← 扉 へ
← 目次 へ
← 藝術と實生活との間に横はる一線 へ
--------------------
歐洲近代の繪畫を論ず
今から數年前、イギリスの文壇に二つの注目すべき繪畫論が見はれた。一つはマクコール(D.S.MacColl)といふ人の『十九世紀美術』(“Nineteenth Century Art”)と題する書で、他の一つはクック(W.Cook)という人の『藝術に於ける無政府主義』(“Anarchism in Art”)といふ書である。而して此の二つの書物は、相對して歐洲最近の畫界に潜む二大波瀾の衝突を示して居る。であるから茲には先づ此の事を述べて、本論の出發點とする。
此の兩書の對抗が含蓄する意義を解しやうとするには、イギリスの畫界に於ける近年の形勢をざつと知つて置く必要があり、イギリス近年の畫界の形勢を知るには常に新文藝の原動地たるフランスのそれに觀及ばざるを得ない。されば歐洲近代畫の三大根據地とも見るべきフランス。イギリス。ドイツのうち、ドイツは其の寫實畫に於けるメンチエル(Adolf Menzel)肖像畫に於けるレンバハ(Franz Lenbach)理想畫に於けるベクリン(Arnold Bocklin)等乃至リーバーマン(Max Liebermann)がゼチェツション(Sezession)派の色彩畫、ホフマン(Ludwig von Hofmann)が新理想畫、其の他クリンガー(Max Klinger)スカルビナ(Franz Skarbina)以下新代畫家の凡てを包括したまゝ、しばらく本論の外に置いて、茲では專らフランスとイギリスとを觀察の主位に立てる。
さてイギリス近年の畫界に狂爛を捲き上げた張本人は先年物故した斯界の奇傑ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字](McNeill Whistler)である。ラファエル前派のロゼチ(D.G.Rossetti)以後、イギリスの畫界で最も多く物議の種となり又運動の中心となつたものは、ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]に若くはない。啻に畫界のみでなく文藝壇の全面にわたつて、彼れは最も卓拔な役者の一人であつた。當時彼れの交友には態度の文人として奇矯の名を博したオスカー、ワイルド、今の詩壇の棟梁たるスヰンバーン等もあつたがホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]が荷つて居た運命は寧ろ此等の人々のよりも意味深いものであつたらしい。
ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]はアメリカの生れで後パリーに學び、イギリスに住んだ。所謂藝術界のアメリカ魂の人である。由來イギリスの文藝史には昔から本國魂と外國魂との對照がよく出て居る。かのロマンチシズムの波が十九世紀上半の文壇を漂はした頃は、其の狂熱の調子が何となく平生の沈着なイギリス風と違つて、文壇全體にフランス革命やドイツのスツールム、ウント、ドラングの香ひを帶びて居た。シヱレーやバイロンが藝術と實世との矛盾に悶えて母國の道徳を小さしとし、南方イタリーの空を望んで流浪し出たのも、一方に於いて此の意味である。その後半世紀、文壇は再び此の國本來の常規に復した氣味である中に、ひとり異彩を放つて高走らんとしてゐるもの、前にはロゼチ等の一味がある。ロゼチは傳記家の言ふ如く、四分の三以上イタリーの血を引いて生まれた人、從つて其の事業に大陸的風格の添つたのも異しむに足らない。續いては、アイヤランドが其のフランスに連なる人種上の關係から、常にイギリスの文藝に風變りの人物を供給して、外國趣味との連絡を保つ役を務める。故のワイルド今のショー等の如きが即ち其の例だ。是れに更に外國趣味の一産地を加へたのがアメリカである。アメリカ本國は元來人種の上から言つても、諸文明の陳列所又は比較研究所といふ資格を具へて居る。言はゞずん/\と新しいものを取り入れる性質を持つて居るのだ。その上新國のせいか、或はドイツあたりの血の多分に交つたせいか、一面アングロサクソンであると共に、他面に粗剛といふか野趣といふか、イギリス本土に見られない一種の荒い調子を含んで來るのがアメリカ文明の特色である。粗削り、無遠慮、アンフヰニッシュド(Unfinished)オーデーシアス(Audacious)といふ趣は所在に認められる。之が軈てアメリカ魂の短所でもあれば長所でもある。新しい活動の氣は多く此の粗野といふ皮の剥げ切らない所に生ずる。ヨーロッパ文明の將來を論ずる一派の論者がいふ如く、今後幾世紀かにわたつて新文明發掘地となるものがロシアとアメリカであるとすれば、ロシアからは、或はまるで原質の違つたものが出るかも知れぬが、アメリカからは質の違つたものは出まい。むしろヨーロッパに既に在るものを化合させたり還元させたりして、同じ脈の老衰した所へ原生の氣を注加し、之れを若返らせる。アメリカ魂がイギリスの文藝に點加せられる時、そこに何等かの新運動を起こすのは此の意味に外ならない。畫界の近時がすなはち之れを證する。我々はロンドン現代の畫壇に指を折つて、肖像畫家の泰斗サーゼント(J.S.Aargent)を得、墨畫で第一流のアベー(E.A.Abbey)を得、理想界から新派に往つた人物畫の大家シャノン(J.J.Shannon)を得る。此等の人々はみなアメリカの血をイギリスの藝術に注いでゐるものである。而してホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]は即ち其の隨一人なのである。少なくともサーゼントと相并んで此の國畫壇の最高位を二席までアメリカ魂によつて占領してゐたことを思へば、イギリス美術とアメリカ魂との干係論の生じたのも決して無理はない。ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]は死んでも、イギリスが國内に對し、また大陸に對して聳え立たんとする最高峯は依然アメリカ系のサーゼントに存してゐる。イギリス現時の畫界からたゞ一人の代表者を出せといつたら、識者は必ず此の人に第一の指を屈するであらう。格式から言へばワッツ(G.F.Watts)は死んでもローヤル、アカデミーの總裁でクラシカルな理想畫に高雅の一體を具へたポインター(E.J.Poynter)もゐれば、精妙美麗あらゆる寶石を溶かして畫いたやうな裝飾畫を作るを以て名高いアルマ、タデマ(L.Alma.Tadema)もゐる。けれども現代のイギリス畫壇で生脈の最も強く打つ部分を求めれば此れでなくして彼れであることを疑はない。
斯くの如くしてホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]とサーゼントとは、實にイギリス近時の畫界で最も多く生きた部分を代表する二大家であつた。而してまた此の兩者は根底に於いて生命を同じくして、アベー。シャノン等と共に種々の方面から相通じた一つの傾向を形造つてゐる。所謂イギリス畫界の「新藝術」(New Art)又は「近代主義」(Modernism)が即ちそれである。前に名を擧げたクックといふ評論家が、藝術上の無政府主義、虚無主義、破壞主義と罵つたのも是れを指すに外ならない。
二
以上アメリカといふことに稍言葉を費し過ぎたかもしれぬが、是れが本論の要旨では勿論ない。此の點はおのづから別に研究せらるべき問題と信ずる。ここでは唯それがホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]。サーゼントの名を取り出す端緒となればよい。そこでイギリス畫界の現状に立ち戻つて、先づ水平線をローヤル、アカデミーの一派と假定すると、反動、新傾向などいふものは大抵之れと逆行する方面から見はれて來る。之は固より何の場合にも生ずべき自然の勢であらうが、其の昔ローヤル、アカデミーの出來たのに反抗して、ゼ、ソサイェチー、オブ、ブリチシュ、アーチスツが起こつて、今では以前ほどの反目軋轢は無いけれども、アカデミーに這入り得ない、從つて之れに抗爭の意を抱いてゐる美術家が往々此の會から驩迎せられ、今以て相對峙した二つの最大美術團體である。ちやうど昨秋文部省の展覽會と玉成會とが對峙したやうなものだ。近くは即ちホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の如きもアカデミーには入らなかつたがブリチシュ、アーチスツ協會の方で始めて會長に迎へられて其の眞價を承認せられた。
同じ順序で十九世紀の末に新英國美術倶樂部(New Englishi Art Club)といふものが起こつた。續いてまた萬國彫刻家、畫家、彫畫家協會(International Society of Sculptors, Painters and Gravers)といふ者が起こつて其の展覽會が開かれた。是れがアカデミー派に對する開戰の始りで新倶樂部はホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]を押し立てる一味の美術家評論家から成り、萬國協會はホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]を戴いて會頭とした(ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の死後フランスの彫刻家ローダンが會頭となつた)。而して論談に作品に、盛にアカデミー派の朽廢爲す無きを攻撃しイギリスの美術界に全然新しい生面を拓かうと意氣込んだ。此の頃からロンドンの畫界には一道の低氣壓が見はれ來て、今まで潜んでゐた對抗の氣勢が表面に働き始めた。それから幾年かの間に、一般社會の進歩した部分は漸く新派の方へ味方する形勢となり、新聞雜誌に見える展覽會評等の多數は新しい見方をするやうになつた。之れを彼等は名づけて「新批評」(New criticism)といつた。此に至て美術論壇は大體に於いてアカデミー派と新倶樂部派及萬國協會派との抗爭となり、舊派と新派、守舊派と近代派といふやうな對照となつた。勿論作をする側では必ずしも相限るといふやうな偏狹なことなく、新倶樂部派、萬國協會派の人でアカデミーに這入つてゐる人もあれば、其の作品をアカデミーの展覽會にも出す。アカデミー派の方でも、凡ての會員が同じやうな守舊黨といふ譯でもなく、其の中におのづから雜多の傾向が潜んでゐる。たゞ双方の最も相遠ざかつた所から概見して、抗爭の氣が其の間に蟠つてゐるのである。されば同じ新派に屬すべき人々でもホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の如きは抗爭組のチャムピオンでサーゼントの如きはアカデミーの花形役者となつた。斯く見て來ると近年の活氣を呈して來たイギリス畫界の中心動機は何うしてもホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]に歸せざるを得ない。
而して前に擧げた『十九世紀美術』の著者マクコール氏はホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]黨の一人で、新倶樂部派に屬する畫家兼評論家の錚々たるものである。從つて其の『十九世紀美術』乃至其の他の評論文は取りも直さず此等新派の戰陣から放つ砲彈で、クック氏の『藝術に於ける無政府主義』は之と直接間接に應戰する舊派の雄たけびの聲と聞かれる。中にも『十九世紀美術』は夫の批評家シモンズ氏が激賞して、ラスキンの『近代畫家』以來の好美術論となす所、畢竟シモンズ氏等亦た新派と意向を同じくするためであらう。
三
前段のやうな形勢で新舊兩派對立する、其の内容は何ういふ意味か。即ち所謂新派の美術が主張するところは何れにあつて、舊派はそれを何と見るか。是れを説けば先づ繪畫上の最近事の一面が明になる。
上に擧げた新英國美術倶樂部と萬國彫刻家畫家彫畫家協會とは各新運動に對する自己の立場を其の名によつて標示してゐる氣味である。新倶樂部はすなはち新といふ一字に最も其の特色を發揮し、萬國協會は其の萬國といふ形容が當然携へ來たる結果すなはち外國の影響に最も多く特色を存すると言つてよい。茲で新派は凡て在來の畫法を無視し破却して、寸歩たりとも新しい事をして見やうといふ傾向に外ならず、又外國の影響とは、就中フランス及日本から來る影響で、中心は夫のマネー。モネー等が印象派(Impressionism)と北齋、廣重、探幽、光琳其の他の日本畫に於ける色彩法粗描法等にある。されば此の二意義を概括すれば、印象派及び日本畫を後援にして新風を興し、以てイギリス在來の畫風脱しやうといふに歸する。更に之を約して言へば、新派が最も重きを置く所は色彩にある。在來の畫といふ中から描圖(Drawing)を取り出して之れを色彩と對立せしめ、描圖を重んずるものを凡て舊派と見る。即ち描圖を輕んじて色彩を重んずるのが新派の最大特質であつて、新派とは殆ど色彩派(Colourists)の別名といつてもよい。彼等は色で畫界を革新しやうと企てた。描圖派色彩派の對照にはもつと深い意味もあるが先づ色彩派の主張の一例をホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]に求めやう。
四
ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]が其の文集『敵を作る優しき術』(“Gentle Art of Making Enemy”)の中の有名な句に、
[#ここから2字下げ]
“......The story of the beautiful is already complete......broidered with the birds, upon the fan of Hokusai, at the foot of Fusiyama.”
[#ここで字下げ終わり]
と言つてゐる。美の物語は近世のヨーロツパの藝術に盡きないで、ギリシヤのパーセノン宮の大理石彫刻や、日本の富士の麓で北齋が畫いた扇の繪に盡きてゐるといふ意味で非常な傾倒の意を日本の美術に捧げた言葉である。彼れが一代の事業は、初め彫畫に於いて大名を博した外、油繪では人物畫で千八百七十二年アカデミーの展覽會に出し、翌年パリーのサロンに出して始めて傑作と認容せられた彼れの母の像、是れはパリーのルクサンブール美術館に今藏せられてゐる。又千八百八十四年のカーライルの坐像、千八百八十八年のレデイ、カムベルの立像等が最も有名な代表的作物で、其の相通ずる特色は何づれも一見して明である。彼れが最も私淑したヴヱラスケスの沈んだ底強い調子から一家を拓いて、薄黒い沈痛な色調の中に、一種の空氣の固まりのような、ふわりとした覺束なさを加へて神秘の味を出したものが彼れの人物畫の通相であるが、試にブレスラウの教授ムーテル氏(R.Muther)が其の著『近世繪畫史』(History of Modern Painting)の中でレデイ、カムベルの肖像を見た時の印象を記してゐるのを借りると、
[#ここから1字下げ]
千八百八十八年ミユンヘンに開かれた萬國展覽會英國繪畫室の大壁の中央に一つの全身畫像が懸つた。モデルは脊の高い、ひどくすらりとした婦人であつたが、其の容子がさながら見物から繪のうしろの方へ歩み去らうとしてゐるやうで、ちやうど頭を振り向けた横顏が、消え失せる前に最後の一瞥を跡に投げるといふ風に見えた。是れはレデイ、アーチボールド、カムベルで、イギリスで最も美しい婦人の一人である。此肖像畫で、彼の女はその凡ての媚に生きた。その華奢な體、その淺褐色の髪、その貴族的な手と深い眼ざし。(中略)全身黒い背景に對した灰色で立ち現はれて、たゞ微妙な灰色がかつた青と鳶色がかつた灰白との調子に、ちよつとした淺褐色と、ちよつとした薔薇色とをあしらつて柔らかに生かしてあるばかり。それに拘はらず其の繪は空氣に滿ちてゐた。不思議に柔かな調和した空氣に滿ちてゐた。私は其のモデルが生きて、歩いて、動いてゐるかと思つた。是れがゼームス、マクネイル、ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の大作である。
[#ここで字下げ終わり]
而して同じ著者は更にホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]が畫風に尋ね上つてゐる。此の畫家が若くてロンドンにゐた頃はロゼチのあの特色ある婦人の畫に心醉してゐたが、後印象派から形の柔かさと流暢さ及び空氣に對する感じを取り、日本の美術から色調の明るい調和、空想的裝飾趣味、時々法はづれに出で來る意外の細寫、材の選擇省略といふやうなものを取り、ヴヱラスケスから偉大な線と、黒及び灰色の背景と、衣服の高雅な黒及び銀灰白の色調とを取つて、茲に彼れ一箇の畫風をなした。さればフランス印象派の開祖マネー(E.Manet)がチョークのやうな日光や、同じ印象派のベナールが目の眩むやうな光線の輝きは彼れには邪魔になる。彼れはすべてのものを灰色の夢のやうな調子で見、神秘な空氣で見る。ラスキンの寫實主義とは直反對であるし、ラファエル前派の精細な寫實をも嘲る。凡て題目の興味で俗論に材料を與へるやうな畫を畫でないとする、といふのが其の大要である。
斯やうな色彩上の特色を有する彼れの作は、風景畫に於いて最も著しい現象を呈して來た。彼れの風景畫の大部分には一種特殊の形容詞を冠らせてノクターンス(Nocturnes)シンフオニース(Symphonies)ハーモニース(Harmonies)等と呼ぶ。言ふまでもなくノクターンは夜の音樂又は夜の景色畫といふ義、シンフオニーは管絃合奏樂、ハーモニーは和聲又は調和といふ義である。例へば「青と銀とのノクターン」(Nocturne in Blue and Silver)「白のシンフオニー」(Symphony in White)「灰色と黄金のハーモニース」(Harmonies in Gray and Gold)等、其の名稱がおのづから畫の特質を説明してゐるではないか。試みに彼れみづからの言葉で其の畫を語らせて見ると、其の講演を印刷した『十時』(Ten O'Clock)と題する文中に先づ其の主張を述べて、
[#ここから1字下げ]
自然が凡ての畫の要素を色と形とで有してゐるのは、樂器の鍵子板が凡ての音樂の調子を有してゐるやうなものである。(中略)畫家に自然を自然のまゝに取れといふのは奏樂者にピアノに向かへといふに同じだ。
[#ここで字下げ終わり]
といふ繪畫と音樂との對比が彼れの畫風の萌すところで、彼れは之れを單なる修辭上の譬喩に止めず、文字通りに之れを實行しやうとした。彼れが更に言葉を進めて言ふには、近來眞の畫家の本領を忘却した論者が多い。彼等は畫を以て詩的標象主義(Poetic Symbolism)と見做し、自然を取り扱ふにも、山を描けば、高いといふことの同義語と思ひ、湖水を描けば深いといふことの同義語、大洋を描けば廣いといふことの同義語と思ふ。即ち此等のもので高、深、廣を語らうとする。彼等に取つては畫は象形文字(Hieroglyph)である物語の標象(Symbol of story)であると。
盖し繪畫史上の所謂題畫(Subject painting)と彩畫(Painted painting)とは、前に描圖派と色彩派と言つたのに應ずるのであるが、題畫は又文學畫(Literary painting)物語畫(Tale-telling painting)等とも綽名せられて、畫面が直接に與へる印象よりも、畫題が含む事柄そのものゝ想像が興味を與へる風の作品であることは言ふを待つまい。普通の寫實派及理想派が即はちそれである。是れに對して畫面の直接の印象に重きを置けといふ時は、畫面の直接印象の中心は色彩感覺であるから、色彩の整調が畫の主要目的となる。色彩の整調が主目的となると同時に、之を十分にするためには如何なる形でか其の色彩を見はしてゐる形象が犠牲に供せられざるを得ない、或場合にはそれが變形せられ、或場合にはそれが減却せられる。此の點からして此の派繪畫には常に一味の裝飾的風格(Decorative)が伴ふ。凡ての色彩派の作品は必然裝飾的傾向を帶びて來る。
元來裝飾的といふ語の内容は非現實的といふ事で、花を描いても鳥を描いても、花鳥の象はたゞ借り物に過ぎないから、現實の花鳥と連なる必要はない。色彩なり線條なりが、自分等の特殊の原理によつて整調せらるれば目的は達せられる。友禪の染模樣の如きが此の好例である。けれども若し色彩の整調がこゝに行き止つたら、甚だあつけないものではないか、淺薄なる形式美の以外、殊更に自然の形象を描く理由はなくなつて了ふ。此等の點は殆ど論證を須たない。近代の色彩派の新しい出發點は是れからである。
五
題畫は排し描圖は排するけれども、其の根元に横はつてゐる一物をば排するを得なかつた。一物とは即ち自然である。題畫描圖が齎らし來つた因襲の殻を脱却して自然の中核に直進しやう、成るべく圖象の附屬物に累ひせられないで、色彩から直ちに自然の生命に觸れたい。中間の人爲力に囚へられることを避ける。是れが即ち近代派の生ずる所以である。啻に繪畫のみでなく、あらゆる近代の文藝には此の意味がある。夫の文學に於ける自然主義以後の傾向も亦た是れに外ならない。底の知れた人工や理想に行止まることを嫌つて、一飜して耳開目觀の現實からすぐ人工以上、理想以上の自然の眞に連續しやうとするのが彼等の本意でなくてはならぬ。凡て中間を絶する思想である、哲學上いはゆる直接派(Directism)である、佛者の好んで用ふる「即」の字主義である。現實といふことも、自然の眞といふことも、乃至印象といふことも、標象といふことも、神秘といふことも、排理想、排技巧といふことも、すべて此の一源から湧いて來るものに外ならない。間接主義と直接主義、人工萬能派と自然萬能派、クリスチャンとペガン、西洋的と東洋的、此等の大ざつぱな對照語が齎らす深意は茲にあると信ずる。以上の意味で近代の色彩派は色彩と自然とを直接に連合せんとする。例へば始めに言つたマクコール氏の『十九世紀美術』が一篇の骨子とする觀察は、シモンズ氏の言つてゐる如く、自然の感じ(Sentiment)が其のまゝ藝術に這入つて來たのを十九世紀の特色とする點に存する、即ち藝術家の節奏(Rythm)でなく自然そのものゝ節奏が出て來た。ウフヰチー[#「ヰ」は小文字](Uffizi)畫堂なるボチチェリ(Botticelli)の作『ヴヰーナスの誕生[#「ヰ」は小文字]』(Birth of Venus)にある浪と後のターナー(S.M.W.Turner)が畫いた浪との如何に差あるかを比べて見よ。古人に取つては自然は人間の從位にあつたが、十九世紀に入つて後の自然は直に人間の生命である、宗教である、責任である、誘惑である。之れが十九世紀美術の新現象だ、といふを趣意とする。直ちに自然そのものゝ節奏をかなでやうとする、是れが新派の宣傳である。ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]は音楽者が音を整調する氣持で色を整調し、色彩を以て音樂を作らうとした。而して其の色彩音樂の則る所は自然の節奏に外ならなかつた。彼れの書『十時』はまた記して言ふ。
[#ここから1字下げ]
やがて夕暮の靄がヴェールのやうに詩で以て川岸を包んで了ふと、見すぼらしい建物はひとりでに薄暗い空に消え込んで、高い烟突がイタリー風の鐘樓になり、貨物庫はそのまゝ夜の宮殿で、町全體が天空に懸り、神仙郷が我等の前に見はれて來る。旅人は家へと急ぐ。勞働者も學者も賢人も娯樂の人も一樣に視力が止まつて物事が分からなくなる。其の時自然は始めて時を得て其の微妙な歌を自分の子であり主である所の藝術家だけに歌つて聞かせる——藝術家は自然を愛するから其の子であり、自然を知つてゐるから其の主である。彼れにまで自然の秘密は打ち明けられ、彼にまで自然の教訓は徐々と明らかになる。彼れは自然の華を眺めるに擴大鏡を用ひて植物學者のために事實を探集するやうなことは爲ない。自然の燦爛たる色調や微妙な色合の選りすぐつたもの、後の調和の暗示であるもののみを見る人の目で、之れを眺める。
[#ここで字下げ終わり]
ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の自然に之く立場と、併せて其の畫面の趣が此の文で窺はれる。彼れの風景畫は、夢のやうな夜の調子を現はすに最も妙を得て、全幅たゞ蒼や灰の一色の裡に、影のやうに黒い丘や建物の輪廓が浮ぶ、黄いろい燈火が三點五點、覺束ない脈搏のやうに調子を生かす、所謂色の合奏樂によつて自然の神秘を傳へんとするに外ならない。斯やうな風の畫法はホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の前に一人のターナーがある。印象派以下の近代派が祖と仰ぐものはターナーであること後に論ずる通りである。然るに其のターナーの發見者ともいふべき美術批評家の獅子王ラスキン(J.Ruskin)がホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の反対者の先驅となつたのは、美術史上の奇運命だ。ラスキンは彼れを罵つて、繪具皿を公衆の面前に投げ出し、それを畫と呼ぶものだと言つた。負けてゐないホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]は之れを、名譽毀損として法廷に訴へ、勝訴となつて一ファーシクグ即ち一錢の損害賠償を受けると共に破産した。續いてラファーエル前派の勇將であつた畫家バーンジョーンス(E.Bume-Jones)も彼れの有力な反對者の一人として、其の『灰色と銀とのノクターン』の一を惡いいたづらのやうだと嘲つた。所がホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]一代の間異端として彼れを斥け、彼れもまた拗ねて陳列を拒んだロンドンの國民畫堂が、彼れの死後千九百五年に始めて其の作を入れた。それが恰もバーンジョーンスに嘲けられた右の畫幅であるとは、アイロニーのやうな廻り合はせである。
六
今一つ最後の例としてホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]乃至其の黨與に對する近時の代表的批難を擧げれば、それは即ち前掲クック氏の『藝術に於ける無政府主義』である。其の大意を摘むと、ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の反動的藝術(Reactionary art)はあらゆる色を具へたパレットを捨てゝ二三の單純な色調の「調整」(Arrangement)を之れに代へんとするもので、早くターナーの成した所、近くはフランスの新印象派(Neo-impressionism)にも刺戟せられて遂に彼れが如き狂的のものになつたのであるが、要するに凡て從來の藝術の可とした事を破壞し去らうとするものに外ならない。粗暴な騒々しい刷毛使ひと暗示的な薄きたない塗抹(Slap-dash blatant brush work and suggestive smudges)とが此等頽廢的近代主義(Decadent modernism)の信者等の信仰箇條である。されば彼等はまた藝術の完成的(Finished)といふことに對してスケチ的暗示(Sketchy suggestion)を主唱することにもなる。すべて在來のよいものを破却しやうとする無政府主義といつてもよい。畢竟時勢が段々平民的になつて、大美術の複製がどし/\一般に行きわたつて、溢れて、遂に一部の趣味を疲勞させた。この疲勞の發現が彼等の藝術となつた。努力することを避け、考へることを避けて簡易に作をしやうとする。バーンジョーンスがホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の藝術は困難の始まる所に終る評したのがそれだ、といふのが最も烈しい攻撃の趣意である。舊派の立場からする反駁としては代表的のものと見てよろしい。
けれども要するに此等の批難は標準が違ふからの事であつて、事實近代派の藝術を累はすに足るものではない。むしろ本當の難點は新派の主張の根本にある。即ち彼等は色彩から直ちに自然の秘密に潜り入らうとする。而して一切圖象の意味を無くしやうとする。併しながら事實に於いて全く圖象を絶するに近い或る種類の音樂のやうな効果は、色彩のみでは未だ成功し得ない。唯の淺薄な模樣の外は、未だ全然圖象を拔いた色のみの名畫といふものに接した事がない。ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]のシンフォニースもノクターンスも、皆それ/″\の風景といふ圖象だけは借りてゐる。少なくとも是れだけの圖象を借りなくては自然の秘密を暗示する力が足りない。問題は此の所に殘つてゐるのである。彼等が絶せんとする圖象といふには、もつと込み入つた意味があるのではないか。
七
多くの場合に着いて廻る人文史上の一つの對照は、自然と人間との消長である。或時は自然が人間を掩ひ、或時は人間が自然を掩ふ。人間の勝つた文明と、自然の勝つた文明とは、場處によつても分かれ、時代によつても分かれ、個人によつても分かれる。文藝の上でいふと、大體に於いてロマンチシズムは人間の勝つた傾向で、ネチュラリズムは自然の勝つた傾向である。從つてロマンチシズム時代では、人間が自分の力を恃むことが盛んで、所謂自己の覺醒と共に、自然まで自己の配下に立たせやうとする。乃至自然はたゞ人間の心内を通過してのみしてのみ發現すると觀、自己心内に展開があれば、それを以て直に自然そのものゝ展開だと考へる。人間の力で自然は動かし得られ増減し得られる。人間の頭の産物は自然の産物よりも貴い。少なくとも自然の最も貴い部分は人間の頭の中のみに發現する。斯ういふ風に思ひ做すのが人間本位から來た風潮である。ロマンチシズムの藝術は、其の超自然的、熱情意的、理想的、現實改造的な所でよく此の事實を示してゐやう。之れに對してネチュラリズムの時代は、人間が自己の力の及ばない方面を一層多く觀る。延ひて自己を小なりとして大自然の懷に投じやうとする。如何に人間が矜つても現に自然が先例を示して呉れないものは、半點も心に思議することを得ないではないか。人間が自然を征服するといふけれども、科學者は依然としてエネルギーの不増不滅を説く。人間は詮ずる處自然の土に湧いた一介物として他の動植物と何の擇ぶ所も無い。我等のあらゆる榮華と野の百合の花との對映は常に思ひ出される眞理である。斯う考へる時に自然本位の風潮となる。靜に客觀の現実實を觀照させ又は自己現實の働きを觀照させるネチュラリズムの藝術が此の風潮を代表するのは言ふを待たない。
ロマンチシズムとネチュラリズムとは文藝上一般の問題であるが、十九世紀の繪畫の上に人間本位と自然本位との傾向の見はれるとき、こそに一種特殊の現象が生じた。それは即ちヒューマニズム(Humanism)とネチュリズム(Naturism)の對照である。假に前者を人間本位と譯し後者を自然本位と譯したら得も其の意に近からう。ヒューマニズムといふ語は最近ヨーロッパの思想界に行われて所謂プラグマチズムの別稱のやうに解せられてゐる。併しながら、十九世紀文藝の上に早くから當て嵌められてゐるのとは、根本に通じた所もあるが、違つた點も多い。文藝上殊に繪畫上のヒューマニズムは元來ロマンチシズムの自然の結果又はそれから派出したもので、夫のセンチメンタリズム(Sentimentalism)などゝ相通じ、凡てのものに感傷を寄せる、詩人バイロンやキーツ等に見えた感情誇大の傾きの一面と見てよい。すなはちあらゆるものに感傷を寄せる結果、人間自己の感想を直に非情の自然物にまで移し、自然物をも人間として取り扱ふ。若くは人間の感情を語り歴史を語らんが爲めに自然物を道具に使ふ。人間本位眼で凡てのものを見る。人間が自然の上に影を投じてあらゆる自然は人間を説明するための寓意のやうに見えて來る。つまり自然を人間に引き直さねば承知しない思想である。而して此の風潮の最も著しく見はれたのはイギリスの繪畫の上であつて、例へば動物畫を以て古今第一と稱せられたランドシーヤー(E.H.Landseer)の後期の畫の如き、また現在でリヴヰエール[#「ヰ」は小文字](B.Riviere)の畫の如きがそれである。ランドシーヤーの『戰爭』と題する畫が軍馬の戰場で斃れる所を畫いて、人間の戰死の苦惱と同じものを現はさうとし『亂射』と題する畫が牝鹿の射られて血を垂らして絶命してゐる所を子鹿が無心に乳をあさつてゐる圖で、人間の同じやうな、哀れを出さうとしてゐるのなぞ其の適例と見られる。此の種の畫をまたイギリスでパセチック、ファラシー(Pathetic fallacy)といふ、似て非なる悲哀とでも意譯すべきであらう。
之に對してネチュリズムを見るときは、是れ亦ネチュラリズムと根本に於いて相通ずるものであるが、始めは專ら畫壇に用ひられて、一派の人々がヒューマニズムの反對の行き方をしやうとしたのである。即ち人間を避けて成るべく自然を畫かうとする、動植物なり風景なりをのみ畫く。また其の自然物も成るたけ人間の力の加はらぬやうに、最も普通に見られるものを、最も普通に畫く。人力で探し出したり、工風をしたりする必要のあるものは避ける。人物などを畫くよりも鳥や花を畫く方がよい。鳥や花も唯の雀や唯の薔薇の花がよく、それも唯の雀として、唯の薔薇は薔薇として寫して、決して雀以上、薔薇以上のものなんか加へてはいかない。
茲までゞ見ると、ネチュリズムは結局自然に、より多くの興味を持ち、自然を自然として描くといふに歸するが、併し自然本位の傾向は之れで行き止るものではない。自然を自然とするといふことから一歩をまたげば、人間をも自然にするといふ階段に這入らざるを得ない。自然が人間を掩ひ蝕する意味は此所に至つて最も顯著になる。而して此の階段はやがて夫の自然主義の發足點である。ワーヅワースは山林を見、羊の群を見る目で人間を見て、此等のものの一つになる所に自然を見た。また十九世紀末の自然主義は人間が動植物と連り、土や空氣と連なるところに眞の意義を見んとした。凡て自然の立場から人間を見て人間を自然に引き直さうとする精神に外ならない。
八
以上の光りでホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等が唱へる所を見ると、其の畫題を斥け物語畫を斥ける所に、ヒューマニズム、ロマンチシズムを嫌ふ心は明らかであるが、彼等は其の以上にネチュリズムをも斥ける。單なる風景畫、動物畫、靜物畫は、それが如何に精細に寫されてゐても、寫眞に外ならない、畫家は擴大鏡を用ふる寫眞師ではないといふ。寫生派、寫實派を斥けるから子チュリズムもおのづから斥けられるのである。のみならず彼等は進んで自然主義其物の大部分をも斥ける。此所からが即ち彼等の立場の困難となる始まりである。
繪畫上の自然主義には後期の發展に屬する印象派に先だち且つ相并んでフランスのミレー(J.F.Millet)イギリスのミレー(J.E.Millais)等の本來自然主義がある。自然主義と寫實主義との主要な區別の一つは寫實主義が其の寫しただけの眞實に滿足するに對して、自然主義は其の寫しただけか同時に全自然全人間を一掴にしたやうな廣漠たる背景を率ひ來たる所に存するのであらうが、此の全景的發相と局部的發相との關係ネチュラリズムにも種類が生ずる。本來自然主義は飽くまでも客觀の局部的發相に忠實であつて、それがおのづから全景的發相に達するやうに進み、印象的自然主義は全景的發相を直に畫家の主觀で翻譯して、一の氣持(Mood)といふやうなものにし、之を直寫することによつて局部的發相を簡疎にする。兩ミレー等の畫には、後に述べる如く既にこの二方法が并用せられてゐると見られるが、しかもなほ其のフランス、ミレーの『穗拾ひ』が三人の農婦の落穗を拾ふ辛勞を畫くことで目的を達し、イギリス、ミレーの『休息の谷』が二人の尼の墓を掘る光景で目的を達してゐる點から、事相を主とする本來自然主義といつてよい。而してホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等は、此れをも斥ける。
印象派の畫になれば、モネー(C.Monet)が得意の海洋研究の強い色彩でも、ラファーヱリ(J.F.Raffaelli)が瀟洒な水邊の色彩でも、全面の上に一つの調子の明になるのは云ふまでもないが、それですら、なほ多分に内容の局部的圖象に負ふ所がある。モネーのあの圖の色調が傳へる意義は、海洋といふ暗示によつて始めて適當に生かされる。然るにホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等の新派は是れをすら邪道と稱せざるを得ない羽目になつて居る。是れよりも更に一歩を進めて、殆ど全く局部的事相を拔き捨てやうとしたのが、此の派の畫である。斯くの如くして片足は自然主義からすらも跨ぎながら、しかも尚ほ他の片足は自然の秘密に分け入るといふ意味で自然の岸に殘つて居る。印象派では、足だけはまだ双方ともに自然主義に立てゐるといふ關係を、ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]は最低度まで減殺しやうとして片足立ちになつた。されば彼れが跨いてゐる他の片方の岸は何であらうか。
九
他の片方には裝飾主義もあれば新理想主義も神秘主義もあるが、それを儉する前に印象派との續き合ひを明にして置く必要がある。ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等の音樂派が源を酌んだといふ印象派の由來を明にするには、便宜のためすつと飛んで十九世紀繪畫の發端を一瞥しやう。
十九世紀繪畫の最要特色は前にマクコール氏も言つた如く、自然が自然として新しい意義を帶びて繪畫に這入つて來たことである。そして其の發端はイギリス十八世紀の後半に榮えたゲーンスボロー(T.Gainsborough)の風景畫である。是れがヨーロッパに於ける近代の風景畫の開祖であつて、同時にまた凡ての後の近代派が生ずる遠因といつてよい。西洋の畫壇にあつては風景畫はちやうど大自然に對する窓のやうなもので、少し畫壇の空氣が沈滯して腐りかけると、此の窓を開いて新しい自然の息を注ぎ込む。而してイギリスにあつてゲーンスボローについで此の役をつとめたのは、十九世紀前半のコンステーブル(J.Constable)ターナー時代で、其の次はすなはちホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]一派乃至同時代諸家、中んづくコンステーブル。ターナー等のフランスに及ぼした影響と其の影響を更に新しいものにしてフランスからホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等の上に投げ返した關係とである。ゲーンスボローの風景畫の價値は彼れみづからの時代には認められないで、單に人物畫家としての名聲のみを博したが、今日から見れば人物畫家と同代のレーノルヅ(J.Reynolds)と比べられる名譽よりも、近代ヨーロッパの自然畫の始祖として特絶の地位を占める方が、遙かに優つてゐる。彼れの風景畫は、始めて忠實に自己本土の目馴れた自然を描いて、風景といへばイタリーを畫くといふ僞自然畫の俗習を打破した。而して後にコンステーブルが出て十九世紀の始めパリーに影響を及ぼし、フランス第一期の自然畫時代を現出した。
フランスの繪畫は十八世紀に於いて夫のルイ王朝の美麗な文明に應じロココ趣味の美麗な作品を生じた。それが次のナポレオン時代に於いて其の文明に應ずべき雄健、威嚴、統一の藝術を要求し、茲にダヴヰー[#「ヰ」は小文字](J.L.David)等のクラシシズムの畫風が一代を支配することゝなつた。これが十八世紀の總じまいで、漸く十九世紀の新畫を芽含み來たり、人物畫ではアングル(J.A.D.Ingres)ルブリュン(Madame Le Brun)等が徐々にダヴヰー[#「ヰ」は小文字]派の舞臺的、誇張的な不自然から脱して行くと共に、ゼリコール(J.I.Gericonlt)デラクルワー(E.Delacroix)等が、一躍クラシシズムの冷靜を破つて熱情あり生氣あるロマンチックの新風を起こし、風景畫及びジャンルはデカン(A.Decamps)に端を開いて、眞の近代自然畫の基礎たる一群テオドール、ルーソー(Theodore Rousseau)コロー(C.Corot)ミレー(J.F.Millet)クールベー(G.Courbet)に及んだ。是れが十九世紀前半のフランス畫壇の大體であるが、此の大體の中を貫いてゐた最大潮流は、言ふまでもなく後のネチュラリズムに注ぐものであつた。
中に就いてもフランス風景畫、風俗畫の第一隆盛を形づくつたルーソー。ミレー。コロー。クールベー等に最も多く近代的傾向の途が地ならしせられたのは勿論である。コローの畫はスヰートだ、デリシアスだ、山水の中に小さく人間や精靈をあしらつて、そのまゝ一篇の抒情歌のやうに畫中の自然をして共に起つて舞はしめる。素人にも黒人にも好かれて、いかにも傍に於いて愛翫したいといふ氣を起こさせるのは彼れに如くはない。之れに比べて見ればルーソーはずつと自然的である。平凡な自然を平凡な自然として畫くといふ、忠實なネチュリズムの精神に合する。ミレーはもつと鋭い、恐らく此の一群に於いて精神の最も近代的なのは彼れであらう。其の『夕の祈』にせよ、『穗拾ひ』にせよ、常に人生の深い回顧を寓して、所謂近代的憂愁の調子に充ちてゐる。且つ彼れの作は風景畫から半ばジャンルの方に脱出したもので、人事を自然と合して畫くのが其の特色である。此の傾向を一層推し進めたのはクールベーであつて、自然の平凡卑小の人事をさながらに描かうといふのが其の立場である。彼れは飾らない平民の爲の風俗畫家を以て任じてゐた。斯やうにそれ/″\の特色はあつても、此等の人々に通じて、或は自然の光線を畫き空氣を畫くとか、或は平凡卑近の題材を擇ぶとか、或は畫の全局にわたつて一つの調子を強く出すとかいふ點は何れも自然主義に歸趨するに於いて相合する傾向であつた。即ち凡て生きた自然を捉へやうといふ一つの願に外ならない。而して此の道を更に深く分け入つたのが即ち印象派である。
十
印象派はフランスの自然畫の第二全盛期を劃するものであるが、其形をなしたのは千八百七十年前後である。之が精確な樣子については今日世間に流布する記事に多少の不一致があるが、今其の比較的最も精しいと思はれる二三の文について之れを述べると、通例此の派は當時のアカデミー派たるクールベー等の冷かな寫實に反動して起つたものだといふ。表面の事實はさうであるが、併し今日から其の思想の根本に尋ね上れば、むしろクールベー等の續きと言つてよい。此に於いてか一方には此の派の端をコロー。ミレー。クールベー等に發すると論ずるものが出た。兎に角此の兩派の關係は今日から見て連續したものであると共に、當時の事實は反對に生じたものと定めてよい。その次に此の派の直接の刺戟となつたものはイギリスのターナーである。先にコンステーブルを通じてイギリスから刺戟せられたフランス畫界は茲に再びターナーを通じて同じ島國から新運動を刺戟せられた。
ターナーが、ひとりイギリスのみでなくヨーロッパの風景畫家として殆んど最高の地位を占めることは茲で説くに及ぶまい。其の燃え上るやうな海洋の畫で、今までの硬ばつた重くるしい描圖が空氣の如く疎散にせられると共に、所謂自然の感情が非常の力を以て溢れて來た。色彩そのものが直ちに自然の感じであるやうになつた。眞の光線といふものが始めて稍完全に畫面に出て來た。若しホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等なり印象派なりの畫を色彩の合奏といふなら、ターナーの畫面は色彩の悲劇といつてよい。印象派の創始者等は之れに感奮して其の新路を見出した。
印象派の發端はマネー。モネー。ドガー(H.G.E.Degas)等に歸するのであるが、中でも眞の創唱者は早く死んだマ子ーで、之れが爲めに最も多く奮鬪した世間方面の代表者はモネーである。今日ではモネーが最も知れ渡つた代表者と見られる。彼れは普佛戰爭當時イギリスに遊んで、親しくターナーの光線畫風に感化せられ茲に全くターナーと同じ自然方面、就中海洋の研究に志し、遂にターナー以後海を解釋するものゝ第一人と稱せらるゝに至つた。
モネーが始めて印象(Impressions)と題する畫を描いたのは、イギリスに渡る少し以前千八百六十七年、ナポレオン三世の頃パリーでサロンに落選した繪畫ばかりの反抗的な落選畫展覽會が開かれた時である。之れが今日の通り名たる印象派といふ言葉の最初である。けれども其の時は無論それが別に派名とせられたのでも何でもなかつた。然るにナポレオン三世の亡びた千八百七十四年パリーのナダール畫堂で開いたマネー。モ子ー等一派の展覽會には、モネーの例にならつて印象といふ名をつけた畫が澤山に出て、「猫の印象」とか「土瓶の印象」とかいふ具合であつた。そこで或る批評家がこれを印象派の展覽會と呼んだ。是れが此の派の名の由來である。從つて彼等みづからは、始めのうちは單に獨立派と呼んでゐた。尚此の派の運動を最も早く認めて之れを推獎したのは文壇のゾラ(E.Zola)であつて、千八百六十六年に或る雜誌上で之れを論じ、爲めに讀者間に大反對を惹き起こしたといふ。
十一
此の派の主義の一つであつた繪のための繪といふことは、もと夫の藝術のための藝術(Art for art's sake)の思想の應用で、描圖に對して、色彩の塗抹を繪畫の主眼とするのであるから、之れを極端に持つて行けば、色彩のために色彩を排列すればそれでよいことになり、印象派の他の一面たる自然的立脚地と矛盾する恐がある。併し彼等は此れを或程度にまで止めて双方の統一點に立場を進めた。彼等みづからは今日でも描圖よりは色彩が先だと言はぬでもないが、其の實本當の立場は自然の眞を描かんがために色彩を借りるといふに歸する。彼等のやつてゐる結果がさうである。ただ色彩を重んずるといふ唱説が、繪畫會の官覺的方面を覺醒した事は爭はれない。近代藝術の一大特徴は官能の鋭敏乃至感覺の尊重といふことである。繪畫上の近代主義が色彩感覺の鋭敏といふことを其の主要現象とするに至つたのは、主として此の派の功勞と言はなくちやならない。無論ヅェニス派の昔から畫に於ける色彩の地位の重要なことは言ふを待たないが、それを新しい形新しい意味で復活させて來たのである。文學に於いても音樂に於いても同じ傾向が認められる。 色彩及光線の上に新畫派の生ずるに至つたのは、前述ターナー等の影響も固よりであるが、其の以外に第一反對派の畫の不自然な色彩、第二當時の科學的研究、第三日本畫の影響といふ三刺戟に本づくことを忘れてはならぬ。
反對派のアカデミー畫、例へばクールベー等の流を酌むものは、其の描圖に於いてこそ現代の風俗をありのまゝに傳へると稱して、寫實もやつたが、其の色に至つては凡て不自然非現實である。依然としてイタリー以來の傳習に囚へられ、ラファーエル等の使つた高貴な色調や理想的の色調が、十九世紀の乞食を描いても農夫を描いてもついて廻る。また風景畫にしても、形だけは自然か知らないが、畫面の調和のために、空が空の色でなく、樹が樹の色でなく描かれる。家の中も野外も、朝も晝も同じやうな不眞實な色で、如何に光線に對する感覺が鈍いかが分かる。此等の弊を矯めやうといふのが第一である。
當時また科學的精神の勃興につれて、光線及色彩の研究がドイツ、フランス邊に起こつて來た。殊にフランスのシェヴロル(M.E.Chevreul)及び其の徒の色彩研究は少なからず印象派の人々に根據を與へた。彼等は殆どシェヴロル等の理論をそのまゝ實地に應用せんとしたものと言つてよい。シェヴロルの名著『色の調和及對照の原理』はヘルムホルツ等の研究と相對して、此の方面に一期を劃するもの、原色、混合色、基本色、寒色、暖色等の事から、色の双互影響や、色彩原理から、光線混合と色料混合との區別、乃至此等の原理を應用した實際方面の事まで巨細にわたつて實驗的研究を積んだものである。今日から見て必ずしも凡て新奇でもなければ正確でもないとしても、當時に於ける此の研究の効果は察せられる。印象派の之れに負ふ所あるは當然であらう。
第三の日本畫の影響といふことに就ては、稍精しく見て置く必要がある。
十二
千八百六十年代すなはち我が開國の頃からして、我が浮世繪類の彼の地に輸出せられることが漸く盛になると共に日本美術熱といふものがフランス。ドイツ等に起つた。殊に千八百六十七年のパリーの萬國展覽會は一層此の形勢を強め、ヨーロッパの美術家、美術愛翫家等は、今まで全く知らなかつた、新趣味を發見したやうに狂喜した。歴史家の記すところによれば、モネー。マネー。ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]。デガー等の畫家を始めとし、文學者のゾラ。等に至るまで皆爭つて日本美術を買ひ集めたといふ、勿論一つは珍らしいといふ意味もあつたらうが、もつと深い理由が潜んでゐたことは、其の結果で明白に證據だてられる。爾來今以てヨーロッパ人の日本美術を論ずるものは口を極めて日本畫の特絶したものであることを賞讃するのが例になつた。併し我々は此の賞讃が將來の日本畫を支配するものと思つたら間違ひである。
日本畫がヨーロッパの繪畫に與へた影響は、我々が本國に居て想像するよりも廣大である。其の重なる點を數へて見ると、前にも一言した如く色調の大膽、裝飾的趣味、暗示的畫風、線畫、といふやうな廉々で是れがやがて彼等の眼に映じた日本畫の特長である。中にも色調の大膽といふことは最も目ざましい結果を呈した。即ちキングスレー氏の『フランス美術史』(History of French Art——R.G.Kingsley)が言ふ如く、從來は同じ風景を描くにしても、赤い屋根白い壁、黄い道、青い樹の色が、そのまゝ出ないで、ずつと沈められなければ調和しないと定められてゐたのが一度日本畫を見ると大膽な明るい際立つた色のまゝで立派に調和してゐる。是れなら何も強いて夕暮れのやうな隱氣な色調にいつも拘泥する必要はない、日中の大ぴらな光線で見た色を描くがよいといふやうになつた。蓋し前に言つた色彩感覺の覺醒にぴつたり嵌まつたのである。而して之れが忽ち種々の方面に影響を現はし、印象派でない畫家の畫にまで大膽な色調の試みが交つて來た。イギリスのラファエル前派の如きは、殊に此の方面に苦心して、イタリーの古色彩などを研究し、それを現代の色に生かす工風をした。其のため此の派の畫くものにはたしかに現代現實の色が大膽に染め出されたと見えるのも出來たが、併し結果は際だつた部分色の硬い冷たい排列といふ感を消し盡すことを得なかつた。現實の明い色になつて配色は大膽になつても、調和が取れないとか、調和の取れた色はやつぱり元の美化したり加減をした色になるとかの結果であつた。此の際に起こつて全く新しい方法を工風し、以て此の難關を切り拔けたのが印象派に外ならない。
次の箇條の裝飾的趣味といふことは、日本畫に取つては褒めた意味にも貶した意味にもなる。例の藝術の爲の藝術から言へば繪畫の行止まりは或は裝飾かも知れないが、違つた立場から見れば、装飾的繪畫は一體であり得ると共に、全體でも無ければ主要のものでも無い。藝術の深い要求は矢張り色の案排の奧に或物を望む。然るに日本畫の裝飾的な、何處かおつとりとして圓み鈍み稚みのついた趣味は、大部分此或物を犠牲にする所から生ずる。即ち圖象として之れを見るとき、何と辯護してもそれが非現實を意味し、不自然を意味し、死を意味して、徒らに手巧の跡ばかりを想はしめる。之れが先づ觀者の反感乃至輕侮を買つて、其の以上に寛容の趣味を發揮して見た所で、おもしろい綺麗だといふくらゐが最上の感興となる。到底一層眞面目な趣味はあの稚態死態からは生じて來ない。ラファエル前派のロゼチなども、イタリーの古畫に手本を得、又恐らく日本畫の稚拙的裝飾趣味に思ひ付いて其の畫に往々遠近法を破つたり、影を輕んじたり、色の輪廓を際立たせたりした裝飾趣味を加へてみたが、それはたゞ一部の好奇心に訴へたに過ぎないで、何の寄與する所もなく過ぎ去つた。又ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]其の他フランスの所謂東洋派(Orientalists)の畫家等が東洋畫題を取扱ふ場合に、間々殊更に此の裝飾的不自然的な趣味を用ひた例も見受けるが、是れ亦畫壇の本流にはさしたる影響のない好奇繪で終つたのが多い。
之れを觀ると日本畫が洋畫に及ぼした裝飾的趣味といふのは、一半其の色彩にあるので、生々した美しい色をそのまゝ汚さず殺さないで使つて、而もそれが調和してゐる所から來る裝飾趣味を指し、決して其傍にある描圖の稚拙不自然といふ點を指すのでは無い。從て稚拙不自然と同義語に見做される意味での日本畫の裝飾趣味は事實少しも洋畫に影響を及ほしては居ない。若し影響したとすれば、それは純裝飾美術即ち模樣畫の上にである。此の點は後の線畫の條と相通ずる。けれども茲に他の半面がある。それは稚拙不自然と同義の裝飾趣味でもなければ色彩美と同義の装飾趣味でもなく、日本畫の暗示的畫風が齎す裝飾趣味である。暗示的畫風といふのは、即ちホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等が盛に取つた所の趣味で眞面目なものから一筆畫、漫畫等に至るまで、凡て描圖の筆を簡疎にして、要點のみを寫すもの、從つて之れを我々が見るときの第一印象は現實から外れたおもしろいもの、即ち裝飾的と云ふ感じであるが、併し此の意味での裝飾趣味は、第二印象以下では變じ得る。即ち始めはちよつと模樣などゝ連想もするが、眺めてゐる中に、不自然といふ感は刺戟せられなくて、却つて其の簡疎な圖象の底から複雜な自然が暗示されて來る。此所まで來ればもう裝飾的ではなくなる、裝飾的以上になる。此の畫風は勿論日本畫に始まつたのではないが、探幽光琳などが少なからず之れをヨーロッパに皷吹したと言へる。
最後の線畫といふことは、日本では特殊の意味を持つて居て、また特殊の問題を殘してゐるがそれは今こゝで論ずべきで無い。線畫としての日本畫が洋畫に及ぼした影響は、強いて求めれば、彫畫(Etching)鉛筆畫、ペン畫等の上にあらうが、併し是れは多く説く程ではあるまい。むしろ純裝飾畫の上に其の勢力を振つて、夫のアール、ヌーヴォーの如きものを生ずるに至つた。是れが最も顯著な事實である。彫畫などでは、線のために線を引いて針の力を見せると主張する人もあるが、併しそれは畫家として最も偉大な線を彫ると稱せられるイギリス在住のレグロー(A.Legros)の作の如きですら、其の雄健な線が萬すぢのやう蔓つてゐるに拘らず、最後の印象は矢張り其の圖象の生きた姿である。是れあるが爲めに其の線も生きて來る。若しあれが單なる線條のみの組合せであつたら、幾ら其の線條が雄健でも、要するにアール、ヌーヴォーの模樣以上に卓出することは出來ない。雜誌『スチュデヰオ[#「ヰ」は小文字]』の記者がペン畫鉛筆畫を論じて、昔は描圖(Drauing)といへば線で描くことを意味してゐたが今は全く線を沒することによつて物の眞形を與へることを意味して來た。針尖で描く線畫すら刷毛で描くものゝ跡を追うて來た、といふ如く、線畫も結局は其の線といふ名を忘れしむるに至るのが極致であらう、それには西洋ならやはり彫畫や鉛筆画の範圍、日本なら墨畫あたりのみが此目的を達せしめるのでは無いか。洋畫でも水彩などに間々線畫法を用ひたのを見受けるが、概して裝飾畫の部類に屬するものゝやうだ。線畫の西洋に及ぼした影響はやつぱり主として裝飾美術の上にある。
十三
そこで論は再び印象派の事に返つて、以上のやうな影響の下に生じた此の派の主張は何れにあるかといふに、先づ其の印象といふ語に幾重かの意味があり得る。即ち先づ其の寫す事物の最も個的なる時間の現象を描きたい、最も個的な時間の現象といへば最も瞬間的な現象になる。某月某日の第何時何秒に經過した一瞬といへばそれが一番個的である。斯やうな瞬間的(Momentary)な刹那に消えて行く(Fugitive)ものに最も個的な所を見出だす。盖し最も個的なものを捉らへ得ればそれが最も精確な事實である。同じ意味からして又最も我れに接近した状態で其の事物を描く、我れが其の事物から受ける圖象を順序も關係も明暗の度も變へないで、直さま寫す。是は畫家の實驗的現象其のまゝを捉らへるのだから一層精確だ。而して其の外更に其の事物の一團が與へる氣持を描かうとする。是は我々が經驗する局部々々の事物の相關聯する所に生ずる漠然たる意義であつて明白な智識を待たずして我々が常に感知してゐる全面的背景的印象である。斯やうにして、畫家の頭にに寫したまゝを、そつとして、動かしもしないで、瞬間的に背景の氣持と共に描き取らうといふのが印象派の立意である。從つて其の根本は出來るだけ密接に自然を捉へやうといふに過ぎない。
さて彼等は何うしてこんな、手に取り難い光のやうなものを描かうとするか。此所から彼等の科學が始まる。彼等は物の形象を分解して色から成り立つとし、而して色とは畢竟其の事物が大氣を通じ光線を借りて我を刺戟する力すなはち價値(Value)の種々に外ならないとした。其の結果最も忠實に自然の形を描くには色を忠實に寫すに如くは無く、色に忠實である爲めには舊來の色彩法を根本から革めなければ駄目だとし、自然が色を我々に與へると成るべく似た方法でやらなければならぬとした。從つて事物に附着して別々に存在してゐると思つた種々の色、すなはち部分色(Local tone)は誤りであると定まり、パレツトの上で色料を種々の定着した色に混成するのは自然を殺すものに外ならないとなつた。けれども全く自然と同じやうに既成色のない刺戟力即ち價値のみを用ふることは人力では出來ないがため、シェヴロル等の説く所により、最少數の原色だけを假用して、之れが組合せで種々の價値を生じさせ樣とした、赤、青、黄、といふやうな原色のまゝを細かい點や線にして、并べ施し、それが種々の價値に從つて眼を刺戟するとき、始めて眼の中で結合し、自然の場合と似たやうな手續で樣々の部分色を現ずる。色が先方になくして眼の中で成り立つといふ方式を取つたのである。斯うして上は全くの空白から下は眞黒い影に至るまで、あらゆる階段の色は凡て原色の價値の配合で出て來る。而して所謂原色の範圍性質や其の塗抹法等は人により流儀により種々であつて、例へばフランスのは青地がゝつたのが多くイギリスのは赤地がゝつたのが多いとか又始めはたゞべた/\と蕪雜に施してゐた色料を後には精密に小さい點にして施すために點彩派(Pointillists)と呼ばれといふ工合である。
是れだけの工風の結果、洋畫界の色調は殆ど一變したといつてよく、舊派新派に論なく、多少之れが影響を受けないものは無いといふ有樣となつた。一評論家が言ふ如く、洋畫界の色調は此の以後始めて十一月の空から五月の空に出たやうに明るくなつた。今此派の改革が與ふる利益の重なる者を言つて見ると、彼等は始めて從來種々の色調が硬ばつたまゝ、はつきりとした輪廓で割據して容易に調和しなかつた部分色の困難を脱し得た。色調を空氣の如く柔にして、自然のまゝの大膽な色が凡て自由に溶け合ひ得るやうにした。又色が動き易くなつた爲、感情氣持といふやうな全體的のものが容易く出るやうになつた。つまり感情を受け見はす力が強くなつたのである。また今一つは色調が右の如く眼の中で始めて成立し、向ふで出來上つた色をそのまゝ受入れるのと違ふため、眼の働が必要になり、そこに一種の活氣を覺える。いはゆる色の震動(Vibration)がそれであつて、畫面に生氣を帶しめる効がある。以上は印象派が自ら認め又世間から認められて功とする所の箇條である、併しながら技巧の此方面に關しては、尚疑はしい點もあつて、全部凡て其の通りとは言へない場合もあらう。其の邊は專門家が腕で決すべき問題である。繪畫上の色彩法は凡て印象派形式でなくてはならぬか。現に之れを折衷し加味するものはあるが、全然是れのみで行くものは必ずしも殖えて行くと限らぬ傾は無いか。或程度までの色や影は比較的容易く出やうが、其の以上の深さや遠近が出にくゝて、動ともすれば淺い平たい畫になる恐はないか。隨つて或種類の畫は此の方法とうまく適應するが、他の種類の畫は此の方法に適しないため餘りに明るく平たくなり過ぎて、美しい裝飾、美しい色彩と見えるだけに止まる恐はないか。結局此の新し科學的傳彩が果たして舊來の全パレット式な部分色的傳彩法と同等若しくは其の以上に自然の限り無き形象と適應し得るか否かといふことは未定の疑問なのである。
けれども印象派の立意に存する價値は否むことがことが出來ない。今では機械的な傳彩法の方が此の派の眼目のやうに思ひなされてゐるが、實際の精神は、色彩で以て自然の最も眞實な刹那に肉迫するといふ趣意に存すること勿論である、其の他之れが結果として畫題が卑近普通のものを好むやうになつたり、描圖が一部を明細にして他部を粗描にする暗示的のものになつたり、又特別な色彩法のために變色の憂が少なくなるとか、一定の距離を置いて畫を見なければ光線が結合しないため物體が浮んで來ないとか、畫の周圍に空白を殘して、額縁も吟味してつけなければ色彩の相互影響で畫面の邪魔になるとか、又光線研究の上では朝夕の時間を描くことに苦心するとか、戸内の空氣と戸外の空氣とを畫き分ける爲に戸外研究をやる。從つて戸外の光線に本當の色彩を認めるといふ所謂外光派(Plain-air school)とか、微細な事は茲で述べる必要も興味も少なからうと思ふ。
個人としては前に名を擧げた外、ピサロー(Pissarro)ルヌア(Renoir)シスレー(Sisley)以下一々記する限りでない。ドガーのパリー風俗、殊に下層の婦人や寄席に出る踊子等を畫くに得意なのは、モネーの海を好んで畫くのと一對、またベナール(Besnard)が近時の最大膽な印象派と稱られること、稍離れてはセザヌ(Cezanne)が科學的冷靜と綿密周到の用意との中から、強い深い自然の感情を色彩に入れて一生面を開きかけたこと等、尚言ふべき點は多いが、印象派の大體論は是れに止める。
十四
色彩を主とする裝飾的傾向と、現實自然の眞に觸れやうとする自然派的傾向との結合が印象派であるとすれば、ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]等の新派も亦た根本は同じである。ただ其の方法に於て、彼等は印象派よりも更に多く現實の助けを斥けやうとする.隨つて自然派から隻脚を踏み出すことになる。其の踏み出した隻脚は何處を指してゐるか。ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]は之れを音樂だといふ。此の場合に音樂といふ語には、感覺から直接に最後の靈的意義に連なるといふ神秘な意味が含まれてゐる。耳に音を聞くだけで、それがそのまゝに何だか深い/\意義であるやうに思ふ。此の氣持を指すのである。即ち感覺即靈といふ標象的傾向に外ならない。併し凡ての藝術の中で此の役目を最も完全に成し遂げ得るものは、音樂であらう。耳から這入つて來る感覺には不思議に此の神秘性がある。是れの反對の極に立つてゐるものは散文々學で、繪畫は其の中間に位する。色彩は如何に之れを取り扱つても、是れのみで音樂に於けると同じ効果は收められさうにない。此に於いて色彩の傍に自然の事象を借り用ひて、其の目的を達する。此點から見れば、繪畫は到底文字通りに色彩の音樂とはなり得ない約束を持つてゐる。音樂的にはなり得やうが其の以上はむつかしい。だから傍に自然の助を借りる。其の助の借り方に現實からするものと空想からするものとの二種類が生じて、茲に新自然派と新理想派とが分かれる。兩つながら神秘性を帶びた音樂的標象的のものではあるが、一は依然として印象派の進化したものといふ傾を有する。印象派から出て在來の此の派が明るいものを畫きすぎたのに對し、夕暮や夜の神秘な暗い光線の地上に殘るさまを好んで描く一派乃至、ホヰッスラー[#「ヰ」は小文字]の如きがそれである。是等をこそ神秘的自然主義又はユイスマンの所謂靈的自然主義と呼ぶべきであらう。又他の一はフランスのモーロー(G.Moreau)シャワ゛ンヌ(Puvi de Chavannes)等が代表する一派である。 モーロー、シャワ゛ンヌ等の新理想派を論じやうとすれば、ロゼチ等のラファエル前派乃至ワッツ(G.F.Watts)等の新ヴェニス派に振り返り見て、此等イギリスの新理想派を研究しなくてはならぬ。始は之れをも論ずるつもりであつたが、紙幅の都合で他日に延すことゝした。
さて以上擧げた種々なる新派に對して、描圖を主とする史畫、理想畫、肖像畫、風景畫、風俗畫、靜物畫の凡てを舊派又はアカデミー派とは呼ぶが、併し此の方面内にもおのづから變遷があつて、結局は違つた途から同じ所に達しやうとするに外ならないから、實際はたゞ描圖派と色彩派と言ふのが穩當である。而して描圖派近來の傾向は是亦た色彩派と同じく、大體に於いて自然に肉迫しやう、現實に復歸しやうといふことである。歴史畫、神話畫、宗教畫等が減じて、肖像畫が榮え、風俗畫が榮え、風景畫が榮え、水彩の發達が益々此等の傾を助けて、色彩の上には光線に忠實な印象派の影響をも取り入れ、畫材の上には田舎や下層の現代生活が多く描かれ、而して描法は昔の表面的な寫實から近代的な、内面を暗示するやうなものに移つた跡が見える。一言以て掩へば自然派的である。其の間には理想派的な運動も、或はラファエル前派に於いて、或はワッツ等の新ヴェニス派に於いて、或はバイアム、ショー(Byam Shaw)等の宗教畫に於いて、試みられないではなかつたが、体勢はやはり今言つた通りで、たゞ其の一角に於いてフランスの新理想派等が新自然派と神秘趣味を通じて接近する次第は前に述べた如くである。
されば最後に描圖派の新畫風の一例としてサーゼントの事を一言して此の文を終へやう。言ふまでもなく彼れがヨーロッパの畫壇に於ける地位は專ら肖像畫家としてゞあるが、其の畫風は直ちにフランスのローダンが、彫刻を想ひ出させる。印象派其の他に現はれてゐる新畫風の一つが、細寫に對する疎描、部分的に對する暗示的といふことであるとすれば、サーゼントの畫は此の傾向を代表的に具現してゐる。完成の態を避けて、未完半描の趣を殘すところに自然の生命を蓄へ、遠く十七世紀のレムブラントに返ると稱せられる。
色彩派たると描圖派たるとに論なく、歐洲近代の繪畫が赴く所の傾向は、此等の事實でおのづから察せられると信ずる。(明治四十二年一月)
----------------------------------------
← 扉 へ
← 目次 へ
← 歐洲近代の繪畫を論ず|一 へ
→ 歐洲近代の彫刻を論ずる書 へ