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禁閲覽の文學
頃者新聞紙の報ずるところによれば、我が帝國圖書館は小杉天外氏の小説『魔風戀風』の閲覽を禁じたといふ。吾人は是れを以て當を失した處置と信ずる。身みづから圖書を護つて、最も斯の道に理解あり同情あるべき當事者が、輕々しく斯くの如き處置に出たことを遺憾に思ふ。是れ啻に著者に對する侮辱たるのみならず、文藝に對する迫害、思想の自由に對する抑壓たるは言ふまでもない。曩に生田葵山氏の小説が發賣禁止の厄に遭ふや、吾人は其の小説を讀まず、且國家が自己の存立に直接の害を及ぼすと認めて之れを禁ずるといふ以上は、是れ既に思想上、道徳上の問題でなくして國法上の問題であると信じて口をつぐんでゐた。國法上の抑壓に對しては、最後の爭ひは事實の有無より外は無い。黒白のいづれかを定めざる限り、疑似を許さず、自然の成敗を許さないのが其の性であらう。然るに今の場合は未だ國法が其の自衞權を行ふといふ如き黒白の事實問題となつたのでは無い、豫防的干渉の性を帶びた事件である。夫の學校長等が學生の讀料に禁制を加へるのと同じく、婆心から生じた教育的態度に外ならぬ。すなはち是れ道徳上、思想上の問題である。
第一『魔風戀風』は果たして青年讀者の人格を毒するものであらうか。誨淫といふことが此の書の批難の理由と聞いた。併し若し單に戀愛を描くといふ事、乃至其の戀愛の描寫が讀者をして實の戀愛の快樂を想望するに至らしめるといふ事を以て直ちに誨淫と名づけるのであるなら、それは由々しい癖見であらう。吾人は當事者が戀愛そのものを罪惡視して、之れを除却した人格を最上の人格とするほどの陋見を抱いてゐるものとは信じない。まして戀愛が文藝の中心感情である場合には、其の戀愛にして道徳との矛盾を殘すこと無く、最後の是認によつて直に圓融渾一の快感となる限りは、之れを其の作品の生命とする上に何の不都合も無いではないか。斯くの如きは既に精神的、道徳的破綻を顧みずして色欲にのみ狂奔せんとする誨淫の思想とは全然別個のものである。之れに反して其の戀愛が不義不正であるため道徳の最後の是認を得ずして終りまで矛盾不道徳といふ不快感を伴ひ、隨つて、圓融渾一の態を成し得ぬ場合があるとすれば、それは道徳問題よりも先づ審美問題の俎に上つて、文藝としての存立權を剥がれる者となるであらう。是れらは初めから文藝としての生命を有せぬものである。隨つて吾人が之れに對する擁護の理由も無くなる。若し夫れ人世に於ける戀愛の事情は萬種であるから小説中の戀愛が必ず凡て初めから道徳と矛盾せぬ者であるとは限られぬ。事實は却つて此の矛盾をこそ喜んで文藝の材とする。けれ共此の場合には必ず之れが是認の契機を一段の高處に作つて置かねばならぬ。即ち其一見矛盾と思はれたものが、一段深奧の所からすれば釋然として相會する、乃至其の矛盾に存せずして之れを道程とした到達點に發する。斯くの如き審美的要件をさへ具へてゐれば其の作品は決して人格を傷ける恐は無い筈だ。萬一當事者にして斯くの如きも尚且道徳風教に害があると斷言するの勇あれば、是れは文藝そのものの大膽なる否認者である。吾人はさうは思はぬ。
上來の論を以てすれば、圖書館當事者は『魔風戀風』を以て道徳と矛盾する戀愛を描いてしかも之れに最高是認の契機を配し得なかつた爲め非文藝の域に墮した作と認めるか。然らずんば如何なる文藝の化力あるに拘らず、道徳と矛盾する材料は凡て之れを斥けるといふか。そも/\人格教育の中から戀愛そのものを排せんとするのであるか。吾人は此の三點の何れに對しても、當事者が容易に然りとは答へ得ざるべきを信ずる。不幸にして其の何れかを然りと肯定するものとするも、そこには多大の議論あることを覺悟しなくてはならぬ。多大の議論あるべき事項を輕々しく斷じ去つて、天下の讀書生の上野に集まるものを己れに屈從せしめんとするのは、當事者のために取らぬ所である。吾人は當事者の意のある所を知りたいと思ふ。
最後に一考すべき點は、作物其のものゝ價値如何に拘らず、之れを讀むものゝ程度によつて其の材料たり部分たるに過ぎぬものにのみ感情を支配せられ、作の全局に存する是認の契機を感悟し得ぬ弊はないかといふ事である。即ち此の理由に據つて文藝に迫らんとするものは、讀者の幼稚なるため藥を毒に誤用する恐れがあるから之れを禁ずるといふに外ならぬ。吾人は教育者としての此の種の見に一分の道理を認める。たゞそこに超ゆべからざる限界あることを忘れてはならぬ。蓋し此の如き場合に於いて最も都合のよい區劃は夫の義務教育年限である。凡そ兒童の十四五才までは、國家なり家長なりが、後へに強壓的權力を控へて之を指導するの理由がある。併し禁壓制御すべて思想精神の自由を抑へても長上の意見に從はしめる必要は此の範圍に限らるべきであらう。事實に於いても其の以上は殆んど無効である。青年以上の男女に對しては忠告訓戒は固より可、禁壓強制は徒らに其の精神の自由を拘束し反對の意識を強めるに止まつて何の効をも致すまい。私人の相たいづくならば知らぬこと、國家機關の一部を代表する帝國圖書館當事者が、文藝上の問題たる『魔風戀風』に禁壓を加へて公衆の精神の自由を局限せんとするのは其の動機の諒とすべきに拘らず、やり過ぎであると信ずる。若し之れを危險と考へたらば、忠告すべし、乃至論議すべし、禁ずとは言ふべからざる事であらう。單に巧拙の上から言ふも、斯かる處置は常に期する所と反對の結果を生ずる拙策である。是等は宜しく自然の成敗に任すべし、夫の焦燥者流の考へる如き弊は必ずしも此の種の文學から生ずるものではない。吾人は當事者の今後一層寛宏の心を以て文學に對せんことを望むや切。(明治四十年七月)
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