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英國の俳優教育、新作脚本
僕等の考へる所では、是れからの俳優教育は手や足の教育ではない、頭の教育が第一だと思ふ。手や足の教育が主になる藝は、もう過去のものではないか。圓満に言へば兩方とも大事に相違ないが、時弊から言へば、主たるものは頭だと極言してよい時代である。假りに茲に新作の傑れたものが出來たとする。『大農』若しくは『第一人者』程度のものでもよい。誰れが是れを演ずるだらうか。言ひかへれば今の俳優程度の頭で、是れくらゐの作ですら其の覗ひ所が理解せられるだらうか。西洋で言つたら矢張りイブセンを境として、イブセン以後の近代劇の精神の解せられる俳優が一人でもあらうか。精神の解せられない作の演ぜられやう譯は萬々無い。劇を文壇と反襯して行かせやうとするには、俳優の頭の教育が眞先でなくてはならぬ。今後の演藝は必ず小手先の産物で無い、頭の時代だ。
イギリス現代の名優連が俳優教育といふ事及び新作脚本に關する觀察を數年前の『ベル、メル、マガヂーン』に集めたものがある。其の大要を摘んで見ると、先づチャールス、ウヰンダム、この人は輕い喜劇や世話物の名人で、舊の菊五郎といふやうな地位に居る俳優だが、此の人の曰ふには、役者の最要件は子チユラルネス即ち自然といふ事だ。一時はグッド、エロキユーション即ち名白名調子といふやうな事も喜ばれたが、今の時勢はもう移つてゐる。從つて役者といふものは本來教ふべきものぢやないと。又曰はく新作脚本を手元に送つて來る人は隨分多いが(此等の俳優はアクター、マネージャー即ち俳優にして座頭たる地にゐて脚本選定の權を握つてゐるからである。以下の人々皆同じ)大抵は駄目である。自分は是等の投書を採用するよりも、寧ろ自分に箝まつたものを知り合の作家に頼んで書いて貰ふ。其の方が成功する。例へば『ローズメリー』にしても『デビット、ガーリック』にしても自分の當り狂言は皆さうであると。蓋し此の兩作はウヰンダムの一代を代表するに足る程の評判な悲哀劇である。いはゆるスウヰート、ソロー即ち甘い悲みを中心にした劇である。
次にビアボム、ツリー、此の人の名は既に普く知られてゐる通りであるが、曰はく、自分は本來硬いものでも柔かいものでも何でも自在に感じを持ち得るといふことが得意のつもりだが、役者の生命はやはり中から發して來なくてはならぬ。たゞ其の階梯だけは教へられるし、又教へる必要があると。また新作は年四百通くらゐの割で來るが、多くは斷わつて了ふ。作意の不十分な事、舞臺を知らぬ事等が其の主なる缺點であると。
ジョージ、アレキサンダー、彼れはロンドン第一の色男役の名人であるが、曰はく新作の投稿は五週間に二十通まで受取つた事あり、自分は成るたけ新作者の物を世に紹介せんと心がけ、又從來も此の點は或度まで成就したと信じてゐる。又俳優志願の人も多く來るが、彼等の多くは十分か十五分の稽古で役者になれるものと思つてゐる、丸で事情に通ぜないものだから役に立たぬと。
ヘーマーケット座の座頭シリル、モード曰はく、新作は過去四年間に五百通も來たが、大概はいけない、理由は舞臺の知識が足りない爲であると。又曰はく、俳優は教へられないでもないが、教へるといふよりは、既に所有してゐる素を改良進歩せしめるといふ性質のものであらうと。
ガーリック座の座頭アーサー、ボーチャー曰はく、新作の來るのは一年凡そ百五十通即ち一週平均三作位の割である。是等は凡て始めは讀役に命じて讀ませ、善いものがあれば自分が讀みかへす。又知り合の人から來たものは大抵寢床で一讀し、始め一幕で眠氣のさすやうな作は直ぐ返すと。而して彼れは夫の小アーヰ゛ングやベンソン等と同じくオクスフォード大學の學士でそこの演劇協會で腕を錬つた人である。
以上によつて見ると、イギリスに於ける純劇の俳優教育の如何なる意味であるかと言ふことが察せられる。また其の新作の數の如何に多くして、而も傑作の如何に稀であるかといふこと、是れに對する俳優側の意見等が窺はれる。(明治四十一年十一月)
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