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問題文藝と其材料
問題文藝と云ふ事は、屡々吾人の繰り返して云ひ、又世間も知つて居る所であるが、其眞意即ち人生第一義の道徳問題に觸るゝ文藝は、かくの如き問題を提出するに最便宜の方便、言ひ換ふれば現在社會の秩序を維持する根本原理である所の形式的道徳と、之れに反抗する我等自然の欲望感情との最も強い對照、若しくは最も烈しい衝突と云ふ方面に、自ら其材料を採り來るのである。而して其最も好い例は戀愛と之れを束縛する條件、例へば夫婦關係など云ふが如きものとの葛藤の如きであらう。一言以て之れを蔽へば姦通、若しくは結婚前の戀愛が他の男女との結婚の後に現れ來る葛藤など云ふものが即ちそれである。所謂姦通文學など云ふものゝ多いのも此理であり、又英國で Man's Past,Woman's Past 即ち男或は女の過去に關する文學と云ふ類のものは此意味に外ならぬ。かくの如き材料を採り來れば、自然にそれより遡つて前述の人生第一義の道徳問題に入り易い。此式の材料を三角形(Triangular)文學とも云ふ、其意は男と女――夫婦の關係、それに後に姦夫とか、又は其以前に關係した男女とかがあらはれ來つて悶着が起る、つまり男女二人の關係の中へ第三者が入り來り、三角形になる、即ち三人の關係になる所より呼びなしたものであらう。
數年前の英國劇壇に續出した此種の問題劇の中には、例へばかの今日英國作劇界の最高位を占めて居る Pinero の The Profligate であるとか、同じく、脚本家の元老たる Sydney Grundy の A Debt of Honour であるとか云ふものが即ちそれである。此等は二つながら所謂「男の過去」を描いて、結婚後に其男の情婦の現れ來ると云ふ筋である、而して芝居の事であるから、結局何れも引けぬ義理となつて、最後は死と云ふ事を以て之を解決する。併し此場合其の作の上だけでは死と云ふ事が葛藤を消滅さする事實であつて、かゝる意味よりすれば解決ではあるが、果して人生の覺悟と云ふものに對して幾何たりとも解決を與へて居るか否かは疑問である。
是れは單に此劇のみでなく、凡て此種の問題的文藝に伴ふ疑問で、つまりは所謂問題的文藝は問題を提出するに止まつて眞の解決をば與へずして過ぐるものではなからうかと云ふに歸する。それについては丁度此頃同じやうな問題劇で青年作者として第一位を占めてゐる Barrie の作に The Weding Guest と云ふのがあつた。此作の結末は一方が終に我慢をして、了見をして治まると云ふので、やゝ喜劇の性質を帶びて居た、隨て或批評家は之れを以て解決なき問題劇なりと批難した。其時に之れを演じた俳優、即ち今の英國劇界では若手の鏘々たる手腕家の一人で、オックスフォード出身のボーチアーが以上の評言を反駁して、必ずしも死のみが解決ではなくして、一方が忍んで退いて葛藤が消滅すれば、それが解決であると云ふやうな事を論じた事があつた。併し、私は思ふに此等は皆解決と云ふ語の意味による事で、藝術としては兎も角も其人生の矛盾がそこで解けるから、それを一段として完結する即ち所謂問題解決の形をなして居るには相違ないが、それが此大なる人生全體の問題に對して解決を加へたとは斷せられない場合が多からうと思ふ。單に主人公が死んで葛藤が消滅すると云ふよりも我等は或以上の解決を要求するのであるから、其解決に到達せざる限りは實を云へば問題提出の範圍に留まつて居ると云はねばならぬ。而してそれは恐らく作者の非常に大なる主觀の力を借りなければ萬人を滿足せしめ後世を滿足せしむる如き根本解決は與へられないものであつて、若し之れが眞に與へらるれば釋迦も基督もいらなくなるのであらう。が、兎に角如何なる形に於てか此問題に觸れる以上、解決の方向位は暗示すると云ふ意氣込はなくてはなるまいと思ふ。
我國の作でも、單に前述の三角形問題を捉へるだけならば、古來近松西鶴を始め現代の作家に至るまで數限りなく其類例は求むる事が出來るが、其等の多くは作者の腹の据ゑ所が近世の所謂問題文藝と云ふやうな點になかつたから、同じく藝術としては「おさん茂兵衛」も死ぬ、「小春治兵衛」も死ぬと云ふ解決はあつても、所謂人生に對する問題解決の方向には多く傾いて居なかつたのである。作の重力の中心少しく違つた方面にあつたので、そこが即ち近世の問題文藝と舊來の同じ材料を採つた作物との間にある相違であつて、而も此二方面の系統は今も存するので、英國に於いて、前に述べた問題劇の諸作と同時に出た同じく劇界の泰斗たる Arthur Jones の Mrs.Dane's Defence と云ふ如きも同じやうな問題を材料としながら、作の重力の中心が其問題の解決と云ふよりも他の方面、例へば戀愛と云ふやうな所にあつて、而も佳作の一となつて居ると云ふやうなわけである。我國にも同じ例はいくらもあらうと思ふ。(明治三十九年話談筆記)
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