寫實の精神に合するの謂であらう。芝居氣、舞臺的とは、中に十分ならざる感情を、外に誇張して、無いものを強いてありげに見せんとするの結果、作爲不自然の態度に陷るの意である。言ひかへれば感情の乏しい作家に多くある弊で、其の意味でのクラシカルな作風に多く伴ふ弊である。又は其の作風が有する感情以上の感情を出ださんとする時に生ずる弊である。シャプーは幸にして此の弊を脱し得た。若し彼れが感情にしてそれだけの深さがなく、又彼れが作風にしてそれに適應するだけの自在性を缺いてゐたら、此の作に於けるが如き内容外形の調和られなかつたであらう。
而して之れを夫のトルワ゛ルゼンに比べるに『マーキュリー』は智慧發明といふ感想を主とし『ジャンダーク』は天の聲を聞いて田舎乙女が殉國の女丈夫に化せんとする刹那といふ感想を主とする。其の表はすところの既に幾倍曲折深長を加へたるかは言はずして明かである。而も之れが飽くまでも田舎乙女といふ人間の現實境を離れずして具象せられたのは、以て其の作風の如何に自在性適應性に秀れてゐるかも察するに足る。クラシシズムの制約を一旦切り放つにあらざれば、是れだけの個的な感想を表はすべき外形の自在性適應性は出て來ない譯である。
トルワ゛ルゼンに比ぶればシャプーは寫實に數歩を進めたものであるが、更にシャプーみづからとして之れを見れば、我等は尚そこに幾多の不滿足を見出だす。ジャンダークの全像が優美整頓といふことに於いて完成的であるといふことは何人の目にもつく。見るからして如何にも完全である。また其顏に出てゐる感想に於いても、之れをクラシカルな他の作品に比べれば、いかにもそこに動があり深さがあつて何となく人の胸を轟かす。併し同時にそれが我等には何だかまだ十分でないやうな氣がする。冷靜、端麗といふやうな印象が殘る。冷靜、端麗、完全、是等のものが尚殘存してゐて、動きかゝつて來るものを鎭めるといふ感が此の作に對する不滿足の理由である。結局寫實的元素と古典的元素との結合した状態である。古いクラシシズムに對しては進んでもゐやうが、其進んだ程度に於いて再びクラシシズムになつてしまふ、古典的寫實主義といふに歸する。之れが僕の『ジャンダーク』に對する結論である。此の像に對する時は、其の眼や口に活きて動くところの近代の精神があるやうに思はれると共に、全體として何だかたゞ端麗な、優美な、完全な、滑かな、靜かなものゝやうな感が伴ひ起こる。若し古へのヴヰンケルマン[#「ヰ」は小文字]とレスシングとをして之れを見させたら、前者は「是れ其のギリシアの精神を追ふがためなり」といひ、後者は「是れ彫刻の力の限度を示すものなり」といふかも知れぬ。
第七
同じ結論は異つた方法によつて、デュボアが作にも加へられる。『ナーシッサス』は是れまたリュクザンブールにあつて人の眼を惹く彫刻の一つであると共に、デュボアに取つては一期を劃するの地位にある大作である。彼れは本來寫實的と古典的と二つの傾向を示してゐた人と見える。其のはじめは專ら寫實的方向に走つてゐたが、寫實の動もすれば解剖的眞實を寫すと稱して外形的粗硬の面のみを寫すといふが如き弊あるを不滿とし、之にクラシシズムの優美柔和な所を加へんとした。斯やうにして彼れの作もまた古典的寫實といふやうなものになつたのである。而して『ナーシッサス』は此の寫實的と古典的との調和の成功した頂點を示す作と稱せられる。
『ナーシッサス』は題材も之れが取り扱ひ方もクラシカルである。しかも其の中に近世寫實の精神が混ぜられてゐる。ギリシアの傳説によるとナーシッサスといふ美少年が水鏡に映る己れの姿に見惚れて溺れ死んだ。其の精靈が化して花と咲いたのがナーシッサス即ち水仙花であるといふ。されば彫刻はナーシッサスが泉のほとりに立つて左の手に衣を掲げ右の手に之れを掴んで、頸を埀れたまゝ恍惚として足元の水を眺め入つてゐる。掲げ曳いた衣で傾斜した體の釣合を取つて、すらりとした全體の姿勢には若い男性體の柔かな優美な態を含む。
之を評すれば、作の中心となつてゐる感想は『ジャンダーク』に比べて必ずしも近代的でない。また全體に完成的で美麗に整つてゐて、靜かに固つた趣がある。是等は却つてクラシシズムに逆戻りした氣味であらう。けれども彼が寫實的風格は、其の肉の刻み方及び顏の表情に溢れてゐる。『ナーシッサス』の胸より腕にかけての肉附には、所謂クラシシズムの靜的、一般的、理想的な面に見られない、動的、個的、現實的な凹凸がある。亦其顏はうつとりと水中の姿に見惚れゐる眼が現實の味を含んで、從つて顏全部がギリシアの神々しさよりも、人間的個人的な表情を多く有してゐる。要するに美しいけれども何處にか無邪氣な活きた人間の影が潜んでゐて、半神半人の端麗な所が少ない。
第八
今以上の論を概括するときは、我等は寫實主義の動搖といふことに思ひ及ばざるを得ない。トルワ゛ルゼンの後リュード。ラウホ等には古典主義の動搖して寫實に之かんとする過渡の状態が見えてゐた如く、今シャプー。デュボア等には寫實の更に動搖して何れにか之かんとする、また之かざるを得ざる徴が見えてゐるではないか。而して此の新らしい道は、シャプー。デュボアに示されずして後のローダンによつて打開せられた。僕は之れを彫刻界の自然主義と呼ぼう。
寫實主義といひ自然主義といふことには、單に彫刻界のみならず、文藝全般にわたつて未だ明白な定義が與へられて居らぬ。ドイツの『近世美術史』の著者ローゼンベルグといふ人は、繪畫論の序に兩者を相并べて、寫實派は自然を自然のまゝに醜は醜、美は美と寫せども、それが爲めに畫家の圖取、布置、色、影等の特權を棄つることはしないもの、自然派は全く自然に無條件の服從をなして、偶然的でも無形式でも無秩序でも、構はず自然の來るがまゝを寫すものとしてゐる。盖し表面の解釋として要領を得てゐるものであらう。たゞ僕を以て之れを見れば今少しく立ち入つた解釋が欲しい。二つながら客觀のまゝに取り扱つて、主觀の作爲を許さぬといふ點は同じであるが、寫實主義はほとり全體的な布置、結構といふ作爲をば許し、自然主義は之れをも斥けて全然の無作爲とするといふ。此の説は或度迄は眞理である。併し所謂全體の作爲と然らざる作爲との區別は事實に於いて立ち難く、また自然派の作品と稱するものが必ずしも全く一切の作爲を排し得るとは限らぬ場合が多い。結局はたゞ作爲の痕跡の多少といふ程度問題に歸してしまふ。
それよりも重要な問題は自然派がかくの如く作爲を減じ行かんとする動機は何であるかといふことである。何のために成るべく多く自然に接近せんとするか。其の答は夫の英詩人ワーヅワースの自然主義を評した一評家が寫實派を難じて「冷かに理解的記録を作る」といつた言に見出だす〓[#「こと」合略仮名]が出來る。「冷かに理解的記録を作る」を慊らずとするの聲は、やがて内にある生きたものを求めんとするの聲である。作爲を排して自然に肉薄せんとするものは、之れによつて内部の生命に觸れんとするからであらう。一層動的な、一層深いものを求めんとするからであらう。自然派本來の出立點は此所にあるのではないか。寫實派が古典派に對するの不滿足も是れであつた。今亦自然派が寫實派に對する不滿足も是れである。
第九
議論がやゝ本題を離れ過ぎたから今一たび彫刻に還つて此の論を結ぶ〓[#「こと」合略仮名]としやう。そも/\前回に述べたやうな自然派の本意は如何にして實現せらるゝか。之れをトルワ゛ルゼン以下シャプー。デュボア等に至るまでの彫刻について見るときは、其の完成的技巧を破り去ることも其の一つである。各部凡て美しく完全にするといふ如き態度をすてゝ重要の一部に注意の燒點を集めるため、そこに殊さらに力を用ひ、他は簡刀粗篦に輕く刻み去るといふが如きはそれであらう。即ち一見粗にして未完成な作品かとも見える所に却つて自然の生命が出て來る。想ひ出す一話は、先年ロンドンのローヤル、アカデミー展覽會に、肖像畫家サーゼントがチェームバレン氏夫人の肖像を出品したとき、恰かも粗略未完成といふ通俗評が盛んであつて、多分期限に迫られて作者が畫きかけのものを出品したのであらうなどいふ滑稽な評もあつた。併し事實はやはり前述の意味での畫家の腕だめしの畫であつたらしい。彫刻に於いても同じ理があり得やう。また總じて表面の輪廓に大胆なる粗線を用ひて、餘りに滑かなものゝ往々單調となり無活動となり死となる弊を避けんとするが如きも、前段の理と相聯つて生ずる一現象である。併し此等外形上の工風よりも更に重要なのは、中身となる感想そのものが直ちに生命に到達する底のものたるを要することである。クラシシズムにあつては多く單に優美、威嚴、聰明、歡喜、苦痛、筋力といふ如きものが其の現はさんとする感想であつた。寫實派に至つては稍其の限域を廣め、更に複雜な種々の現實感想を中身とするやうになつた。けれども此等は尚ほ斯くの如き種々の感想そのものを行止りとしてゐる氣味である。自然派はすなはち此等の感想をたゞ手段として、其の奧に更に何物かを髣髴せしめやうとする。それは即ち生命である。
ジャンダークの感想はジャンダークの感想で了るのが寫實派の本意なら、自然派の本意は之れを以て更に深い或物を表はすの手段材料とする。是に觸れて始めて其彫刻は動的時間的の性を帶び、以てレスシングが立てた制限の埒を切り放つを得るのである。
僕は今上來の論の總括としてローダンが作『接吻』を提出する。リュクザンブール美術館にあつて我等の魂を駭かすものは此大理石像である。題意の感想は勿論、斜に相抱いて接吻してゐる二個の頭を中心として體躯も手も之れを補助してゐるのであるが、併し其の接吻はたゞ是によつて生命といふ一事實の最も熱烈な表現を得んがためである。また臺となつてゐる巖石乃至之れに彫りつけられた足部臀部の如きは殆ど作者が篦を取つて立つた當時眼中になかつたかの如く、全く未完成の態をなして、しかも其の未完成なる點に想像の餘地もあれば大胆なる力の充溢をも認める。
概して此の彫像は下部に粗にして、上部に移るにつれて威力を増して來る。但し自然の姿勢上顏は殆んど見えない位であるが、顏の表情を中心としたものでないから何の差支もない。此の大胆な粗面を用ひて刻み去つた手、腰、背、頸の寫實的筋肉からは、生命といふ一團の流動物が簇々として其相觸れた唇に漲り上るかと思はれる。それは單なる筋力ではない。活きたものといふ感である。生命そのものといふ感である。之あるがために其の接吻はたゞ一時期の模樣のやうなものでなくして、生きて續きつゝあるものといふ感じが起こる。之れを要するに二人相擁したる石像に生命を寄せて、其の接吻を動的、時間的のものとせんと試みたのが、ローダンの此の作である。而して是れが近代の彫刻に見える新しい抱負でまた尚續けられつゝ試みであらう。
此上甚だ粗硬の論に流れたが、添附したし寫眞圖によつて筆の足らざる所を補ひ給はんことを望む不宣。(明治四十年四月)
----------------------------------------
← 扉 へ
← 目次 へ
← 歐洲近代の彫刻を論ずる書|第一 へ
→ ドイツ近代の銅像彫刻 へ