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演劇の第二種第三種
必ずしも演劇のみに限らず、あらゆる文藝は之れを廣く社會現象の一つとして見るときは、三級の存在状態を有する。すなはち美の最高標準を追うて、少數たりとも選揀したる讀者觀者を滿足せしむればそれでよいといふ理想的のものと、高下押しならした水平線、乃至其の以下にあつてひたすら多數者の驩心を得るを目的とする通俗的なものと、及び此の兩端の中間に立つて、餘りに多く理想的でもないが、さりとて全くの通俗的でも無く、謂はゞ兩趣味の折衷とも見るべき中間的のものと、是等を假りに呼んで文藝の第一種第二種第三種と名づける。而して茲では中んづく演劇の第二種第三種、通俗的と中間的との事を論じて見る。
如何なる國、如何なる時代にあつても、最高標準を追ふ藝術が最上のものであることは論を待たぬが、同時に通俗趣味に投ずる下級藝術の發生も殆んど必然の勢である。而して社會經營の眼から見るときは、此の種の通俗藝術も亦た必要のものと言はねばならぬ。文藝の使命が、少なくとも其の半面に慰樂といふことを含む以上は、慰樂せらるべき人々の機根に應じて、文藝に差等を生ずるのも誠に已むを得ぬ次第である。講談筆記通俗小説のたぐひに由りてのみ精神上の慰樂を得るものに取つては、文壇的價値の高い作品は何の意味をもなさぬ。而して斯かる低級文藝の好愛者は啻に如何なる時代にも跡を斷たざるのみならず、數に於いて却つて社會の優越者である。文藝を心とすものは此の事實を忘れてはならぬ。
或は、低級趣味はすなはち改むべきもの、導き進ましむべきものであるから、之れを本位とした文藝論は無用であると云ふかも知れぬ。けれどもそんな道理は無い。高いものを味ひ得ぬ多數者に對して、さらば何物をも與へないのが至當であらうか。はた適應したものを與へて漸次に之れを進益する策を講ずるのが至當であらうか。何物をも與へなければ、彼等は漸く精神欲饑えて肉體欲に其の補償を求めるに至る。肉體欲に墮せぬまでも精神欲はます/\乾枯し腐爛して、歩一歩向上の途から遠ざかる外は無い。此の點から言へば、必ずしも向上進歩の緒を與ふるもので無いまでも、せめて現在の状態から墮落せぬ程の精神的趣味は斷えず供給してやりたい。現に我が演劇界の状態などに見るも、此の必要は切に感ぜられるでないか。
諸種の藝術中でも演劇は殊に公衆的のものである。最多數者が享け得る最大の文藝的慰樂は演劇に於いてするに若くは無い。上は文藝の士から下は殆んど酒色の外に何ものゝ快樂をも知らぬ低級趣味の人までが、演劇のみは一堂に集まつて之れを賞翫する。此に於いてか高級趣味と低級趣味との対照が此の方面に於いて最も明かに見はれ、少數者の喜ぶものは多數者の好まざる所、多數者の好むものは少數者の喜ばざる所となつて、茲に截然として二樣の演劇を生ずるに至る。之れを西洋の劇壇たとへばイギリスの其れに見ると、一方にバーリーが喜劇、フヰリップスが悲劇、等の文壇的なものあると共に、他方、所謂滑稽オペラや通俗史劇喜劇やパントマイムの類が非常の人氣を以て驩迎せられる。先程日本に來たバンドマン一座のオペラといふもの、例へば『オーキッド』『ヱ、カンツリー、ガール』等の如きは皆この通俗趣味を代表して一時ロンドン劇壇を動顛せしめ、延ひて全ヨーロッパに威を振つた滑稽オペラである。通俗劇が斯くの如き勢いで跋扈するため、一方にはまた之れによつて高い趣味が侵蝕せられると慨嘆するものも無いではない。併し事實は必ずしもさうと限らぬ。要は他方で之れを向上の途に導くことを忘れさへしなければ善いのであらう。案排が肝心なのである。終日勞作に疲れた勤め人や勞働者等が、晩食の後に妻を携へ友を誘ひ劇場に一夕を譯も無くおもしろく過ごして、翌日の英氣を回復しやうと願ふ。此の願を充たしてやらなければ、彼等は一層劣等なミュージック、ホールに行く、又は酒を飲む、賭事をする。ろくな結果にはならないのが多い。通俗劇は少なくとも此の病の幾分を救ふ力がある。
振りかへつて我が社會を見ると、理想劇の思はしいのが無いは勿論、通俗劇すらも其の任を果たすに足るやうなのは極めて少ない。大多數は依然として百年前ニ百年前の通俗趣味の腐朽したのを繰りかへし/\てゐる。或る少部分を除いては、理想劇として不朽の價値を有しないは勿論、通俗劇としてすら餘りに陳腐、餘りに愚劣なもの許りではないか。所謂新派劇の中には、小説の飜案、西洋物の飜訳、新作の滑稽劇等に多少今日の通俗物たる役ぐらゐは勤め得る者が無いでもないが、それすら極めて微々たるものである。何かと言へば『不如帰』『金色夜叉』と、同じ所をのみ迷ひ廻つてゐるやうでは、今に舊派劇と擇ぶ所ない運命に陷りはせぬか。通俗趣味をすら滿足せしむるに足らぬものとなりはせぬか。懸念は是れである。斯かる意味からして、吾人は第二種演劇の上に、作者も一考を費す必要があると思ふ。必ずしも直ちに西洋の滑稽オペラを摸倣せよとは言はぬ。けれども此等によつて何等かの工風を得る端緒は屹度見出されやう。吾人も亦た機を得て案ずる所を説いて見やう。
終りに述べるのは第三種演劇の事である。全くの理想的でも無いが、さりとて全くの通俗的でもなく、穩和な、漸進的な、いはゆる一歩づゝ進んでも二歩づゝは進まぬといふ行きかたのものが、藝術にもたしかにあり得る。而して最も安全で、無難で、それで多數者にも驩迎せられるのは此の類の演劇である。文藝獨自の理想から言へば此れは姑息なまだるつこいものであるが、社會の全局といふ着眼點から見ると、此れが一番好都合な演劇である。たとへば、ドイツ劇でいへば吾人が甞て雜誌『歌舞伎』に梗概を述べたマイヤー、フエルスターの『アルト、ハイデルベルヒ』イギリス劇では、同じく『新小説』に梗概を述べたデヴヰ[#「ヰ」は拗音小文字表記]ースの『カズン、ケート』乃至名優ウヰ[#「ヰ」は拗音小文字表記]ンダムが好んで出す『デヴヰ[#「ヰ」は拗音小文字表記]ツド、ガーリツク』『ローズ、メーリー』などが、正に此の中間劇に相當して、しかも興行ごとに非常の盛况を呈する。西洋で全くの通俗趣味以外に最もあたる芝居は常に此の方面から出る。勿論範圍の廣い西洋のことであるから、文壇的なものでもよくさへなれば相當の入りは取るが、大入りといふのは概して第二種第三種にあること東西を通じて變らぬ人情であらう。吾人は以上の意味から、我が國に第二種第三種の新劇を興すものゝ出でんことを望む。(明治四十年二月)
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