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近代文藝之研究
島村抱月著
研 究
美學と生の興味
一
生活といひ生命といふ、要するに論は生の一語にかゝつて存する。我等は現に生きながらへてゐる。生きながらへてゐればこそ、茲に意識があり、我れがある。意識あり我あればこそ、宇宙萬法といふことが立言せられる。生とは存在といひ意識といひ我れといふが如き諸事實を統括した名である。宇宙のあひだ生といふことほど重大な事實は無い。
今假りに宇宙間一切の現象を地から天に架する梯子と見れば、之れを上から順に降つて來ると、唯々存在といふ一語の礎に達する。又之れを下から昇つて行けば、生若しくは意識的生活といふ頂點に達する。元來我等人間は、知らず識らずのあひだに己が意識の存在といふことを第一必至の前提として、すべての事を考へてゐる。我等が一たび意識の眼を閉ぢれば、有無の詮議は悉く絶滅してしまふ。意識の第一有を豫定した後でなくては、萬象の有無は考へられぬ。此の意味から見れば、宇宙は意識以内に存する。併しながら客觀的にいへば、此の論ではまだ十分でない。我れ一個の意識が亡びた後にも、他個の意識が存してゐて、我れと同じく萬象を其の中に描いてゐるのであらうとは、我等の常識的信仰である。すなはち我れ一個の意識が亡びれば、萬象も共に滅するとは、此の信仰が言はさない。更に一歩を讓つて、あらゆる意識的生活が此の世から消滅したらどうかといふに、此所でも肉體だけは土となり水となつて殘らうとは、同じく常識の經驗が類推的に得てゐる信仰である。此の理を順次に推し下すときは、土となり水となつたものが、よし其の土たり水たる形は失ふとも、科學者のいはゆる、元素となつて存しやう、元素は更に幾たびか其の形を亡ぼして原子より原子に分解し行くとも、結局何等かの形で存在といふ一語の意味をば失ふまい。永劫にわたつて存在といふ一義だけは決して亡びぬといふのが、此の梯子の最底邊の信仰である。而して此の存在が現象といふ明かな状態で我等の意識の前に展開し來たる次第は、無機界から有機界、動植物から人間といふ自然哲學の上の順序であらう。頂點は即ち人間であつて、其の特徴は意識的生活であること言ふまでもない。
而して我等は通例、存在現象の頂點たる意識的生活即ち生といふことに價値を附して、之れを最も貴いものとする。こゝで價値を附するとは望ましいといふ意識の伴ふことである。最も貴い價値とは、最も望ましいものといふ意味に外ならぬ。我等の知る限りに於いて、生より以上望ましい存在状態は無い。但し此處に至れば宗教的道徳的に種々の疑問が起こる。宗教は生以上の存在を望んでゐるといふものもあらう。道徳は自ら望んで生を抛つことがあるといふものもあらう。併し我が觀る所によれば、是等は以て生の最高價たる所以を傷くるに足らぬ。
二
此の問題を解決するためには、先づ生きるといふことに更に一つの條件を加へねばならぬ。それは「如何に」といふ形容詞である。如何に生きるかといふことが、先決問題となるのである。之れに對して宗教は神的に生きよといふかも知れぬ、道徳は善的に生きよといふかも知れぬ。此の場合には、價値の源は生といふこと自身から移つて其の形容詞たる神的若しくは善的といふことに歸する。神若しくは善といふ理想が別に在る。我等は先づ之れを知り之れを認識して、而して之れを要望する。
併しながら此の種の思想に對する根本の難點は、認識して要望するといふ心理的順序が立たなくなるといふことであらう。善乃至神といふ理想は、其の實、理想みづからとしては、古來未だ曾て我等の知識に上つたことが無い。神といひ善といふものゝ内容は、人間に思想の歴史あつて以來、三千年の昔も今も同樣に茫漠であるといつてよい。茫漠として取りとめの無い一體物といふが如き意識はあつても、明確な認識は無い。又個々の事象に化着しての認識はあつても、此等を總括しての認識は無い。此に於いてか起こる疑問は、此の如き理想といふもの、畢竟は認識して而して要望するに非ずして、逆に先づ要望して而して認識するのでは無いかといふ事である。言ひかへれば、我等に先づ或る種の要望がある、之れを總括して要望其のものに認識作用を被らしたのが即ち理想では無いか。隨つて理想とはたゞ我等が最も望ましいものゝ總名たるに過ぎぬ。其の中から特に要望の源たる一概念を明に知識し出ださんとすれば、忽ら茫漠として方を失ふに至る。理想が別に高い所にかゝつてゐて、我等が先づ之れを認識するによつて、こゝに要望の標準が出來るといふ順序では無いやうに見える。無いやうに見えるものを有るやうに説かんとする結果、かゝる理想説の根抵には常に直觀といふが如き非説明的の遁路が穿たるゝ。然り、之れを遁路と呼ぶも差支あるまい。蓋し知識の要求に應ずるものである限り、知識の説明を具してゐなくては有るも無いも同じである。説明は出來ぬが兎も角も理想といふ一物があつて、同じく説明は出來ぬが如何にかして我等が之れを認識するといふのでは、知識にはならぬ。さらばと言つて夫の有無・黒白の認識と等しく、根本の事實だから仕方がないと言ひ去ることも、此の場合には許されぬ。有無黒白の根本認識と理想の直觀とは、決して等しなみに見るべきものでない。事實といふ意味が違ふ。理想の直觀といふことを、それ以上説明出來ぬ最後の事實と見るか如何といふことが即ち疑問なのである。茲では之れを最後の事實と見ず、其の間になほ説明の餘地があると認めて、別途の思想を辿り試みんとするに外ならぬ。
以上要するに、神といひ善といふ理想を生以外に立てる時は、之れが現實の生活に交はり來たる逕路が分からなくなる。神といひ善といふは畢竟生以内に存する何ものかの變名ではないか。若し之れを生の中に求め得るとすれば、生の價値は萬鈞の重きを致すであらう。
三
生以下の事象で生を行きどまりの標準として價値を有するものゝ多いことは言ふを要すまい。生理的乃至心理的に、我が生を増益するが故に之れを所望する。此等はすべて價値の本を生に托するに外ならぬ。口鼻の感覺に快いものは生が之れを所望する、併し進化の具合で之れが生に害を與へる者となれば要望の價値が減じて來る。最後の訴へ所が生にある所以である。同じ次第で種々の心理的生活にも價値がつく。知識は我等が心理的生活の一部を肥して、以て生を衛り、導き、飾るが故に貴いとも見られやう。されば善も畢竟は生を増益せんとするのが直接の目的、神もまた生を完全にした頂上に生ずる名ではないか。此の如くしてあらゆる價値、興味、要望は之れを生の一つに籠める所に、生の哲理が成り立つ。
生きて而して何を爲さんとするか。生の上には傾向があつて、生の末には目的がありはせぬか。換言すれば我等は何のために生きてゐるか。此の疑問に對して知識上明瞭な答の與へられぬのは、神や善の理想の場合と同じで、畢竟は神といひ善といふものゝ更に奧まつた所に横はる根蔕問題である。元來我等が知識上の順序から言へば、先づ神的、善的に生きて而して或る生の目的を成さんとする。神的善的に生きることは生の目的でなくして途中である。朝たに善人となつて夕に則ち死し、昨日神に感じて今日則ち死するといふことは、決して我等の眞の滿足ではない。たゞ/\善人となり神となることを生の目的とするが如く説く道徳説や宗教觀に對しては、我等は少なからぬ疑を挾む。人生は今少しく現實的光彩を有し活動を有するものであつて欲しい。されば我等は生の目的を單に神といひ善といふこと以外に求める。同時に此の點に於いては生そのものをも超越することを厭はぬ。ロツチヱの所謂絶對的人格には如何にして達せらるゝか分からぬとしても生以上に何等かの計畫があつて、我等が生を重ね行くうちには何時か其の目的に達すること、恰も東西知らぬ旅人に目的地を告げずして旅行せしむるが如きものであらうとは、我等も之れを信ずる。併しながら是れはたゞ茫漠たる信仰もしくは想像に過ぎぬから、知識上の要求より言へば、さうであるかも知れぬが又さうでないかも知れぬ。人生には何等の目的計畫もなしと信ずるものも現にある。結局此の點以上は知識の容喙を許さず、知識に取つては有無ともに關せぬ範圍ではないか。古往今來何人も此の不思議をひらき得ず、たゞ歩々知らずして之れに接近し行くのみと信ぜられる。恐らく今後といふとも人間みづから其の境に實到するまでは、此の最後の難問は解けぬであらう。此の點から觀れば人生はまこと不可解である、永久にわたつて不可解であらう。此の不可解を可解に轉ずるの途は、之れを生以内に引き戻すにある。知識の手の届く限りに最後の説明を求めて、そこに知識上の疑惑を止息せしむる。それが生の哲理である。
四
されば我等は今一度如何に生きるかといふ始めの問題に立ち返つて、「如何に」といふ形容詞の説明を生そのものゝ中に尋ねると、茲に二つの條件が出て來る。一は増進といふこと、一は永續といふことである。生の増進、生の永續、是れが最も望ましい生の状態である。最も赤裸々なる我等の要望は生を支持せんとすることであらう。而して一旦生を支持し得れば更に之れを増進し且つ及ぶ限り永續せんと願ふ、單に生の支持所有といふことだけでは消極的の要望たるに過ぎぬ。一旦有し得たる生を増進し永續せんとする所に積極的の要望が見はれる。此の以上は無限に之れを追求する、決して是れが増進の極、永續の極といふものには達しない。此の意味から言へば生は、空間的にも時間的にも絶對無限ならんことを欲する。生の理想は自己の無限といふことにあるとも見られる。増進永續の二件は無限といふ一に合して、生の無限が人間最高の要望となる。併しながら現實の社會はあらゆる方面に於いて有限である。一個の生の増進が或る度に達すれば外圍とも衝突し、また内に有する生理的心理的精力の極限とも矛盾する。又一個の生の永續は生理的心理的に或る年限を超ゆることが不可能である。要するに生の無限は現實社会の有限と相容れぬ矛盾である。造化が何ゆゑに斯かる計畫をしたかは別として、斯くの如きが事實であるから是非がない。
此に於いてか生の無限といふ要望は、變形せざるを得ぬ。ちやうど敷石の下に生えた草の芽が、頭を押へられて屈曲するやうに、生の無限といふ素直な要望は、有限の押さへ石に突きあたり、曲りくねつて、さながら上からでも生えた如く、再び下にきさりかゝつて來た。ちよつと見れば其の根が上方にあるかとも思はれる。
それが即ち道徳宗教である。
道徳とは此の無限と有限との矛盾を調攝せんがために、無限をして讓歩せしむるの謂ひである。生の要望を適度の所、中庸の所に留まらしめんとする消極的解決法である。中にも生の増進から來る矛盾に於いて道徳の立場を認める。外圍との矛盾を解くために恭謙讓等の徳を立て、内に對する矛盾を解くために自重節度等の徳を立て、以て結局の永續、將來の安全を贏ち得んがために現在當面の増進を犠牲とするのが道徳的現象の本來の意義では無いか。されば道徳は賢明といふことの變態であらう。生を比較的永續せしむるに最も賢なる方法が、即ち最も善なる方法であつたのが、進化の結果、移つて價値の感を犠牲その事の上に認めるに至つたのであらう。夫の義務のため、名譽のため、熱愛のため、絶望のために己れの生を抛つて顧みぬものには、其の事情の異なるに從つて雜多の動機が纏綿してゐやうが、純粹なる道徳的動機は右の進化的功利的なる一説明で十分と信ずる。
宗教はすなはち道徳が如何ともなし得ざる他の一面、生の無限の永續といふ要望と有限といふ事實との矛盾を解決することを主とした一種の精神状態を形成せんとするものである。生の有限といふ現在の事實は人力で如何ともしがたいが故に、無限の永續といふ要望を超現實の世界に導き、そこに種々なる變態を來たさしむる、諸多の宗教的現象は斯くして起こるのであらう。又増進の要望より來たる矛盾も、道徳によるのみにして解決せられざる場合、すなはち根本に生の不如意の苦痛を脱し得ざる場合には、之れを宗教的に解決せんとする。苦痛ある所以を超現實の關係に歸して之れを慰藉せんとするたぐひが其れである。つまり宗教は生の有限、死滅、不如意等に對する諦め若しくは慰藉の道に外ならぬ。我等が髣髴として内に抱いてゐる無限圓滿の生を客觀化したものが神でなくてはならぬ。即ち神は完我の想像圖である。
之れを總括するに、道徳も宗教も第一境は生の無限といふ要望である、我等は之れにあらゆる權威と意義とを捧げねばならぬ。第二境は之れに達する方便といふ功利現象である、我等は之れを方便と意識せずして工風する。第三境は更に之れが進化し釧練せられて第二境を忘れ第一境を忘れ、先天の直接作用の如く思ひなさるゝにある。道徳宗教の威嚴がこゝに獨立する。第四境は此の先天の宗教、先天の道徳を更に第一境の生と結合せんとする。夫の在來道徳、在來宗教に對する近代の反抗的思想は、或は個人といひ或は自我といひ或は人間といふ種々の提唱あるに拘らず、皆此の意味を有するものであらう。道徳宗教に「生の爲」といふ自覺の一閃光を注がんとするのである。
斯くして宗教道徳其の他凡百の現象は生の一義に攝取せられる。世の中に生ほど嚴肅な意義を持つてゐるものは無い。
五
生の哲理を終るに臨み、初に立ちかへつて、生の増進とは何であるかといふことを一言して置く必要がある。生の内容は、之れを客觀にしては、やがて天地間の現象がそれであり、之れを主觀にしては、此等の現象に應酬する我れの態度がそれであるから、其の雜多にして果てしなきことは言ふまでもない。而して其の客觀は知識によつて代表せられ、主觀は情意によつて代表せられる。されば生の増進といふは到底生の内容を數字的に算し出だして解釋せらるべき問題ではない。たゞ我等が目安とし得る一つの事實は、要望の滿足から來る快感といふ心理的現象である。此の事實の有無多少によつて生が一層よく其の内容を増進してゐるか否かを判するの外はない。我等は個々雜多の要望を且つ起こし且つ充たして行くところに其の生を營んでゐる。隨つて一層多く要望を起こし且つ充たすのが一層多く増進した生である。同時に一層多くの快感が生ずる。快感の増進が生の増進の目標である所以。
斯やうに言へば直ちに盗賊姦淫等の要望、滿足、快感をも生の増進として貴ぶかと批難するものがあらう。是等も現に生の一現象として之れを營みつゝあるものに取つては、一層多く之れが滿足快感を得ることが一層多く生を増進することであるの事實は如何ともし難い。過去野蠻の時代に於いて、また恐らく現在に於いても或事情の下には、此等が道徳上の罪惡であるといふ觀念すら無くして白晝公然行はれるといふでは無いか。併しながら進化した我等の道徳は之れを禁斷する。畢竟之れが却つて生みづからを亡ぼすの危險を伴ふからであつたらうが、今では良心の命令として之れを禁斷する。之れに背けば良心の呵責が苦しい、乃至國法の刑罸、社會の制裁が恐ろしい。此等の苦痛を豫想するときは、盗賊姦淫の今日の快感は明日の苦感の豫想によつて打ち消される、安全なる生の増進では無くなる。(社會學者キッド氏に、現在を將來に服從せしむるを文明進歩の原理とする説がある、おもしろい。)要するに快感は常に生の増進の目もりである。 此所に至れば生の増進永續はまた快の増進永續となり、生の哲理はまた快の哲理とならざるを得ない。生の興味に基礎を置く學説は、いはゆる快樂説と密に接續する。快樂説の道徳上の嫌は、主として其の浮靡遊惰に連なるにあれども、快樂の眞義は決して夫の誤まれる嚴肅派の考ふるが如きものではない。之れを根本の問題に還没せしめて、生の滿足、生の喜びから發する火花と見るときは、其處に高貴無類の味が認められる。
たゞ斯くの如き自覺を伴ふの快感は現實の生活に於いては容易に得られぬ。其の發現の局部に拘泥して處置せざるを得ざる實行界の要望、滿足、快感は其の局部のみにして直ちに次の過程に滑り入り、生そのものゝ根抵と交渉するの餘裕を許さぬ。剩さへ要望は必ずしもすべて滿足させられず、快苦相磨して愈々其の醇味を失ふに至る。此の際にあつて、此等の生を一幅の圖の如く我等が前に展べ來たり、局部を全體に化して、滿足不滿足を凡て其のまゝ快となし我等をして且つ營み且つ味ふの妙を得しむるものは美である。斯くして生の哲理は、美を生の興味の上に立てんとする。以下之れに關する二三の美學説を述べて此の論の意を明にしやう。
一
生は人間の第一義である。前回の文に於いて吾人は此の意を述べた。而して生を中心にしてあらゆる事物を考へる状態を、廣い意味で實際的功利的といふ。今若し人生一切の事象は其の存立する所以の目的を生の一義に歸するとすれば、此等一切の事象の價値は實際的功利的標準によつて判斷せらるべきである。然るに茲に美といふ一種の事象があつて、其の價値の標準に迷つてゐる。美は果たして實際的功利的であらうか。
美學史上に有名な見解の一つは、夫の遊戯説である。此の説の起原は從來ドイツのシラーにあるとせられてゐたが、近來は更に夫の『批評原理』の著者でロード、ケームズと呼ばれるホームに其の先聲を歸する。而して遊戯説の要は、人間に生活力の餘贅ある場合に、それがおのづから溢れて遊戯となるといふに歸する。又斯くの如き遊戯と所謂美とは根本に於いて相通ずるといふに歸する。美は生の餘贅である。今まづ此の種の學説の一二例を擧げると、前記シラーの言ふところは科學的でなくして寧ろ哲理的であるが、其の意、人間には肉的本能(Sinnliche Trieb)と形的本能(Formtrieb)とあつて、前者は人間の生理的存在若しくは肉性から生じ、後者は其の絶對的存在若しくは理性から生ずる。一は變化的で一は不變的、一は我等が生命と呼ぶものに現はれ、一は我等が形態と呼ぶものに現はれる、而して此の兩面の調和した所に第三の本能を生ずるのが即ち遊戯本能(Spieltrieb)である。茲では肉體と理性とが合一する。之れを名づければ生的形態(Lebende Gestalt)と呼ぶべきであらう。而してまた此の生きた形態といふことが美そのものに外ならぬ。生命と形態といふことは、形態のみを考へればそれはたゞ抽象した空のものに過ぎなくなるし、生命のみを感ずれば、それは單なる印象となる、兩者が離れて見える間は、其の事物は決して美とならぬ。形態は直ちに生命で、生命は直ちに形態といふ境が美である。其の斯くの如くなるのは畢竟事物の形態が我れの感情に入り、生命が我れの理解に入つて、我れの中で密なる抱合を遂げるからである。盖し我等の理性は本然の完成を欲するが故に、あらゆる制限を嫌ふ。若し形的本能を追へば形態に限られ、肉的本能を追へば生命に限られる。此の限界を撤して、全ゝ制せられる所なき自由の天地に遊ばんとするのが、人間本性の要求であつて、此れが即ち遊戯本能に外ならぬ。遊戯本能の對境は美である。されば詮ずる所人間の本性は至高の目的として美を求める。シラーが説に多少の言葉を加へて説明すれば、ざつと斯うである(シラー著『美的教育を論ずる書』)。二つの凝滯したものゝ溶け合ふ所に美が活現しはじめるといふ思想は、無論カント以來既にある所で、譬へば形と命とが坩堝の中の二塊の金屬のやうに、何時かのはづみで、とろつと溶け合ふ、其の瞬間から、もう今までの凝滯した固形物ではなくして、融會無碍な流動體になつて活動する。または明けがたの空に見つめてゐた星が、つるりと滑る、其の拍子に我が眼底の一膜を切り落としたやうに感ぜられて、今まで形と見た萬象が生きて動いて來る。結局何等かの一轉機で、我が心の栓が拔け、自由に八方に溢れ漲る状態を美の感じと見るのである。吾人は此の種の説が非科學的であるに拘らず、審美上の事實の一面に觸れたものとして之れを重んずる。
茲で必要なのは、シラーが遊戯といふ語の意味である。彼れに從へば、遊戯性とは畢竟精神の自由な活動といふに外ならぬ。而して其の自由はやがて人間の本性の完成せられる状態であるから、遊戯には人生の理想と相接する重大な意味がある。遊戯といふことの價値が非常に高いものとなる。
二
シラーの後、遊戯本能の説を明白に掲げたものゝ一人は、夫のハーバート、スペンサーである。彼れは其の『心理學原理』の中に、先づ「數年前予はドイツの一著者の言を抄せるものを見たるに、美感は遊戯本能(Play-impulse)に發すと結論せり。予は其の著者の名を記臆せず、また其の説の理由、決着を述べありしか否かを思ひ起こす能はず」と書き出して、遊戯を解して餘贅な無用な活動(Superfluous and useless activity)すなはち生を助ける作用(Life serving function)から離れて行はれる活動とし、而して美もまた之れと相接するとした。即ち美感も遊戯と同じく餘贅な無用な活動で、直接な生活作用と隔絶する所に其の特色を有する。たゞ遊戯にあつては、少なくとも其の事みづからが到達すべき目的を有し、且つ多く感覺的現實的たるを免れぬ。碁を圍むといへば一の餘贅な活動で、何も是れ無くては生命が支へられぬといふものでは無い。即ち圍碁は遊戯である。併し圍碁を樂むの情は美感とは言へない。圍碁には尚ほ其の事みづからの目的すなはち對手に勝つといふ目的があり、また現に烏鷺の石子を左右して其の事を實行する所に興味がある。美は此等の點で趣を異にする。目的に到達すると否とに論なく、その過程みづからを主眼とする所が美の特色である、また現實の感覺界から離れて、想像的理想的になるのが其の特色である。物語が美しいといへば、物語みづからを讀み行くところに興味を覺えるのである、讀み了へて何等かの目的を達する所に興味が出るのでは無い。且つ其の物語中の事柄が、現實のものでなくして想像であることは言ふを待たぬ。此等が美と遊戯との違ふ特殊要件である。
スペンサーの意に註解を加へて述べれば、以上の通りであるが、其の事みづからの目的を達するを必要とすると否と、乃至實際であると想像であるとの別が果たして遊戯と美との區界となるか如何といふことは、尚考究を要するとして、茲に吾人の注目すべき點は、スペンサーの所謂遊戯の意味及び價値である。シラーと違つて、スペンサーは、遊戯を自由なる活動と言はず、餘贅の活動と言つた。また之れをシラーの如く人間本然の要求と見ずして、生活作用と斷離したものと見た。シラーに於いて人生と至密の千係を有する遊戯本能が、スペンサーに於いては人生の根本要求から閑却せられたものになる。從つて美を之れと聯絡せしむる限り、美も亦たシラーに於いては人生の緊要事となり、スペンサーに於いては人生の閑事業とならざるを得ぬ。少なくとも生存といふ事を人間の第一義として事物の價値を判斷する限り、スペンサーの美は其の圈隅に押し除けられるのが必然の結果である。美は此に至つてダーウヰ[#「ヰ」は小文字]ンの所謂生存競爭(Struggle for existence)スペンサーの所謂生活作用(Life serving function)之れを總括して生といふ一語と、全く直接の關係を斷たんとする。言ひかへれば、美は全然實際的功利的のものでなくなる。
美は此に至つてダーウヰンの所謂生存競爭(Struggle for existence)スペンサーの所謂生活作用(Life serving function)之れを總括して生といふ一語と、全く直接の關係を斷たんとする。言ひかへれば、美は全然實際的功利的のものでなくなる。
美を功利實用から引き離すといふ思想は、無論今に始まつたことではない。カントが美感の特質を數へて其の一を無利害(Interesselosig)と斷じたのが、此の思想の近世に於ける明白な發聲である。美は道徳からも實用からも獨立する、之れを美の無利害性といふ。而して此の思想は一歩してまた唯美主義となり「藝術は藝術の爲なり」の説となつた。夫のイギリスのオスカー、ワイルド等の唱へたところが其の好例である。美は獨立して人生に其の力を布くを目的とす、他に何ものゝ力をも藉りて立つことなし。眞理の力に縁らんとするもの、現實の力に縁らんとするもの、皆惡藝術のみ、といふのが其の主張に外ならぬ。
一
併しながら斯やうな思想には反對の潮勢も甞て絶えぬ。殊に近時に於いては此の潮勢が漸く力を増し、美研究の世界は二大別せられて、美と生とを合するものと、美を生から離すものと、功利的と唯美的とに限られんとしてゐる。功利派は唯美派の「藝術のための藝術」といふ題言對して「功利の爲めの藝術」(Art for utility's sake)とすら斷言する。而して佛のコントの實際哲學に導かれて、ゾラ等の小説に達したものが此の思潮であると見る。吾人は此の兩説の是非をいふ前に、先づ斯くの如き反對の潮勢の起こつた次第を一見しなくてはならぬ。
盖し美を目して全く我等の生と無交渉のものとするの思想は、凡そ下の四點から之れを疑はれても致方のない理由がある。第一は夫の『藝術の起源』の著者ヒルン氏がいふやうに、近年の人類學研究の發達は、延いて野蠻民族の藝術が常に實用の爲に造られて決して美の爲でなかつたことを續々證明して來るといふこと。第二は思想の方面でも古代の學者が概して美を實用または道徳といふ如き功利と離るべからざるものと考へた點は希臘のプレトーも支那の孔子も其の他凡ての思想家大抵同轍一致であるといふこと。此の二ヶ條は少なくとも過去に於ける文藝美と功利とは關係を密接ならしむる重要の事實である。現在に於いては或は美と功利とは分離してゐるかも知れぬが、少なくとも過去に於いてはそこに何等かの密着作用があつたのではないか。若し是れありとすれば、それが如何にして現在の如く無關係な状態に變じたのであらうか。太古の人は名おぼえの代りに石刀の柄に圖を刻んだ。それがどうしてただ飾りの爲に鍔や目貫の彫刻に一代の妙技を盡す後世の刀の〓(「木」+「霸」)となつたか、後藤が作の刀の〓(「木」+「霸」)に完成してゐる美術も、斯う見れば、そればかりで説明出來なくなる。背後に長い糸を延いて、太古の石刀の柄の彫り物にまで連續してゐる。而して此の石刀の柄の彫り物は純實用、純功利、後藤が〓(「木」+「霸」)の彫り物は純美術純遊戯とすれば、此の間の矛盾は何うして解くか。そこに進化があり歴史があらう。美の完全な説明は此の進化、此の歴史を究めた後でなくては出來ぬ。即ち近時歐洲の美學が心理的研究と合せてヒルンの所謂社會學的歴史約研究を唱説せんとする所以である。兎に角こんな次第で、美は一途に生から離れたものだとのみも言つて居られなくなる。
次に第三第四は現在にわたつての事實であるが、まづ第三として擧ぐべきは、所謂理想派美學思想の多くが、古來一つの重要な暗示を有してゐる。それは人間の本性が、あらゆるものを生の要求と分離することを欲せぬといふことである。生と縁遠くなればなるほど之れに對する價値を低減せんとするの傾向である。生に用の無いものといへば、何となく白晝公然と之れを取り扱ふことを耻ぢるやうな氣持である。遊戯、餘贅といふが如き言葉は概して此の氣持を催起する。すなはち所謂人間本自の道徳的傾向である。あらゆるものを何等かの關係で道徳化せぬ限りは安んじて此の世に存立せしめまいとする、執拗なる一種の傾向である。或時は最上善即ち美なりと見、或時は神即ち美なりと見、或時は眞理即ち美なりと見、或時は科學即ち美なりと見る。要するに皆功利に美を近づけんとするものに外ならぬ。吾人は此の傾向の底に、否みがたい人間の本面目が潜んでゐると信ずる。一切の價値を生に還沒して、こゝに最後最牢の極印を打たんとするものと考へる。すなはち以上の理由からして美と生との分離が疑はしくなる。
第四に數ふべきは、現に美中の或部分が生活作用そのものから成立するといふ事である。フランスのギヨーがスペンサー等の生活分離説に反對した有名な實感説はその例である、即ち或る境に於いては、我れの生活を助ける作用が直ちに美になると見る。例へば夏の長旅に疲れた人が美しく熟した一籠の葡萄の實を見て之れを食ふ快味を覺える情は決して美感の快味と根本を二にするものでは無い、といふに歸する。此の説に就いては、異論の餘地も多からうが、幾分たりとも眞理とすれば、茲にも美と生との分割を難んずるの根據がある。
二
以上の四説を總括すれば、第一第二は、上古の代、事實乃至理論の上に美と功利とが同一であつたといふに歸し、第三第四は、現に事實乃至理論の上に美と功利とが同一であり若しくはあらんと傾向するといふに歸する。既に古がさうであり、また今後もさうであるとすれば、中間にさうで無い事實理論を挿入するとき、如何の結果を生ずるかといふに、それが美の進化の階程を示すものとなる。
フランスのリボー氏が『情緒心理學』で述べてゐる所が、ちやうど此の點を説明するに便宜であるから、借りて見ると、美感の進化は凡そ三段に分かれる。即ち第一段は美感と實用との密着した時代、第二段は兩者が一層ゆるやかな關係になり、たゞ時々遠い響きのやうに實用の感が連帶して來る時代、第三段は両者全く分離して、美は美のためにのみ存立する時代である。吾人はリボー氏の此の三段に更に最後の一段を加へて、第四、美感が再び實用に歸らんとする時代といはんとする。すなはち第一、美と功利の密着時代、第二、其の半分離時代、第三、其の全分離時代、第四、其の再合時代、といふが如き順序を茲に認める。
しかしながら、此の三段乃至四段の發展を進化の原則に藉りて説明せんとするには、今一つ忘るべからざる根本の問題がある。即ちダーウヰンが所謂生存競爭律の結果として、自己若しくは同種族の保存といふ實用目的に伴はぬ機能は衰滅して行く。美感は如何にして實用から離れたもの、即ち進化の原則に逆行したものとして發展して來たか。リボー氏は之れに二つの理由を與へんと試みた。一は附屬的實用(Auxiliary utility)といふこと、他は生の根本機能(Vital function)の活動といふことで、前者は明確に之れを斷言し、後者はやゝ曖昧に之れを附加した。附屬的實用とは他に直接な實用目的があつて、それを補助するの謂である。野蠻人の舞踏は、本來多人數相寄つて敵を撃たんとする操練の目的から起こつたもので、拍子を合はせて踊るといふことは、此の目的を補助するがために發達したに過ぎぬ。併し其の踊りは同時に遊戯すなはち生活力の餘贅といふことと連なつて、生の根本機能と間接關係を有するものともなる。言ひかへれば生活力の盛大を促すといふ意味での實用も伴ふ。
リボー氏の此の見地には、依然として困難が殘る。大幹の傍に出た芽生えの樹は、根の續いてゐる限り茂りもしやうが、一度根を斷たれゝば次第に弱り枯れて了ふ。始は幸にして他の實用目的に縋つて成長した美も、一旦實用目的から分離するが最後、進化の原則は再び容赦なく壓迫して來て、年代を經るうちには之れを仆してしまふ。根の無い木は枯れる道理、根といふのは實用功利であると、斯やうに押して來れば、美は到底實用功利と離れては存立せぬことゝなる。啻に美のみならず、人生一切の所有が此の根に連ならざる限りは悉く亡ぶのである、此に至つて吾人は、リボー氏が輕く附加した第二の理由に、寧ろ重大な意味のあることを認める。此の方が美の進化といふ難關を開くべき眞個唯一の鍵でなくてはならぬ。美は生の根本活力に連なる。是れだけでも美と功利實用との關係は十分である。
三
吾人は便宜のため茲に功利といふ意を、第一義第二義と、深淺二樣に分ける。第二義の淺い意味に於いては、操練が踊りの目的であつたり、名標が彫刻の目的であつたり、乃至勸善懲惡が詩歌の目的であつたりするのが文藝の功利である。第一義の深い意味に於いては、單に生の支持といふ以上に、直接、生の増進を助けるのが文藝の功利である。而して美は第二義の功利を以て始まつたが、社會状態の變化と共に其の方面の漸く不用に歸して蝉脱せられ行くや、一時、人をして直反對なる無功利を思はしめた。美は茲に全く生より獨立し得たかの如く想像せしめた。唯美の思想は此の階程を代表する。けれども是れだけではどうも不滿足である。絲の切れた紙鳶のやうに、何だかふわ/\として落ち着かぬ。色々と勿體はつけて見るが、物足らぬ。そこで更に切れた絲をつないで、今度は衣食住などの上つらなものに結びつけず、其の底にある生命の杭にしかと卷きつけやうとする。是れが美を再び生に歸嫁せしめんとする思想に外ならぬ。
第一義の功利といへば、直ちに宗教問題のトルストイ、社會問題のゾラ、道徳問題のイブセン、乃至理想だの、眞理だのと、雜多な道具が提出される。併し吾人のいはゆる第一義は是等で無い。是等は依然として第二義の功利で、たゞ操練や、名標と類を異にしてゐるのみである。若し文藝が説教集となり、社會學となり、倫理學となり、哲學となり、知識に仕へるといふを以て僅かに實用功利の威を保留し得るといふのなら、其の文藝は名標となり操練となつて實用功利の威を保つものと區別はない。文藝の第一義功利は此の以外に存する、と見るのが吾人の立場である。
美は生の増進である。是れほど功利的なものは無い。こゝに何等か人生自然の眞理を描いた一幅の畫があるとする。例へばフランスのミレーが畫いたアンゼラスの圖でもよい。滿幅鳶色がゝつた田園の夕暮に、若い夫婦の百姓が一日の勞作を了へて、農具を側に、一籠の薯を中に置いて、相對して心から敬虔の祈を天に捧げてゐる。斯くして一日も無事に暮れた神の惠を思うて、謙遜な彼等の心には油然たる感謝の情が湧く。併しながら其の四圍の配色光景は、人をして深い/\一種の哀愁に堪えざらしむる。生の苦みは日に/\彼等の若い血を涸らして行く。
地も、草も、人も、生活といふものに疲れ果てゝ、やがて彼方の寺から響き來る夜の鐘の音をたよりに、一夜をせめて安らかに休息せんとしてゐる。人間は何故に斯うしてまで生きて行かねばならぬか。分からぬものは運命の意味である。所謂近代的内觀、近代的哀愁の意は遺憾なく此の圖に見はれてゐる。我等が之れに對する時は、圖中に含まれてゐるだけの眞理は勿論、之れに聯續するものをも、何所までも辿り辿つて、其の通りを我が心に實現せんとする。そこに我が生は限りなく増進せられて、増進したる生は更に眼前の畫圖中に流入し、我れと圖と全く別なきに至つて、圖は生きたものとなり美なるものとなる。
吾人の結論は以上の如くならんとするのであるが、其の生の増進といふことから快樂説に入り、生の流入といふことから生化説に入らねば論は完成せぬ。題を改めて更に稿をつぐの機があらう。(明治四十年十月)
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