← 扉 へ
← 目次 へ
← 『ミカド』オペラの事 へ
--------------------
オペラは亡ぶべきか
西洋で目下最も全盛を極めてゐる藝術を何かと問へば、少なくとも其の一つはオペラであると答へ得る。オペラと言へばワグナーが作を中心とすること勿論である。我が邦では是れからやつとオルフォイスの摸演でもやらうといふのだから、問題は勿論將來の事である。西洋でも多數は尚ワグナー、オペラ全盛の前途を憂へるほど先走りはしてゐない。けれども一部には正に此の前途の憂が感ぜられて來たらしい。我等は此の事實から種々の暗示を得るのであるが、先づ其の事實を概説して見ると、最近アメリカ殊にニュー、ヨークを中心として此の悲觀説を立てた例が『ノース、アメリカン、レヴュー』誌にあらははれた。其の趣意を紹介する前に、想ひ出すのは甞て讀んだイギリスの一評論家が五六年前十九世紀の音樂を論じた一文に早くも似た議論をしてゐた一事である。其の意によると、
[#ここから1字下げ]
自分が若かゝつた頃は、ワグナーの音樂はまだ所謂「ツークンフツ、ムジーク」即ち「未来の音樂」と稱せられてゐたが、今やそれがもう「過去の音樂」とならんとしてゐる。ワグナー式の樂劇の將來の發展に關しては疑惑がある。藝術と實人生との出來る限りの接近といふ事が近代の傾向であるとすれば、樂劇は必ずしも是れに好都合なものでない。實人生は歌ふよりも話すを自然とする。ワグナー自らがロマンチック、オペラと呼んだのは誠に故ある事だ。ロマンチックなものにして始めてオペラになり得る。リアルなものは其の反對である。而して近代の藝術はリアルな點を特色とする。但し是れはワグナー式のオペラに就いて言ふのであつて、音樂が或る種の劇の中に這入つて來て、濃厚な情緒や抒情的な箇所と結合することは、將來盛になるべき傾向であらう。殊に抒情詩人と音樂家との聯合は最も必要な事であり、また今のリヒャード、ストラウスなどに見える傾向である。たゞオペラに就いては、何うも其の題材が本來歌謠的抒情的であるものゝみ適當であるやうに見える。ワグナーが作に就いて見ても、神話的材料か、それでなくば『マイスターシンガー』『タンホイザー』等の如く本來が歌謠的の材料であるものに限られ、また現代ではフンパーデヰ[#「ヰ」は拗音小文字表記]ンクの輕いオペラの如きが小供のお伽噺に世界を取るたぐひである。而して此の如きオペラ的の題材には限りがある。斯やうな意味でワグナー式オペラが是れから先益々發展するか否かは疑問になる。
[#ここで字下げ終わり]
以上は原文の大意を取つて説明したのであるがワグナー、オペラの前途に關する疑問の趣旨は明である。 而して更に他の一方、「ワグナー過去に入らんとす」といふ説を聞くと、最近の論者が擧げる所は三點に歸するらしい。即ち
[#ここから1字下げ]
先づあらゆるオペラ歌手を集めて、あらゆるオペラを聽くに好都合なのは世界中ニュー、ヨークに若くは無いが、此のニュー、ヨーク、オペラの近年の景况を計量器として觀察すると、ワグナー、オペラに對しては著しく人氣が減退したやうである。其の理由は三つと見られる。第一は幕内の樂屋に存する理由である。第二は幕外の聽衆に存する理由、第三はオペラ其のものに存する理由である。樂屋の理由とは近年歌手の名人が無くなり、若い人々は、ワグナー、オペラが聲を無理に使はす結果、聲を傷ふを嫌つて、此の方面に熱心にならない爲に、淋れたのである。次に聽衆の理由とは、所謂ワグナー熱狂者が減じて景気が落ちた事を指すのである。最後にワグナー、オペラ其の者の理由とは、是れが音樂の醇味を害して無理をしてあるため、音樂趣味が滿足して居なくなつたのである。
[#ここで字下げ終わり]
といふに歸する。而して此の説に對する反駁が同じ雜誌に出てゐるが、其趣意は第一、ニュー、ヨークでワグナー、オペラの景氣が衰へたといふ事實には誤謬があるとし、さて右に擧げた三點から辯じて、名歌手の無くなつたといふことは事實に相違するとし、名歌手が隨分あると認める。またワグナー、オペラ其のものゝ音樂的純粹を失ふといふ批難は屡々聞く所であるが、ワグナーが本來劇を本位とし、之れを助けるために音樂を第二位に置いて用ひた結果であつて、ワグナーの不敏の致す所では無く、むしろ普通の音樂を通り越した高い所に標的を立てたからである。たゞ所謂ワグナー熱狂者の減じたのは事實である。されば此等の理由のみからして輕々しくワグナー音樂の前途を危ぶむのは間違ひである。ワグナー、オペラにはながく亡びざる價値がある。といふやうな意味が辯駁文の要點である。
ワグナーが其のオペラで劇的成果を得んために音樂上に無理をして音樂としての醇味を害してゐるといふ〓[#「こと」合略仮名]は昔から一派の批難であるが、今また根本の理由として提起せられてゐるものは此の古い難題であるらしい。而して前ニ家の批難説に徴して見ても、是れが容易に消えない難點と認められる。主觀的、抒情的、形式的な音樂の本性と客觀的、戯曲的、内容的な劇の本性と、矛盾したものゝ統一は、古來ワグナー一人之れを能くしたと稱せられてゐるが、一方にはそこがやがて破綻の絲目であると見える。何時か一度はワグナー、オペラも此の破綻が本となつて手疵を負ふべき運命になつてゐるのでは無いか。而して此所でワグナーが傷いたら、跡は瓦解であらうか。一度調和したと見えた劇と音樂とは、再び相遠ざかつて了ふであらうか。前に引いたイギリスの評論家に從へば、兩者は遂に相分かれざるを得ない運命のやうに見える。音樂は宜しく音樂として思ふ存分の事をなすべく、劇は劇として不羈獨立の發展を遂げる外ないやうである。ワグナーの計畫は半世紀の夢であつたに過ぎないで、今や其の夢は覺めかゝつたらしい。
然るにアメリカの論者が見る所は是れと異なつてゐる。ワグナー、オペラが過去のものになると、ならざるとの賛否は何れとするも、兩者共に、所謂ワグナー熱狂者の亡び行く事實を認める點に於いては一致してゐる。而してワグナー、オペラが必ずしも過去のものにはならないと反駁する論者ですら、下のやうな觀察をしてゐる。
[#ここから1字下げ]
二十年前ワグナー、オペラの劇的方面に全分の滿足を得て、ワグナーをして至上權たらしめたものが、暫時たりとも新しい方角に頭を轉じかけて來たのは主としてイタリー新代のオペラの爲である。即ちマスカグニー。レオンカワ゛ローから延いてプチニーの活動に及ぶまで、所謂新代イタリーのオペラ作者等は、ワグナー、オペラの弊と見るべき緩漫、朦朧、粗暴を避けて、活溌、明細、流麗を合せ發揮するやうな新オペラを作り得るを聲言し、之れを事實に試みた。是れが少なからず世の視聽を動かして、近く『マダム、バタフライ』の如き大成功を遂げるに及び茲にオペラの新天地が展開し來たつたかのやうに人をして感ぜしむるに至つたのである。
[#ここで字下げ終わり]
之れを要するにオペラの將來は解體か新局面の打開か。事實上の解決はひとり天才者の能くする所であらうが、觀察者に取つても頗る興味のある問題である。(明治四十一年十月)
----------------------------------------
← 扉 へ
← 目次 へ
← オペラは亡ぶべきか|文頭 へ
→ 『破戒』を評す へ