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禁閲覽の文學

 

 

 

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     動的美學

 

れは私の説ではありませぬ。獨逸のテオドール・ダーメン(Theodor Dahmen)と申す人が千九百三年に出した『美の理』(Die Theorie des Schoenen)といふ美學書の大要を紹介するに止まります。此の書には、標題の下に「動の原理(Bewegungsprinzip)より來たる美學」と、小見出しが置いてあります。茲に動的美學と名づけたのは、即ち是れから來たのです。

一言以て盡くせば、此の書は「動」といふことで「美」を説明し去らうとするものです。そも/\現下歐洲の新しい美學は、殆んど凡て心理的研究法を基礎としてゐます。英のマーシャル氏でも獨のリップス氏でもフォルケルト氏でも、グロース氏でも、デソア氏でも、皆さうでありませう。此の書も亦た同じ方向に行ッてゐるのは勿論です。心理的といふ中にも、著者の言つて居る如く、心と其の對境との關係のみを研究題目とした風《ふう》の心理學や、心の中だけの關係を研究の目的とした風の心理學やは通り越して、心と生理との關係に及んだ心理研究を基礎としてゐます。それで茲に此の書を取り出したのは「動の原理」といふことが面白い又意味のあることゝ思つたからであります。

申すまでも無く、動といふことを美の説明原理としたのは、強ち此の著者が始めとはいはれませぬ。近くはリップス氏なども一部の説明としては、既に此の意を用ひてゐます。たゞ之れを美の全體に渉るべき原理、美學の唯一根據と見て、爲めに一書を成したのはダーメン氏が始めでありませう。此の説が果してよう凡ての人を首肯せしめ得やうか否か、それはおのづから別問題です。

さて動的美學の概要は斯うであります。

古來美學上の經驗的原理は隨分と數へ擧げられてゐるが、フェヒナーも既に言へる如く、何れも甚だ不滿足である、尚ほ何故にと問ひ足らず、最後の説明に達して居らぬ。または何れも狭隘偏倚で、全局を蔽ふには足らぬ。調和といふことを原理とする説でも、變化の統一といふことを原理とする説でも、はた眞を描き實を寫すを以て原理とする説でも、凡て更に其の上に何故にと問ふの餘白を有してゐる。若しくは應用の出來ぬ場合が多い。而して是れに答へ是れを補うて美の全面の原理となり得るものは、動といふことである。動の原理に合するが故に調和も美となり、動の原理に歸趨するが故に變化の統一も美となる。

さらば動とは何であるか。

曰はく明かに定着の反對、靜止の反對である。變化、運轉、消長といふが如き状態に一貫する現象である。日常世人のいはゆる動である。別に特殊の意義があるのでは無い。

而して斯かる意義にての動が、やがて美の一般的原理となるの事實は下の如くである。

研究は先づ美快感といふことから始まるが、心理的經驗の證する所に由ると、此の快感の成立には、四つの要點がある。第一、外界の客體、第二、我等が感覺機官の興奮、第三、傅達機官の興奮、第四、中樞機官の興奮。而して此のうち第一、第二、第三は場合によツては缺くことを得るも、第四は必須の要件である、此の一つだにあれば、其れでも美快感は成立する。

併しながら單に中樞機官の興奮といへば、必ずしも美快感には限らぬ、他の多くの場合にも此の現象は生じやう。されば、美快感に要する中樞機官の興奮には、何か特殊の條件が附かなくてはなるまい。

茲に至つて中樞機官の興奮といふことは、官能組織(Organismus)の動といふ義に變ぜられねばならぬ。官能組織に動を起こす種類の中樞的興奮にして、始めて美快感となるを得やう。

而して斯かる種類の興奮を起こすべき條件を、明かに研究せんとすれば、之れを其の客體に求むるに如くは無い。然るに之れを客體に求め得た結果は、矢張り動といふことである。客體の上に動あるときは、之れが中樞機官に起こす興奮は、官能組織に動を生ずる。但し實際客體の上に動は無くとも、我れの中樞機官で之れを補足し展開して、動的客體とするを得る場合もある。兎に角如何なる順序に於いてか、動によツて刺戟せられた興奮でなければ、美快感の理由とはならぬ。

例へば山を見るとしても、其の山を單に居据ツた、靜止し定着したものとして見てゐる限りは、美快感は起こらぬ。若し之れに動の意義を着けて、或は其の山の原始を想ひ、現在を想ひ而して未來を想ふとか、或は其の山に雲の行藏を結び附け鳥の往還を連ね合はすとか、或は其の山に花葉の盛衰を配し淵瀬の變化を點ずるとかするに及んで、始めて美快感を喚び起こす。山水自然の景色を打ち眺むるに於いても、若し其の景色が凡て靜止したものゝみである場合に、中に一點、何か動くものを見出だすときは、其の點が新鮮なる活氣の中心となつて、全幅が振ひ立つて來る。

斯く動といふことが我等に顯著なる効果を生ずるには、深い理由があらう。人間の本然は決して動といふものを單なる遊戯冗談として看過する能はざるものである。對境に動が起こる。我等の性は、直ちに全力を之れが看視に向ける。自家の存立を保護せんためには、意識的にも無意識的にも我等は絶えず對境に注意して居らねばならぬ。就中動といふ事は油斷のならぬものである。是れ其の我が官能組織に振動を傳へることの甚大な所以であらう。

動は斯くの如く重大なものであるが、併し單に動といふのみでは、是れまた廣きに過ぎて如何なる動でも必ず美快感を起こすとは限らぬ場合が生ずる。美快感の本となるべき動は如何なる約束を要するか。

近時の美學者ではゼムパー(Gottfried Semper)リップス(Theodor Lipps)の兩家また此の點を論じて、而も同じやうな答を與へてゐる。ゼムパー以爲へらく、凡て其の物の動的意義が目的を提示してゐる場合には、是れより生ずる動は快いものである。茲に甕があるとせんに、其の形及び裝飾が其の目的を示してゐるときは、甚だ快く感ずる、要するに甕の有する動と、連想から生ずる動と、相應ずる場合が其れである、と。

リップスの思想も之れと似てゐる。例へばドーリッシュ式の圓柱などについて言ふも、其の形は常に其の用途目的に應ずるものでなくてはならぬ。圓柱が有する動は、其の圓柱の意義を示すものでなくてはならぬ、と言ツてゐる。但しリップスは更に一歩を進めて、斯かる動は、また自然の約束と矛盾してはならぬと説く。自然の約束は之れに合する時は動を助ける譯であるが、之れに背行すると、阻礎の結果を生ずるからである。

以上の見方は、全く誤とは言へぬが、不完全と思ふ。美快感に要する動の約束は、之れが我等人間の要求する動の方式に合する所に成り立つ。我等人間が要求する動の方式とは、是れが或る過程によツて完結したものとなる〓[#「こと」合略仮名]である。今試みに此の完結の過程を擧げると、第一、凡ての動は開始過程(Anfangsstadium)を有してゐなくてはならぬ。即ち是れによつて我等の心力(Willensimpulses)を喚起し統一するものである。第二は件の心力が動き行く活動本部(Kraftstelle)である。第三は終結過程(Endstadium)で、是れによツて前來の動が完結せられる。

勿論自然の對境も皆凡て其の約束を有して居らぬとは言へぬが、其の動は大にして複雜、到底人間の意識内に之れを包藏し盡す〓[#「こと」合略仮名]は出來ない。此に於いてか之れを假りに我等みづからの動の約束に引きあてゝ、我等みづからの型に入れる。例へば茲に一の大河の流れを見るとしやうか。其の遙々たる源から、流れ來て我等の眼前に來たり、而して更に流れ下ツて何處にか注ぐであらう。斯やうに見ると其の動は如上の三過程を有する者となツて完結する。其所に味を生じて來る。併し實際大河そのものゝ動は中々こんな單純なものではない、眞の始終は知るを得ざるものである。之れを完結と見るのは、我等みづからの動の方式に入れたからである。

されば是等の約束からして、更に我等が取り出し得る審美上の要件は、曰はく、美術は其の形式上の動素が凡て一に統合せられざるべからず。曰はく、是等形式上の要素はさらに其の内容の眞實自然(Wirklichkeitwerten)なる〓[#「こと」合略仮名]と矛盾すべからず。曰はく眞實自然の要素はまた相互にも矛盾することあるべからず、と。

以上がダーメン氏の書の一斑です。近時の心理的經驗的美學の多くが有する傾向と同じく此等の説も歸する所は一種の新形式觀に入るものとも見られませうが、批評は茲には省きます。(明治三十九年二月)


 

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