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充實を欲する社會
今後しばらくの社會に流行してよいのは充實といふ言葉であらう。社會は漸くあらゆる方面に充實を要求して來た。感じの鋭敏な文藝界思想界が先づ是れを感じた。若しくは感ぜんとしてゐる。而して後諸般の社會現象、例へば政治にも道徳にも是れが及ばねば已むまいと思ふ。今の時代精神はあらゆ意味に於いて事物の充實を要求せんとしてゐる。
空虚を嫌ふ、形式を嫌ふ、型を惡む。所謂因襲打破の潮勢の滔々として漲つてゐることは既に人の觀る通りである。其のつぎは直ちに充實である。生きて血の通ふ中身が一杯になつてゐなければ不承知である。出來ることなら中身ばかりで行きたい。叩けばがらんだうな響きのするやうなものは我等の心と没交渉である。少なくとも今後の新しい人の心には無意義である。此の傾向は今日すでに注意深い觀察者の眼に映じてゐる筈である。言説、事業、すべて充實を要する。空洞を惡む。もつとも何の時代でも、充實は常に空虚よりも望ましいといふかも知れぬ。けれども事實或る時代に於いては空虚な外形をそれほど切に感じない、又感じても却つて是れを面白しとして興味を持ち、是れに執着する。今はすなはち此の興味、此の執着が著しく弱つて空虚を厭ふ心が鋭く自覺せられて來たのだ。
文藝の上に所謂自然主義が此の種の精神を代表して、技巧文章の味を卑み、成型、因襲の累を厭ひ、新、眞、直截、赤裸々を喜ぶの事實は述べるまでも無いが、此の氣風は固より單に文藝の上にのみ發したものでなく、一般思想界の自覺に基づく。さればこれが鬱勃するところ、發するとして同じ現象を呈出しなくては已まない。其の形勢はすでに歴々として指摘せられる。
例へば近來の新聞雜誌類にあらはれる論説などに接して、文章の上にこの充實と空虚との區別を感ずることが殊に切である。文藝に關したものであれば、流石に充實したものが多い。趣意の善惡は別として、皆それ/″\生きた感想、切實な感想が幾分かづゝ盛られてゐる。讀み通す氣にもなる。讀んで考へる氣にもなる。けれども社會上政治上のものになると通俗といへば通俗かも知れぬが、如何にもコンヴェンショナルなのが多い。我々の生きた胸に觸れない。離れた上っつらの方で文章や理論を弄してゐる。文體なり思想なりが皆型だ。型を使つて見せる、其の間々に自分の小さなウヰツト[#「ヰ」は小文字]や氣取りや小器用やを見せるくらゐが關の山である。といふ感が深い。切實なもの、矯飾しないもの、是れが充實した文章である。是れで無ければ讀む氣が起こらない。 交友の上でも、いゝ加減な空世辭を言つて跋を合せたり、一向上すべりの事ばかり言ひ合つて面白くない事を強いて笑つたりしてゐる事が厭になる。身の入つた話をしない以上、交友などは面倒くさいといふ感じが強くなる。虚禮虚儀のうるさゝが今さらのやうに氣になる。禮儀もよければ交友もよいが、凡て充實して生きたものであつて欲しい。一々胸にこたへるものであつて欲しい。
道徳の上でもさうだ。子供はかはいゝから愛する。凡ての博愛は心からかはいゝ時にのみ價値を有する。感激してうれしいと思へば人は其のために如何かる犠牲をも供する、死にもする。忠孝も感激の情が中身とならなければ空虚だ。中身を洞にして取扱ふ道徳に何の權威がある。充實して生きた道徳を要する。たゞ充實だ。
政治の世界で、政黨の論や元老の是非や、財政だ外交だと騒いでゐる中に、社會が最も興味を持って案摩するものは人物だ、新人物だ、新英雄漢が何等かの際會からひよつこり出現しはすまいか。興味の中心は未發見の個人格にある。一種の英雄崇拝的傾向である。是れが畢竟充實した生きたものを得んとする要求に外ならない。財政々策が何うの、外交政策が何うのと言ふのは、多くたゞ言つて見るに過ぎない。縱し感じてゐても其の感じの度は薄いものだ。今の個人的意識の盛んな世に、こんな問題を痛切に感じて考へてゐるものが果たして幾人あらうか。甲だ乙だと異は樹てゝ見るが、さて其の乙が甲になつたからと言つて、痛痒をどれ程感ずるか、多くは何うでもよい閑議論に了る。えらい人が發見されさうだ、變つた人が發見されさうだ、是れが一番政治見物の胸を躍らせる。生きた個的なものでなければ注意に値しないのである。同じ個人でも、履歴的にえらいのや、勲位功勞的にえらいのでは意味が無い。新しい、切實に力の充ちた個人でなくては駄目なのである。
家庭といふものゝ上にも同じ意義がある。一時中年の戀云々の論なぞが諸方にあつたやうだが、中年の戀といへば名に煩ひがある。之れを家庭といふ側から言へば、即ち充實した家庭を要求するといふ事になる。情の消えた空虚な形式のみで運轉する家庭は維持するに堪えない。或る者は之れを子供の愛で充實させやうとする、或る者は之れを所謂中年の戀で充實させやうとする。結局切に充實を欲する社會現象の一である。
業務の上にも同一現象を認める。政治にまれ學問にまれ、はた文學藝術にまれ、己れが執り來たつた業務に對して、熟すれば熟する程、始め遠方から眺めて嚴肅なものゝやうに思つた幻像が破れて、下らないもの、卑小なもの、兒戯に等しいもの、不眞實なものといふやうな下げすみ、少なくとも一種の疑惑が起こつて來る。是れはあらゆる業務がさうである。少しく自意識の強い鋭敏な頭の人なら、必ず多少此の自家が業務の意義に對する煩悶を感じないものはなからう。又之れを感ずるものが多くなつて行くと信ずる。つまり其の業務に熟通すればする程、型にも囚へられるし、不眞面目な箇所も目につくし〓[#踊り字「二の字点」]て、自分から其充實した意義を疑ふやうになるのだ。此所で或る者は人生の根本の意義をも疑はふ。また或る者は人生凡て兒戯といふ如き感も起こさう。或は方面を轉ずることによつて、或は思索の力で氣持を變へることによつて、皆此の場合に此の空虚を充實せしめんとする。充實した業務にして、始めて之れに没頭する氣になれる。此の空虚を自覺し充實を要求する意識の起こらない者は、或は幸福な部類の人かも知れない。
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