← 扉 へ
← 目次 へ
← 文藝以内と以外 へ
--------------------
思ひより
近年の我が小説壇で、所謂寫實の漸く〓[#「厭」+「食」]かれんとするに當つては、一時天下騒然といふ氣味であつた。それが近來やゝ再び戡定の形勢を示しかけたかと見える。從來の寫實が、言はば表面的な寫實であつたのに對して今度は内面的な寫實が之れに代らうとしてゐる。内面的といつても單に心理的といふのとは違ふ。經驗的とも名づけ得やう。譬へば初め、眼で見、耳で聞いたまゝを寫實したものが、今は一歩を進めて、眼の象、耳の音をずつと心の奧まで引き寄せて、しんみりと内的に見聞し、さて之れを寫實するといふのである。成るべくしつくりと内的經驗に接近した寫實をやらうといふのである。十分に作者の心の香ひに浸つて、しかもそれが忠實な寫實であるやうにといふのである。是れやがて眞の自然派の精神ではないか。
而して斯くの如き自然派的傾向の傍に相接して存し得べきものは、哲學的乃至神秘的感味といふ意味に於いてのローマンチシズムではないか。我等は素直なる自然派の興隆を喜ぶと共に、之れに右の如きローマンチシズムの配色明かなるものをも認める。ツルケネフたりモーパッサンたると、はたイブセンたりハウプトマンたると我が文壇が眞に之れに感化せられるに於いて些かも上下優劣の差別は無い。
所謂罵評、乃至思つた事は前後左右に關せずして言つて了ふといふ直言評は、すつきりとして善い氣持に讀まれるものだ。併し若し之れに個人的の愛憎取捨が這入つて來ると、直反對に醜惡なるものとなる。あらゆる方面に無頓着である所が此の種の批評の生命でなくてはならぬ。
二月の雜誌類に出た小説中では、『趣味』にある正宗白鳥氏のものが最もすぐれてゐたやうに思ふ。『塵埃』は如何にも落ちついて重みのある短篇である。落想は西洋の近世ものに比べて左して珍とするにも當たるまいが、我が作界にあつては、蓋し此の一二月にわたつての佳品である。續いては本誌に出た水野葉舟氏の作などが二月作界の傑出であらう。
閨秀作家といへば今のところ楠緒、八千代の兩女史を中心とするやうであるが、兩者ともむしろ一種の批評眼を具へてゐる點が注目に値する。後者の劇評は人の知る通りであるが、前者は之れを其方へ向けたら鋭利な一箇の小説批評家となるべき作家ではないか。
漱石氏の『野分』に、玄關の屏風の繪を叙して、三條小鍛冶が勅の刀を「丁と打ち丁と打つ」といふ技巧を用ひ、ローマンスの響きを聞かせてゐる。之れは此の作者の慣用手段らしい。我等は此の響きの奧に作者が大なるローマンチック、センチメントを持つてゐるのではないかと想像する。隨つて之れに應ずるやうな作品を見せてもらひたいと思ふ。
夜雨といふ詩人、雨情といふ詩人、前者は一縷哀怨の情に於いて、後者は其の聲調の工風に於いて、共に我等の眼を惹くやうに覺える。(明治四十年三月)
----------------------------------------
← 扉 へ
← 目次 へ
← 思ひより|文頭 へ
→ 問題文藝と其材料 へ