目次

 

新舊演劇の前途

 

 

 

--------------------

 

     脚本をして先づ讀物たらしめよ

 

來新脚本が漸く世の注目を惹かんとするに至つた。就中先づ文壇に於ける讀み物としての脚本が、讀者の興味に接近して來た。脚本といへば讀んで興の無いものと頭から極められて居た從來の趨向が、一歩轉ぜんとするの徴である。既に作りつゝある人としては月郊、紫紅、天聲等の諸氏、また小説壇から此方面に手腕を示すべしと傳へられる人々としては二葉亭、天外、風葉の諸氏、みな今日では或は精讀せられ、或は讀物として期待せられる形勢となつた。吾人は此の傾向のますます歩を進めんことを切望する。

よい脚本は必ず讀んでも面白い。讀んで人を動かす程の脚本でなければ、舞臺に上つて成功しやう筈は無い。讀んで面白ければ凡て舞臺でも面白いとは言へぬが舞臺で面白いものは凡て讀んでも面白いとは言ひ得る。讀む興味と觀る興味とを全然別なものゝやうに言ひなすのは不精確な論である。では讀むものと觀るものとの關係はどうなるか。

蓋し之れを作者の側から言へば、脚本である限り演ずるもの、觀る者としてといふことを第一義に置いて書くべきは勿論である。演ずるものとしての言葉と、讀むものとしての言葉との間に微妙なる筆加減のあるべきは言ふを待たぬ。筆加減といつても、何も七五に調子を附けたり、殊更に自然を離れて誇張的の修辭法を用ひたりせよといふのではさら/\無いが、それで尚ほ聲を張り上げて言ふべき臺詞と默讀すべき小説中の言葉とは造句の用意を別にするやうである。殊に日本の文壇の現状では、此の別が目につく。目につくのみならずまた肝要である。其の理由は日本の文章が漢字漢語使用の結果甚しく口から耳へ訴へるものと懸絶してゐるからである。漢語を下手に朗讀せられると、漢學の素養ある者ですら、聽いて居て判然せぬ。同音語のまぎらはしいのは多いし、音はつまつて且つ一向ユーフォニックでないのがあるし、結局日本語に挿入した漢語といふものは耳に訴へる方面が殆ど錬磨せられてゐないから、何としても聞きづらい。漢字に寫して、眼で讀んでこそ納得も出來やうが、口で空にしやべられては何の事だか別からぬ例が幾らもある。是れが即ち讀むものと聞くものとに於ける日本文特有の不一致である。今の日本語では、言葉の選擇上、ぴつたりと其の感想に吻合する上に、更に耳ばかりで分かるやうにいふ特別の條件が必要になる。今の新作、社會劇がゝつたものには多く此の言葉の選擇の熟錬が缺けてゐる。總じて所謂書生言葉が不用意に挿入せられて、啻に耳の理解を妨げるのみならず、性格、甚しきは男女老若の類型をすら破壞して了ふ。惜しむべきでは無いか。

其の他一般には、前に言つた如くたゞ默讀して、跡は伸縮自在な想像に任せる小説中の言葉と、一々明白に音聲動作表情を伴はすべき脚本中の臺詞と、前者は比較的に延びてもまた書き餘ましたまゝでもさして邪魔にならぬ場合が多いが、後者はそれを許さぬといふ相違がある。併し是れは或は結局脚本本位で、脚本はまた人間本位であるから、作者が人間自然の言葉は斯うであると極めて書く以上、舞臺の約束はむしろ之れに服從した以内の事であるといふ説も立つかも知れぬ。自然の言葉はそれが自然であるといふ點に絶對の權威を有してゐるから、舞臺こそ自然の言葉を迎へて之れにはまるやうに己れを變形すべきである。言葉の方が舞臺を迎へて之れに適應しやうとするのは間違だといふ論があるかも知れぬ。其の場合には標準はたゞ舞臺上の約束が自然を損ふや否やといふ事に歸する。自然を損ふの約束と、自然を助くるの約束と、此の判斷の如何によつて舞臺上の約束の價値は定まるのである。されば舊劇に於ける七五調の型すら未だ蝉脱しない上に演説調、言文一致調とでもいふべき一種の新型が早くも新劇の上に出來んとしてゐる目今の劇壇では、大に自然の言葉を貴んで、舞臺の約束も畢竟是れを侵さゞる範圍に於いてのみせしむる必要があるかも知れぬ。斯くの如くして劇が漸く生きた人間、自然の人情に近づくと共に、抱負ある俳優が自然の言葉を如何に言ひ廻はすべきかといふ新舞臺詞法の工風をする餘地も出て來る。

斯う見て來れば、小説中の對話と脚本の臺詞との相違の如きは、抑も末である。要は自然といふ一語に没してしまふ。人物感想の自然に貼合する言葉でだにあれば、小説と脚本とに二つは無い。たゞそれが眞に自然であり、眞の人物感想と貼合するを要する。判別は此の點にのみ存する。對話と臺詞との差は、たゞ臺詞の一音一呼吸も不自然なるを許さぬに反して、對話は多少不自然の點があつても寛恕せられるといふ消極的の意味に過ぎぬ。一は緊張した自然で一は緊張を要せぬ自然である。理想的に言へば兩つながら毫髮の弛怠をも許さぬものであつて欲しい。而して吾人が今の新脚本の臺詞に不滿足を感ずるのは此の弛怠があるからである、所謂舞臺の約束に合はぬためでは無い。「是れではせりふが廻はされぬ」、と云ふ批評は、傳襲の型に合せぬが爲めといふことゝ、其人物感想の自然と合せぬが爲といふことゝ、兩意のうち必ず後者でなくてはならぬ、前者ならば罪は廻し得ぬ方にある。眞に其の人物感想と吻合する言葉でさへあれば、人物感想の意氣を十分に胸に溢らしてゐる優人には其の言葉がおのづから臺詞となりて生きて來る筈と思ふ。今の劇壇の一病は、舞臺上の約束といふことを自然から獨立して背行するものと考へるに存する。戯曲の法則は事實の後に生ずるといふイブセンの言は、此の場合にも眞理たるを失はない。

吾人は讀んで面白いが必ずしも好脚本でないといふことを是認すると共に、好脚本は凡て讀んで面白いものであると信ずる。讀んで面白くないくらゐのものは演じても面白くはない。此の意味から言つて、新脚本は舞臺に上る前先づ讀物として文壇の批評に訴へる便宜を十分に持つてゐる。讀物として及第せぬ脚本は舞臺でも及第は覺束ない。先づ讀物として合格せよ、而して更に舞臺上のものとして合格せよ。新脚本作家は此の覺悟を以て奮起すべきと共に、讀者また脚本は常に讀んで興無きものと思ふの偏見を去つて、鑑賞の一半を脚本に移すの風を起さんことを。たま/\『都新聞』懸賞の新脚本『大農』の上場を見、また紫紅、月郊諸家の新作を讀むと共に脚本界の新機運を論ずるの言を聞いて、以上の實際論を附加する。(明治四十年十月)


 

----------------------------------------

 

 

 

目次

 

脚本をして先づ讀物たらしめよ|文頭

 

 

 

演劇の第二種第三種