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『破戒』を評す

 

 

 

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     『蒲團』を評す

 

は自然主義賛成だ。少くとも今のところ、日本の文壇では是れが一番新しい趣味だ。いや端緒は以前からあつたかも知れぬが、小説界に明白に乘り出して來たのは新しい〓[#「こと」合略仮名]だ。ユイスマンで一轉しかけた、ブールゼーで反對になつた。それは遠いフランスの事である。二十何年後れて居やうが居まいが、わが讀書界がネチュラリズムと西人の呼ぶ趣味を、眞に身にしめて味ひ知らんとするに至つたのは、眼前の事實であるから仕方が無い。長い前途をひかへてゐる我が文壇が、一歩でも前へ進めば――前へ進むとは今までに無かつた新しいものを經驗することだ――進んだだけの利益はある。此の意味で新しいものは結構である。

或者は、自然主義はいゝが、今の所謂自然主義の作物はいかぬといふ。いかぬとは趣意が違つてゐるといふのか、不出來だといふのか。趣意が違ふといふのなら聞きものだが、不出來だといふのなら、自然主義そのものとは別の事だ。出來不出來は何所にもある。今の此の派の作物には、いかにも不出來なものが多いと思ふ。何等かの方法で、もつと實の人生を觀るといふことと併せて、もつと藝術的良心を修養するといふことは、今の青年作家の根本要件である。しかしながら其の目ざしてゐる傾向はおもしろい。是れに批難を加へることは無い譯だ。

無い譯の批難を強いて加へやうとする所に種々の滑稽が演ぜられる。自然主義、はいいが何だか氣に喰はぬ、今に飽きられるだらう、屹度見てをれ、一年とば續かぬから、などゝ五寸釘でも打ち込みさうなものがあるかと成へば、ぐつと高くとまつて、おれ等が見れば小供のいたづらだ、ワハハハハと、時平公の七笑ひ、苦しいのか可笑しいのか分からぬのもある。

早く飽きられるかも知れぬが、飽きられぬかも知れない。飽くの飽れぬのと、浮氣者の言ひ草に類した事はどうでもいゝだらう。無論思潮といふ者は何所の國でも變らなければ思潮ではない。今の自然派でも、乃至は理想主義でも、寫實主義でも傾向となり思潮となつて出て來る以上、萬年不易であられてはたまらない。何年かの後には、フランスの跡を追つかけて、自然主義が神秘主義なり、標象主義なりに變つて行くかも知れぬ。けれども單に將來變つて行くといふことを豫想するために、現在のものが價値を失ふ譯はない。フランスではもう一立て場面に行つてゐるから、自然主義を過去のものとして取り扱はんとする者もあるのだらう。日本では自然主義が正にプレゼント、テンスだ、ひよつとすればまだフューチュア、テンスかも知れぬ。眞に其の意義を理解し味得するのは是れからである。好い自然派の作品が盛に出でゝ、特色が十分認められるやうになつた、其の後にこそ自然派は次の思潮に地を讓つても差支はない。また讓るのが當然の時も來るだらう。まだ現在にすらなりきらぬものを、新しいといふので、寄つてたかつて過去へ擔いで行かうとは、不心得の事だ。

奇態なのは此の自然主義の後に理想派が起こつて、それが舊硯友社風の復興だらうと夢想する人のあることである。ルナンが理想哲學の後に文壇の神秘主義起こるといふペアリング式の論法から言へば、理想派といふに難はないとしても、硯友社風を比較に取るに至つては大に難儀だ。難分妙な事を考へたものではないか。勿論傑れた作家になると、後世の讀者をして時々思ひ出したやうに回歸熱に罹らせることはある。スコット、デューマに至るまでさうである。紅葉も一葉もさうであらう。けれどもそれが同じ思潮の復興を意味するものではない。紅葉から風葉氏の前半までの一括した、漠然たる一派の特色は、よし今の自然派が一年半年にして退くとも、其の後を襲ふべき支配思潮とはなり得ぬ。流れた水は決して歸らない。新代の人が小説に對する趣味は劃然として遷つてゐる。頭の具合が更まつてゐる、此の事實を切に感じた後でなければ、我文壇の近事を論ずる資格はない。

僕とても今の自然主義が文壇の行き止まりであらうとは思はぬ、西洋の事例から類推して、此次は何だらう位の事は考へられる。併し未來は現在を通り越しての事だ。新しく明けかゝつた現在は、木の葉の霑ひ、風の香り、物悉くをして新鮮の氣を呼ばしめよ。新代の人は、やがて昇る新日の前に讃仰の鐘を撞くべきである。 さて本文に入つて、『蒲團』を合評することになつた一つの理由を言へば此の作が最近の小説壇で二葉亭氏の『其面影』と共に最も讀みごたへのある作たる外種々の點から所謂自然派の特色長所を明白に説示してゐる氣味だからである。自然主義論の中へ、此の作が挿畫として刷り込まれたやうな形である。

讀んだ後の全體の感は、まづ『藝術品らしくない』といふことである。之れは無論善い意味にも惡い意味にもなる。「藝術品らしい」といふ型を持つた頭の弊から言へば、それに對立したものとして善い意味になるが、其の「らしくない」の目立つときは、もう弊であらう。而して『蒲團』には此の兩意ともある。「らしく」も「らしくなく」もない境があつたら、それに限るのであらう。

説明脈、抒情脈の作風、人物性格の事等については、他の論評に説があらうから略するとして、たゞ最不滿足なのは、細君の描寫である。柔順一方の人物とはしてあるが、それすら作者は面倒くさいとでも思つてか、碌々書かなかつた氣味でないか。出てゐる細君はほんの筋を通す道具たるに過ぎぬ。殊に三人の子供もあるといへば、家庭の他の半面が今少しく濃く影を主人公の心に投げかけるべきであらう。此の影が薄いために、心中の苦悶が十分具象するに至らなかつたのは殘念である。けれども中に存する新趣は、之れがために没却せらるべくもあらぬ。此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大膽なる懺悔録である。此の一面に於いては、明治に小説あつて以來、早く二葉亭風葉藤村等の諸家に端緒を見んとしたものを、此の作に至つて最も明白に且意識的に露呈した趣がある。美醜矯める所なき描寫が、一歩を進めて專ら醜を描くに傾いた自然派の一面は、遺憾なく此の篇に代表せられてゐる。醜とはいふ條、已みがたい人間の野性の聲である、それに理性の半面を照らし合はせて自意識的な現代性格の見本を、正視するに堪えぬまで赤裸にして公衆に示した。之れが此の作の生命でまた價値である。それにしても舊來ならば、今頃は道徳派から批難の聲の上がるべきを未だ左樣な氣配の見えぬのは、時勢の變か、それとも他に理由のあることか。

無論今までにも、斯かる方面は前に擧げた諸家の外近時の新作家中にも之れに筆を着けたものが無いではない。併しそれ等は多く醜なる事を書いて心を書かなかつた。『蒲團』の作者は之れに反し醜なる心を書かなかつた。

作者の掴んだ所が果たして所謂人間のドキューメントの全文であるか否かは疑問に屬すること、ゾラ等の場合とかはらぬとしても、それは此の方面に於ける自然主義全體の疑問である。作者は此の一面の自然主義を生擒し來たつて、明白に問題の俎に上したものと謂つてよい。(明治四十年十月)


 

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