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自然主義の價値
吾人は此の文によつて上に掲げた自然主義論の後を承けやうと思ふ。彼れが如き文藝上の傾向は結局如何なる意義若しくは價値を有するか。本論の眼目は此の問題を研究するに在る。
顧みて周圍の文壇を見ると、此の問題に關する議論は日を逐うて益々盛んになり、吾人の所懐に對する批評も數回のみならず聽くを得た。其の中で吾人の論に疑議を加へられた諸説に對しては、論題の性質上、一々別に答へることが容易で無い。葢しその題意の複雜深邃なること自然主義論の如きは近時の文壇に多く見ない所である。其の一末梢を將つて搖かすも、震動は幹に及び根に及ばなければ休まぬといふ趣で、一端の説も直ちに文藝存立の根本問題、乃至人生道徳との交渉問題に入らねば解決せられぬやうに見える。其の實地運動が極めて重大な意義を有すると同じく、自然主義論も責任の重い大問題として取扱はれなくてはならぬ。よつて吾人は茲に部分々々の辯疑よりも先づ自家の根本觀を述べて、更に世の批評を得たいと思ふ。
專ら彼の地に於ける事實及び理論を基として自然主義の要領と見るべき點を數へ出さんと試みたのが、一月の論の趣旨であつたが、其の結論としては、作の態度方法の上に純客觀的と主觀挿入的との二項目を得、作の目的題材の上に自然の眞といふこと、之れを碎いては社會問題、科學、現實等に現はれた眞といふことの一項目を得た。併しながら此等の諸項目には尚多分に解釋、批評の餘地が存する。態度方法の上の研究を自然主義文藝の外形論と呼び得るなら、目的題材の上の研究は其の内容論である。吾人は便宜のため此の區別に從つて論緒を進めやう。
二
目下の我が文壇が前掲の要項に對して提出する疑問は一二に止まらないが、それに先だつて一瞥して置く必要のあるのは現時の小説が實際前期(と假りに呼ぶ)の作風と如何なる點で相違するかといふ事である。吾人は參考のため前期の代表作の一二と近時の傑れた作の一二とを比較して、優劣の判はしばらく措くも、其の作風に截然たる差あることを明にして置きたい。例へば故紅葉の作中、内容の上で最も新しい方向に近よつたものは『多情多恨』と『金色夜叉』とであらう。兩つながら一種の意義ある小説である。意義ある小説とは漠然たる語であるが兎に角單に讀んで面白くといふ以上、何ものかの深い暗示を與へるやうな印象を、感想の上に刻まうとする作風である。『多情多恨』には思想上にさしたる暗示も無いが、一つの情緒を描いて見やう、又は或る特殊の性格を抽いて見やうといふ所に、作者の考へ方が一歩人生の意義といふ如きものと接近した跡を認める。『金色夜叉』は明に一の落想を以て人生の意義の一片を見させやうとする、思想上の印象を覘つた作であらう。而して前者は其の所含の意義があらはな思想で無いだけに、一方からいへば一層多く渾然として自然派的であるが、一方からいへば情緒のうしろに深い背景が無さ過ぎる。たゞ情緒を書いたといふ丈に了る弊がある。また『金色夜叉』の方は思想があらはに出てゐるだけに、『多情多恨』よりは多く意味ありげに見えぬでもないが、併し其の思想が單純平明であり過ぎるため、熟視すれば其の思想が概念となつて作から離れる、所謂觀念小説の餘弊を免れない。さらば此等の内容的意義を引き去つて此の二作を見るか。たしかに手だれの作であるからそれ丈としても面白いには相違ない。たゞ同時に作の威嚴が無くなつて、段々普通の娯樂機關に近づく。我等の審美判斷の少なくとも半面の評價が下落する。此の兩作を特に他作から抽き出だす理由が無くなるのである。
内容の論はそれでよいとしても、外形は何うであるか。手だれの作だから面白い。其の面白いのは何ういふ風におもしろいか。『多情多恨』の中で最もおもしろいと言はれるのは葉山といふ副主人公の通りものと、並はづれてうぶな鷲見柳之助といふ主人公との對照であるが、取り分け第三節のあたりが喝采を博したと記憶する。たとへば柳之助が愛妻を喪つて淋しさに堪えずして、葉山をたづねた會話の條に、葉山の細君を窮屈がつて、
「君ひとりだと可いけれどな」
「私がひとり限りなら、早送鷲見さんと夫婦になるよ」
「實にさうだね、君が女だと可いのだ」
洒落でも何でも無く、柳之助は眞面目で言つたのである。葉山は手を拍つて、反身になつて笑ふ。
「此奴が雌だつた日にはお荷物だ。床の中から指圖をして、亭主に飯をたかせる玉さ。夕涼みよくぞ男に生れたるで、自他の仕合せなのだらうよ」
又は『金色夜叉』で例の熱海の海岸のくだり、貫一の詞の
吁、みいさん、かうして二人が一處に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月十七日、みいさん、善く覺えてお置き。來年の今月今夜は、貫一は何所で此の月を見るのだか!再來年の今月今夜………十年後の今月今夜………一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、みいさん、一月の十七日だ。來年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月を曇らせて見せるから、月が………月が………曇つたならば、みいさん、貫一は何所かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思つてくれ」。
宮は挫ぐばかりに貫一に取りつきて、物狂しう咽び入りぬ。
一字一句皆洗練せられて、是れだけづゝ別々に味へば、含んでゐたいやうな甘味がある。けれども詮ずるに作者がこしらへて言はせた言葉といふ埓をば破り得ない。見物を前に据えて置いて、さてうまい事を言つて見せるぞと舞臺に見えを切つた時の臺詞である。それだけの情、それだけの性格を一つ取り離して強く出さうとした修辭的誇張たるを免れない。犇と此れを取り卷いてゐる長い廣い周圍の一凸起であるとしての情緒、性格の濃寫では無い。從つて之れを全體に繋けて見るとき、誇大、修飾、人巧すなはち不眞實といふ意識が伴ひ起こらざるを得ない。幕背に作者の聲容が透けて、言葉の遊戯、感情の遊戯、人事の遊戯をおもしろく演じて見せる。されば面白いと思はれる限り寢ころんで讀むのは善いが、起き直つて眞面目に考へ込む氣にはなれない。馬鹿らしいといふ感じが起こる。言はゞ人を眞實にする力が足りないのである。
要するに外形に於いてはそれがぴつたりと本來の内容にくつつかないで、中間に作者の手が挟まり、全體の結構に於いても、性格の鏤刻、感想の表出に於いても、譬へば胸で作つた外形でなく、頭で作つた外形になる。與へられたる内容を外形の力で増加しやうとする。又内容に就いて言へば、人生の意義を暗示する力が無い。之れを作家の態度覺悟の上から見ると、恰も近時の作風と相反することゝならう。外形の力で内容を増加せんとする態度と、内容以外に一毫も外形の寄與を許すまいとする態度と、筆を執る時の氣持が違ふ。又表面に見えてゐる事柄だけを面白く書かうといふ態度と、其の背面に人生の深い意義を暗示しやうといふ態度とも、氣持が違ふ。此の氣持がやがて作風に千里の差を生ずる所以である。
或は態度氣持といふことは、作者心内の事であるから有無ともに明白には分からぬかも知れぬ。また甲乙種々の氣持はあつても、其の實現した結果は必ずしも之れと符号しないことが多いかも知れぬ。されば結局は作の出來ばえによつて推斷する外ないのであらう。今最近時の佳作の中で、便宜のため『早稲田文學』に載つたものゝ一二を取り出せば、正宗白鳥氏の『何處へ』の中で、主人公健次と友人織田とが救世軍の説教を聽いた後のところ、健次が
「面白いぢやないか、彼奴は地球のどん底の眞理を自分の口から傳へてると確信してゐる。あの顏付を見給へ。自分の力で聽衆を皆神樣にして見せる位の意氣込みだ。人間はあゝならなくちや駄目だ」
「何にも感心しない君がなぜ今夜に限つてあんな下らない者に感心する?」
「さうさ、僕は救世軍にでも入りたいな。心にも無いことを書いて讀者の御機嫌を取る雜誌稼業よりや、あの方が面白いに違ひない。あの男は欠伸をしないで日を送つてるんだ。生きてらあ」
「はゝゝ」と織田は大口開けて勢無く笑つて「僕は青年が浅薄な説教なんかして日を送るのが不憫になる」
「しかし浅薄や深刻は本當は問題ぢやないんだね、打たれやうが、罵られやうが、自分のしてる事が何であらうとかまふものか。もつと刺戟の強い空氣を吸はにや駄目だ」と健次は歎息する如く言つたが、織田のぼんやりした顏を見上ると、急に「ぢや此處で別れやう」と早口にいつて輕く會釋して九段の坂を下りた。
又は眞山青果氏の『家鴨飼』の主人公が巡査から立退の説諭を受けて、
「だとつて家鴨は私のものだ」
「誰も家鴨をお前のものでないたア云はんよ、會社は家鴨の背中へ柱は立てない」
と警官は噴出した。
皆ドツと笑つた。老爺は額越しにヂロリ皆の顏を見た。(中略)
「さ、仕事だ/\」と源吉は下から上へ聲をかけた。工夫や人夫どもはドヤ/″\と窪地へ降りて來た。
「待つて、待つて」と門左老爺は空を泳ぐやうな手附で、慌てゝ寢床を起つた。見ると顏色も青褪めて、眼も涙含んで居た。唇はブル/\と顫えて居る。
「何んだ、まだ文句があるんか爺さん」と一人は鶴嘴を杖つきながら嘲つた。
「家鴨をしまつて………垣根も私が結つたのだ」とヨボ/\と縁先を下りる。
「早くしねえ、背中に柱が立つよ」と皆を笑はせる。
老爺は大手を擴げて池の周圍をグル/\回りながら、ト、ト、トと鳥を一所に集める。頸の長い牝鷄が一羽、いたづらさうにそちこちと遁げ廻つて何うしても鳥屋へ入らない。老爺は息を切らしながら一生懸命追廻してゐた。そしてやつと入れた。
「さア仕業だ」と監督の命令で人夫どもは埋立の土を畚で搬び初めた。老爺は丸い背中を日に曝らしながら、周圍に結つた裏竹の垣根を實體にほぐして居る。
此等の文例を前に引いた例に比べると、修辭上粗雜の點あるに拘らず、中身から發して來る味を極めて素直に傳へてゐる。面白いのは全體と連なつた内容であつて、其の部は其の部だけ特に取り離して後から彩色を濃くしたといふやうな氣味は少しも無い。
更に此等の作が提起する内容について言ふと、『何處へ』は未發展の作であるため周圍が充實してゐないに拘らず、作中の諸性格たとへば主人公や織田や、主人公の父や、乃至降つては博士の妻君や其の夫や、それ/″\のスケッチだけで既に其の周圍もおのづから想像せられ、現人生の一邊が深い印象を讀者に刻みつける。『家鴨飼』亦た其の主人公の性格及び周圍の生活が一幅の活畫圖となつて、眞面目に人生を回顧指目するの情に堪えざらしめる。如何にも此等が眞實の世相であると感ずると共に、それを本にして眞面目に其の周圍、其の連續、其の奥を想ひまはさしめる人生は味ひの深いものだといふ氣持を起こさせる。たゞ其の事柄だけは面白く見せても、延いて人生の味ひといふ氣持にまで我等を導く必然性の無い作は、おのづから是れと類を異にする。
以上の説は主として之れを事實に着して立てたのであるが、其の新しいものゝ特徴を今一度概括して言ひ直すと、外形に於いて消極的には排技巧となり積極的には描寫の自然となる。また内容に於いて消極的には排遊戯となり積極的には人生の意義の暗示となる。さて此等は一般謂ふところの自然主義と理論上如何の干繋を有するか。
三
自然主義論に對する種々の非難の中、先づ外形の純客觀的といふことに關聯して起こる疑問は、之れを作者の心内に求めては、果たして無念無想といふ如きことがあり得るか否かといふ事、また之れを作り上げた物に求めては、果たして全く主觀の交わらない作品といふものがあり得るか否かといふ事である。
此の論を根本から明らめやうとするには、主觀客觀といふ語から定義してかゝらねば無駄である。例へば常識上の主客觀、心理上の主客觀、哲學上又は知識上の主客觀といふ風に區別して見ると、通例の議論には此等のちがつた別け方がごつちやに用ひられてゐる。吾人は論の煩瑣を避けるため茲に或度以上の論據を假定して、審美的主客觀ともいふべきものを極ざつと取り出して見んに、論の順序として先づ心理的主客觀から出立する。即ち吾人の意識内に於いて知的現象は(判斷までを含めて)凡て客觀であるとし、情意的現象は凡て主觀であると假定する。此の以上はこゝでは説かない。而して斯くの如く客觀が我等の意識内に生起したとき、之れに主觀の情意が反應作用を呈する状態に凡そ三段若しくは四段の境地があり得る。例へば路傍に性の知れない異體のものが横はつてゐる。先づ斯やうな知的現象が意識の鏡に映じた時、我等ははつと思つて驚き見つめる。我れの是れに對する態度を定めるため先方の正體を見極めんと注意を一時に之れに集める反應である。而してそれが行倒れであつたと知れると共に、自分に不利の繋累が來たりはすまいかと思へばすた/\と急いで其の場を去る。又自分に掛り合ひは無いと思へば好奇心で立ち止まつて見る。茲までは第一段の情である。我的と名づけてよい。我れを中心として直下に感ずる情である。而して好奇心で立ち止まるなり、急ぎ行き過ぎるなりしながら、さてつく/″\其の行倒れの身の上を思ひやると、哀れになる、又何か深い遺恨でもある者なら善い氣味と思はぬとも限らぬ、つまり同感(シンパシー)若しくは反感(アンチパシー)が起こる。之れは第二段の情で半我的とも名づけられやう。即ち半ば我れを基本としながら半ば先方の情に同じて、彼我對立の状となり、可愛さうとか、憎いとか、善い氣味とかいふ批判的態度を取る。從つて可愛さうなら救濟の方を考へてやる、また憎ければ其の状態を續けさせたいといふ氣持ちになる。凡て直ちに我が意のまゝに實行せんとする階段に移つて行く。道徳的同感又は反感とも呼び得やう。それが第三段になると審美的同情になる。即ち他的とも稱すべく、全く我れを離れて先方と同じ情が我れに起こる。妻子もありながら零落して到頭路傍の行倒れとなつた。當人の心の中は無限の悲哀であらうと普通に察せられる。此の悲哀が傍觀してゐる我等の胸に迫る。此の時我れと行倒れの人とは一になつて、一つの情で結合せられて了つてゐる。幾分か先方の悲哀を想ひ得て、氣の毒だ救つてやりたいと思つてゐる間は、まだ我れと他と一になつて居ない。第三段の情になると、我れは全くさもあらうと想定する先方の情そのものになり切る。此に至つて主客の兩觀は溶けて意識の一燒点に合體する。我れの情で向ふの物を生かす。向ふからは物が來、我れからは情が往つて、ぴたりと行き逢つて一つになる。之れを美意識の本來と名づけてよいのであらう。而して此の第三段境は更に二つに分かれる。情緒的と情趣的ともいはう。情緒的とは前來の説の如く普通種々の情緒が其のまゝ客觀に合した場合で美的情緒(Aesthetic emotion)であるが、情趣的とは、斯くの如き情緒的事象が幾何づゝでも起こつた後または切れ目に、其の中心事象がちよつと意識の上に薄らぐと同時にそれに伴つてゐた明白な情が水に繪具汁を點したやうに、ぱつと散つて一面の漠とした情になり、且つ連續した數多の情が朧げに或る一調子を連瑣として周圍に浮動し來たる。またそれにつれて其の種々茫漠の情を的確にせんと雜多連續の知的要素が意識の表面に浮びかける。茲に一種捕捉し難い一般的な感情を經驗するに至る。此の一般的な情、言はゞ事後感情、混合感情とでも解すべき一種の印象を茲で美的情趣(Aesthetic mood)と呼ぶ。印象的情緒である。第四段境と見てもよい。
斯やうに見地を定めて見ると、第一第二の境にある情は美的とはならない。何故ならばまだ客觀化されて突き出されてゐないからである。勿論是れは舊來の美學の實感假感の別ではない。現實に對して痛切に同感してゐる、其の同感で差つかへないが、たゞ同感といふ形に是非ならなければ、藝術は産まれぬといふのである。行倒れに對して驚く、憫む、直ちに筆を援いて之れを描く、而も若しそれが藝術になつたら、必ず其作の成る瞬間の氣持は知らず/\驚く憫むを通り越して、悲しいといふ境に入つてゐるか、乃至其の驚く憫むが直ちに自分でありながら自分に打眺められ同感せられるといふ二重の形になつてゐるに相違ない。此の意味から言へば、凡て藝術は客觀的でなくてはならぬ、客觀化せざる主觀は斥けらるべきものである。即ち藝術の世界から全く遮斷せらるべき主觀とは、第一境第二境の情である。強いて遮断しなくとも、是れに滯る間は、藝術的取扱をする餘裕は無い。達つて之に形を與へても、藝術では無いものになる。第三境以上は、自ら實地に切に感じながら同時に之れを描くことが出來るが、第一第二の境地では初めから藝術は出來ぬといふのである。
されば非藝術的な此の主觀的情緒を藝術に入れるには一歩を轉じて第三境の情緒に變性さすか、然らずんば一種特殊の方法を用ひて強いて之れを誘ひ出す外は無い。其の方法とは節奏統一などいふ人心本然の活動形式に摸した技巧の力で其の途を滑かにするとか、又は客觀化した事象の中に感嘆、批評、判斷、意見等の形で點綴し附着せしめるとかいふ工風である。例へば夫の『萬葉』の行倒れを哀む歌に「家ならば、妹が手まかん、草枕、旅に臥(こや)せる此旅人(たびと)あはれ」とある、末句を哀れむといふ意に取れば、主觀の情が其のまゝ點綴せられ且つ節奏に乗つて流れ出たのである。其の他抒情的な詩歌乃至散文中の抒情句等が皆同じ例である。此等は即ち一種特殊な工風に屬するもので、藝術中の主觀方面といふべく、主觀的と抒情的とは此の意味で同義に見られる。之れを抒情的又は自叙的主觀と名づけて置く。
抒情的主觀に對して情緒的主觀ともいふべきものがある。第三段境の情緒を特に知的方面から引き離して、是れを主として描き出さうとする。又は是れを自由に濃厚ならしめやうとする。茲では旅人不憫といふ作者の抒情でなく、旅人みづからの悲哀孤獨の情緒ではあるが、それを更に旅人から取り離して作者が自由に取扱はうとする。夫のロマンチシズムの中にある主觀的傾向は多く是れである。情緒主義などといふものと連なる。
最後には情趣的主觀がある。第四段境たる情趣は本來第三段境の結果として生ずる印象であるから、第三段の客觀的情緒さへ十分に現はれゝば、情趣的印象はおのづからにして伴ひ起こる筈であるが、併し殊さらに此の順序を逆にして、情趣の方から寫さうとする。此の場合には情趣が我れの氣分氣持といふ如きものに近よつて、而もそれが主位に立ち客觀の知的要素は從位に落ちる。勿論主從位の度合は色々であるが、詮ずる所情趣といふことが著しく前に進み出て來る。此の意味で主觀的と言つてよい。情趣的主觀である。夫の印象派の藝術などいふものにあらはれる主觀は此の部に屬する。
四
吾人は審美的主客觀の意味を數へて、主觀といふに抒情的、情緒的、情趣的の三を得た。今之れを自然主義が主觀を排するといふ意に照すに、排する所の主觀は抒情的と情緒的との二つであることが知れる。此の派にあつては、抒情的主觀は、其の内容たり目的たる自然の眞を打破するが故に斥くべく、情緒的主觀は情の誇張から技巧上の作爲を生ずることによつて同じく自然の眞を遮ぎるが故に斥くべしとする。無念無想とは其の知的方面に見はれた事象に對して第一段第二段の利己的道徳的思量若しくは之れを表出せんとして生ずる技巧の念を絶すること、及び第三段の情的半面に特に執するの念若しくは其の結果として生ずる技巧の念を絶することである。されば殘るところは其の知的事象を歩々成るべく實驗に近似して自然と思はれる方式に展開せしめ、一々相當の情緒の反應し來たつて事象と相即するを期し、さて斯くの如き知情融會の第三段境を其のまゝ忠實に表出しやうとする。客觀的藝術の極處である。直接間接の實驗に導かれて事柄がおのづからの如く展開すると共に、第三段の情を吸ひ出だして生きた事柄になる。是れを片端から直寫して行く。排主觀といひ、排技巧といひ、無思念といひ、描寫の自然といふは是れに外ならぬ。
又感想が第四段に達するまで描寫の筆を上げず、さて第四段の情趣から始めて忠實に寫しにかゝるといふ場合には主觀挿入的となる。すなはち所謂印象的自然主義である。而して此の種の描寫も歸するところは第三段の客觀化せられた世界を活現するにあり、また第三段からする描寫もつまりは此の第四段の情趣に達しなければ味が無い。自然主義に於いては双方相合し得る。
而して若し第四段の情趣からするものが、其の行きどまりに第三境を見ずして別の世界を見るとすれば、そこに神秘主義、標象主義が生ずるのであらう。
五
外形上の自然主義が抒情的主觀を斥け情緒的主観を斥けるのは、此等のものが皆自然の眞を打破し若しくは蔽遮するからだといふ。さらば自然の眞とは何であるか。自然主義の内容論目的論は此所から始まる。
曰はく社會問題、曰はく科學、曰はく現實、此等を以て事實が示す自然主義の内容と假定するときは、其の底に共通する意義は何であらうか。蓋し社會問題といひ個人問題といふ如きものを文藝に入れたのは、明かに當時の道徳界の潮流に動かされたのである。たとへばイブセン。ハウプトマン。ズーダーマン等の作に其の適例を見る。又科學の眞を傳へ、現實を本とし、作者の實驗を語り、普通人の言葉を取次ぐを本旨としたゾラの如きは明かに當時の學問界の風潮に動かされたものである。(コントは其の所謂積極知として科學的知識を最高價のものとした。畢竟我等が五官で實證し得るもの程確實な知識は無いといふ思想で、此等がゾラなどを動かして、極端にまで行かしめたと稱せられる)。最後に現實を殊さら其の隱れた方面に穿ち入り、野獸性、暗黒面を曝露したゾラ。モウパッサン等には、單に學問界の科學熱に動かされて的確なものを描いたといふ以上、他の意義があつたらうと察する。それは彼等獨自の人生觀で、暗黒面は人生から掩蔽し去らるべきものでは無い。是れに最もよく人生の眞相が見える、又は少なくとも是の半面を算入せざる限り眞の人生は分からぬといふ見解で、即ち隱すところ無き人生を見せるといふ意義である。
斯くして道徳問題を研究する、科學の助けをする、人生の眞相を見せるといふ意義が社會問題、科學、現實などいふ自然主義の内容に存するとすれば、吾人は茲に先づ見逃すべからざる重要の一問題に到達する。蓋し此等の三意義を一貫するものは道徳的又は實際的目的である。自然主義の動機乃至目的は、道徳(廣義の)上にあつて、文藝の上に無いのでは無いか。即ち自然主義は文藝獨自の目的によらずして道徳問題、科學問題、世相問題を取り扱ふが爲に存在の意義を有してゐるのであるか。それとも文藝といふもの本來が何等か斯やうな實際上の支柱に倚りかからなくては獨立し得ないのであるか。
六
古來文藝の目的には二つの極があつて互に相動搖してゐる。一は快樂で、一は實際的意義である。併しながら之れを總括していふ時は文藝の歸趨はたゞ美にある〓(「こと」の合略仮名)勿論であらう。即ち快樂といひ實際的意義といふものは、畢竟美の成分として文藝に入る。されば若し斯やうな統一目的から離れて實際的意義のみ傑れた作品があつたら、それは文藝としては價値の無いものになる。道徳を説くものであつたら修身書になり、教義を説く者であつたら説教集になり了するであらう。之れに反して快樂のみある作であつたら、やがて講談落語遊戯飲食の樂みと徑庭がなくなる。此の二つは必ず並存するを要する。さればと言つて二つのものが漫然同居したばかりでも藝術とはならぬ。快樂はその講談落語的方面から來たり、實際的意義は其の修身書説教集的な所から來る。斯くの如きは往々いはゆる應用文學の上に見るところであるが、文藝として高價なものでは無い。兩者は是非とも溶解して一になつてゐなくてはならぬ。快樂である、併しながらそれが他の快樂と違つて一種の意義を含んだものでなくてはならぬ。また實際的意義である、併しながらそれが其のまま快樂であり、懷かしく忘れ難いものでなくてはならぬ。此の境を吾人は先づ大まかに美と名づける。されば美は一體であるが、其の判斷評價を分解するときは、常に二元的傾向を有する。一方には快樂の度で藝術に高下の品等をつけやうとする、他方には其の所含の實際的意義の深浅で高下を定めやうとする。二つの標準が絶えず交錯して作用する。實地に於いても理論に於いても、これが古來の事實である。のみならず兩者は往々調和せずして、反動的に相消長することすらある。又或時は名稱を更へ形を變じて互に知らず/\相抱合してゐることもある。
今自然主義の場合に之れを當てはめると、其の所謂眞が含む道徳的意義も此の意に於いて是認せられる。茲では畢竟實際的意義が眞といふ名を被つて快樂と相擁して以て美の要求を全うせんとするものである。自然主義は文學をして道徳應用の門に降らしめた者では無い。眞といふことを特に標榜するのは、在來の文藝が漸く套窩に陷つて單なる空想の遊戯、形似の遊戯のみとならんとするに對し、反動的に他の一面を提起して、文藝に實際的意義の價値加はらざるべからざる所以を明にしたに過ぎぬ。更に之れを事實に近づけて言へば、たゞ遊び事をして人に娯樂を與へてゐるやうな藝術では、無意識で、劣等であるやうに思はれて、眞面目にやる氣がしない。もつと嚴肅な意義が見出したい、そこで人生の眞相を露呈せしめやう、科學の眞理を敷衍しやう、社會問題を研究しやうといふが如き實際的意義を標榜して來た。所詮眞は美を完成する一材料たるに外ならぬ、最も多く美を有價ならしむる範圍に於いて眞は文藝上に價値を有する。
然るに今若し見地を一飜して考へると、文藝を有價ならしめ嚴肅ならしめんがために眞を加へるのでなくして、逆に、此等の眞が發揮したくてたまらない。社會改革の念、科學發展の志、世相暴露の望抑えがたく、それが發して此の種の文藝となつたとも解せられる。此の場合には美は從になつて、眞が主位に就く。美はたゞ眞を發揮するための方便に過ぎない。思ふに此の兩面は双方とも事實であり、また眞理である。恐らく同一の人にあつても、兩者が交互に若しくは同時に存し得やう。凡そ文藝の内容となるべき思想は、それが充實して熟してゐなくてはならぬ。たとひ美の材料として眞を描くものでも、其の眞が浮薄な未熟なものであつてはならぬ、必ず己れ一個の胸中には十分に醗酵してゐるを要する、衷心から自分のものになつてゐるを要する。單なる一時の間に合はせや附燒刄であつてはならぬ。また美を眞の方便とするものでも、それが誠の藝術家である限り、最初の動機の如何に拘らず、筆を執つて紙に莅んだ瞬間からは藝術的態度に入らざるを得ない。即ち己れが個人として社會を思ひ、科學を慕ふ一念は、しばらく其の方便として撰んだ眼前の材料を活描せんとする一念に地歩を讓らざるを得ない。言ひかへれば之れを文藝として文藝の目的に從つて取り扱ふ外如何ともしかたが無くなる。如何なる動機から生ずる文藝でも、結局美の一義に括られるに於いて二つは無い。たゞ美の内容に變化があるのみである。世上往々審美上の醜と道徳上の醜とを混じて道徳上の醜惡を描くことが直ちに美を超越するものと考へるのは誤りである。美とは人間一切の現象を包容し得る文藝の終極點の名であつて、美を破るといふことは文藝で無くなるといふことに外ならぬ。
さて自然主義の文藝が斯くの如くして内容に眞を藏するとすれば、それが自然主義たる所以は、眞そのものの性質解釋に存すると見るのが當然であらう。何とならば、若し宗教問題を目的とするもの、哲學的眞理の布衍を目的とするもの、表面的世相の描寫を目的とするものがあつたら、自然主義で無くなるからである。さらば社會問題、科學の眞理、人生の暗黒面などいふ解釋の眞が何ゆえ特に自然主義の名を蒙るに至つたであらうか。 是れに對する答は二箇條ある。一は所謂社會問題の文藝が因襲道徳、現在文明に對して反對の一面たる自然素撲の出立點を特に取り出し、人をして一旦素手に立ち戻つた時の葛藤を想像せしめる。言はば文明對自然の照合を描く。
而して文明は既にありふれたもの、自然は新たに作者が掘り起こして來たものであるため、おのづから注意は後者に集まる。自然主義の文藝と言はれる所以である。他の一は、科學といひ人生の暗黒面といひ、みな根底に現實といふこと、而して五官を通ずる物的現實といふことを取り出し、理想的、精神的といふことに對照せしめる思想を藏する。幾ら暗黒醜惡でも、それを隱蔽した人生圖は不眞實の人生圖である。我等が人生を考へやうとするには、之れをも算中に入れなければ間違ひになる。斯ういふ方式で物的現實を掲示する所からまた自然主義の文藝と名づけられる。
八
斯う解して見ると、文藝上の自然主義は文明對自然、精神對物質、理想對現實といふ所まで、一般思想上の主義と通じてゐる。けれども吾人の見る所を以てする時は、兩者は此の點を追分にして相別れるものである。文明に對して自然を見、精神に對して物質を見、理想に對して現實を見るとは、一方から言へば既成物の破壞である、出發點に還元することである。一般思想、就中道徳、宗教、社會等の實際文明が若し破壞還元を最後の解決とした場合には、恐らく人生は悲劇のそれの如く絶滅するであらう、即ち還元主義であると共に一種の涅槃主義である。けれども今日の多數者は是を最後の解決として安立し得るもので無からうから、どうしても破壞還元の後には新しい何ものかの建設を豫想せざるを得まい。從つて此所にまた他の種々の解決が生じて、個人主義にも社會主義にも本能主義にも唯愛主義にも嚴肅主義にも之くであらう。さもなければ凡てを信ぜざる絶望のナイヒリズムにも入るであらう。要するに斯くして何れにか相對的理想を求めて之れに解決の安心を托せんとするのが自然の成行である。
然るに一たび之れが文藝に入れば、破壞還元の事實はあつても、それが還元主義といふ解決になつて居らぬ、理想になつて居らぬ。ましてそれ以上の主義解決は尚さら出て居らぬ。其の作品に接して、明瞭な歸結を認め、是れだ/\と言ひ得るやうな氣持は決して起こらぬ。思ひ得たやうな、思ひ得ぬやうな、却つて益々深く瞑想せざるを得ないやうな、つまり未解決の心地が殘る。作者は肉的生活が善いとも靈的生活が善いとも自然が善いとも文明が善いとも言わぬ。そんな風に思はせやうともせぬ。思はせやうとしたら即ち邪道である。されば現實の一相として取り扱ふ限り還元主義もよいと同じく、光明主義も唯愛主義も皆よい。十分の力を用ひて之れを活現せしむべきである。けれどもそれらは作の目的でない、目的は此の時すり拔けて一段高い所に懸つてゐる。
では何ゆえ特に自然、物質、現實などいふものを自然主義の要件とするか。曰はく此等のものは從來の主義の偏したものを解散せしめんがために必要なのであつて、其の跡に代はらしむべき主義として必要なのではない。理想主義寫實主義等が文明、精神、理想等の表面的なものゝ蔭に自然、物質、現實等の裏面的なものを押し隱した人生を描いたのに反抗して、斯かる偏した人生を破碎せんがため、隱れた半面を大膽に暴露し、以て眞實な全人生と觸面せしめる。約言すれば是れによつて本當の世相を知らせる。拵へ物の人生でないものを味はせるといふに歸する。決して人生を此の一面に限らうといふ解決や理想では無い。從つて必ずしも是れでなくとも、増さず減らさぬ人生でさへあれば何でもよい譯である。事實に徴して見ても、文明對自然の問題でない自然主義もあれば、肉感醜惡の世界を描く必要の無かつた自然主義もある。要は現實である限り選り好みをせぬといふ一句に盡きるであらう。
論じて茲に至れば文藝としての自然主義は、内容の上には全く無條件主義である。在りのまゝ主義である、現實界が首もなく尾もなくあらはな結論の無いのと同じく無解決無理想主義である。斯やうな意味での現實主義である。
九
自然主義が折角内容上に所有した實際的意義の足掛りは、斯んな順序で一旦全く抛擲して了ふ。さすれば自然主義の文藝は寫實主義などと同じく全く嚴肅な、氣を引き締める方面の目的は無くなるか。何を實際方面の意義目的として取り縋つてよいか。たゞ在りのまゝの人生を寫すといふ丈では、隱れた所をも描くといふ外、寫實主義と何の相違する所も無い。寫實主義の眼界が廣まつたといふに止まる。個より是れもたしかに其の一面ではあるが、併し自然主義は是れよりも以上の意味を有するのではないか。曩に中間相對の理想や解決やを抛擲したのは、之れを低し淺し狹しとして斥けたのであつて其の奥に更に最後絶對のものを求めて、直接之れを揣摩せんとする所に自然主義の新生命は湧くのでないか。
思ふに直ちに事物の中身を取り出さんとする一種の傾向は、クラシシズムの形式觀に反抗して起こつたロマンチシズムの特色であつて、それが自然主義にも傳はつたと見られる。一番深いものを、其のまゝ衣裳を着せないで赤裸々に掴み出したい。併し自然主義はロマンチシズムと違つて、現實の形も忘れることが出來ないから、茲に極端な寫實的表面に、直ちに飛び離れた絶對不可説の本體を裏づける。書いてある事實が直ちに書いて無い、全體としての人生といふやうなものを暗示する。個より全體の人生であるから、明瞭にそれと捉らへることは出來ぬが、成程斯んな人生もあるかと思ふと共に、それが直ちに人生全體の運命問題を提起して限りなく之れを想ひ廻らさしめる。讀み終わつて卷を伏せると共に一種の瞑想的情趣は我れを驅つて樣々の人生問題に回顧せざるを得ざらしめる。而して色々に想ひ得てしかも何れにも滿足するを得ず、無限に欣求の情を恣にする時は、心の活動につれて無限の快味を感ずる。吾人は之れを文藝の末尾としての宗教的情趣とも名づけやう。是れが解決に一轉すれば其處から新宗教なりになるのである。斯くして自然主義の文藝は我等を宗教の門にまで導く。宗教的といふ所にまで接續させる。創作時の目の据え所は是所にあるべきである。吾人は之れを美の最高所とも生の本體とも名づける。
更に此の問題を作家の個人格と關係せしめて見たらどうなるか。一定の人生觀を有する作家は自然主義の無解決文藝は作れないか。極致から言つたら、作家として立つ時と個人として身を處する時とは到底二元であるから、自家の理想解決は宜しく鎭壓し去るべく、無念無想が即ち其の態度であるべきである。けれども一方には自家の理想のために累せられた人生の映ずることあるも、凡人の免れ難い所であらう。此の點から見れば、更にまた或る特殊の傾向を有するものが最もよく自然主義の文藝に之いて以上の約束を果たすに適當する。例へばスケプチシズム、ナイヒリズム等の如く、始めから既成の理想解決を破壞する性を帶びたものは、木地が出ても其のまゝ役に立つ。文藝が帶着する理想の關を破るからである。即ち前に言つた二三の破壞的思潮は自然主義に最も便宜な傾向である。けれども是等が文藝として成功する瞬間には必ず其の上に最後の一契點が加はつてゐなくてはならぬ。斯やうな制限的意味で自然主義は事實特殊の思想と連續する。
十
自然主義を以て獣性、就中男女間の獣性のみを描くを本旨とする如く考へるものと、自然主義を以て道徳上の本能滿足主義と同一視する者とは、自然主義論中の二大謬見である。肉欲も現實の一部である限り、眞の現實を描かんがため必要の場合には提出せられるを厭はぬ、こゝまでは自然主義の大膽とも名づけられやう。併しながら其の肉は必ず全景の背後に髣髴せられる嚴肅な深意義によつて攝取せられ、其の方を注意の主點として見るとき、肉も亦た嚴肅な意義を帶して來る。此の點が其の作の是認せられると否との境界線でなくてはならぬ。たゞ此の所に殘る問題は、讀者が解釋力の程度といふことである。『早稲田文學』に見えた判事今村氏の言は此の點に於いて吾人の意を得てゐる。多數低標準の人は恐らく全景の背後にかゝつてゐる中心興味に達する前に、先づ前景の肉に囚へられて了ひはすまいか。思ふに高級の文藝は凡て此の恐れを豫見して立たなくてはならぬ。多數の後れた人と少數の進んだ人といふ杆格は、やがて社會道徳と文藝との杆格である。文藝は性として半途半熟を許さぬ、常に全力的でなくては大なるものは出ない。斯う考へて見ると多數の後れたものと少數の進んだものと、即ち社会道徳と文藝との衝突は、萬人悉く同程度の知識感情に達した黄金時代の外、永久に斷絶すべからざるものである。兩つながら決して亡ぶべからずして而も和しがたいものである。双方から互に犠牲者を出してもがきながら進むのが我等の運命であると覺悟する外はない。たゞ望む所はその衝突をして成るべく公明な堂々たる衝突たらしめたいといふ事である。
本能滿足主義については多く言ふを待たぬと信ずる。道徳の上から發足して直ちに本能(就中獸的)の滿足のみを實行の目的とせよと叫ぶものがあつたら、論は同じく道徳の上から決せらるべきである。之れに反對すると同意すると、凡て身を道徳の地に於いて定むべく、賛否の聲はやがて道徳の聲である。是れと自然主義論とは全然類を別にする。自然主義は宜しく文藝の聲によつて賛否せらるべきである。
繰り返して言ふと、自然主義は凡そ三段に於いて一般思想と連なる。因習破壞新機軸發揮といふ點に於いて文藝は文藝の範圍で是れを行ひ道徳は道徳の範圍で是れを行ふが根本は一通した思想の傾向である。之れを第一段の連絡といふ。また一般思想が科學を重んじ經驗を重んずると同じく文藝も現實を重んじて所謂理想を斥ける。是れを第二段の連絡といふ。而して吾人は是れに更に第三段を加えて、直ちに絶對神秘の一物を指し、中間の説明を以て滿足せざらんとする宗教的傾向を、之れ亦た一般思潮が既成宗教から去つて求めんとする所あるに合期すると見る。絶対最上の一物を理想に求めるものが偏に上に向つて終に人生を超せんとするに反對して、下に向つて之れを求めんとするのが中心の思想である。現實の中に直ちに絶對を見んとする東洋的傾向である。現實を減却し變形して目的に至らんとする思想と、現實を充足し展開して目的に至らんとする思想との對照に於いて、後者を文藝の上に極端に實行せんとするのが自然主義であらう。之れが實行手段の上には尚煩瑣の論もあるが、要するに此の根本の傾向で紙を展べ筆を染めると否とが最重要の問題である、手段は如何にもあれ、結果は必ず違つたものになると信ずる。我等が憧憬の本體を今一度現實に返せ、現實の生に返せ。自然主義は此の叫びとも聞かれる。吾人は此の意を賛する。 (明治四十一年五月)
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