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オペラは亡ぶべきか

 

 

 

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     『破戒』を評す

 

『破戒』はたしかに我が文壇に於ける近來の新發現である。予は此の作に對して、小説壇が始めて更に新しい廻轉期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。歐羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に傳はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に對等の發現を得たといつてよい。十九世紀末式ヴエルトシュメルツの香ひも出てゐる。我が小説壇に一期を劃するもの、若しくは劃せんとしつゝあつた幾多の前驅者を總括して、最も鮮やかに新機運の旆旗を掲げたものとして、予は此の作に滿腔の敬意を捧ぐるに躊躇しない。『破戒』はたしかに近來の大作である。

作全體としての予の感想は以上の如くであるが、部分々々の技巧については、敬服する點と共に、不服の點も無くは無い。例へば全篇に渉つて、伊太利、佛蘭西などの文藝を中心として存する、所謂センジュアリズムの筆致、但し斯やうな場合にセンジュアリズムと云ふのは、必ずしも實感挑發と日本でいふやうな意味では、無い。感覺中にも嗅覺、味覺、觸覺等のいはゆる第二感覺に訴へる色彩を好んで用ふる〓[#「こと」合略仮名]、耳で聞く者をば眼で見せやう、眼で見るものをば鼻で嗅がせやう、といふ筆致である、文藝上の官能主義といふものである。

作中所々に殊に好んで嗅覺を用ふる、恐らく是れは作者も意識してやつたのであらう。要するに印象を出來る限りフレッシュに、キーンに、ウヰ[#「ヰ」は拗音小文字表記]ウ[#「ヰ」は拗音小文字表記]ヰットにと覘つた用意と見える。勿論斯やうな描法が他に無いとは言はぬが、此作者が殊更に之れを多く用ひて、而も概して成功してゐる點が、即ち此の作の手障りをして何となくフレッシュに感ぜしむる一因であらう。おもしろい。唯、作中幾ばくの箇所かは、此れが強いて作つたもの、若しくは叙して至らざるものとなつた跡が見える。是れは何人も一讀の際に氣づく所であらう。

又叙景に人事を想はせ、人事に運命を想はせる筆法も、いかにも胸にこたへて、新しい人でなくては此の筆は使はれぬ、と思ふ節あると共に、知巧上の分解、作爲に陷つた所もある。所々に散見する心理的描寫は概して説明的ながら、從來のコンヴェンショナリズムを破つて、ずつと若い句法を用ひたため、之れまた新代の讀者には相應を傳へたであらうと信ずる。

主人公丑松が穢多であるといふことの知れかゝつてより後の描寫には、中心感情すなはち身分に關する恐怖、悲哀の情が痛切にあらはれてゐるといつてよい。併し其の前半は、叙述の細密であるに拘らず、此の點に於いて何となく物足らぬ感がする。

一ぜんめし屋を叙し、敬之進の宅を叙して、油繪のジャンルのやうな筆を使ふところ、やがて自然派の得意の境であると共に、弊もまた此の派に多くに通有な點から生ずる。即ち事象を歴寫し去つて、却つて、全景の一に溶け合ふ點を遺却した氣味である。思ふに作者は一事を叙し一景を描かんとするに當つて、餘りに多く周圍を見はしはせぬか。全篇を通じて稍々〓[#「日」+享]いといふ批難を聞くのは、必竟此の歴描逐寫の結果ではないか。

結末、小學校で丑松が身の素性を自白する大興奮の場、乃至夫から後漸次に展開し來たる彼れが新光明の天地を描くに及んで、頗る筆力の緩んだ趣あるは如何。

自白前後の自家心内の悲壯な光景、周圍の之に對する興奮驚愕の状態などが十分で無い樣に思はれる。且つ訝しきは、丑松が今まで隱し立てをしてゐた罪を謝した後地に伏して我れは賤しき穢多なりとの心を述べる邊である。穢多といふ〓[#「こと」合略仮名]をみづから卑下し過ぎる所が却つて同情を傷ひはすまいか。殊に其漸次新光明の天地に入るあたりは、一層對照のあざやかな色彩を用ひて、さながら暗夜の果てから新日の次第に昇り行くが如く描いてもらひたかつた。教員室で文平と丑松との爭論のあたりは、如何にも十分の筆力をあらはしてゐる。

性格描寫は感服するほどでない。殊にも女性が不出來である、會話が生きて居らぬ。寺の細君おしほなど、作者が説明に力めてゐるに拘らず、類型の域に迄も達して居なくはあるまいか。また丑松とおしほとの相思の方面が今少し活かして書いて欲しかつた。

北信の説明が大分しば/\繰り返されてゐるのは、歐洲の作者が所謂ローカル、トーンを寫さんとするの用意からであらうが、同じやうな句法、同じやうな形容の所々に重復して用ひられるのは、修辭上の瑕疵たるを免れぬ。

されど要するに此等の缺點は、以て此の作の精神、感情、描法が有する新代的魅力を毀つには足らぬ。(明治三十九年五月)


 

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『破戒』を評す|文頭

 

 

 

『蒲團』を評す