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情緒主觀の文學
小説は詮ずるところ客觀の文學である。中にも近時の我が小説は客觀的と言つてよい。所謂自然派の傾向は即ち之であつて知識の上、殊に日常智の上に尠なからぬ依頼を有してゐる。勿論其の底には超越智に訴へる分子もあれば、また作者の情調に多分に浸潤させられた分子も無いではないが、之れを概するに、日常智を依頼とした見聞の世界をさながらに描寫せんとするのが其の面目である。取材の範圍に於いても、描寫の方法に於いても、作者の心がけに於いても、乃至讀者の之れを期待する態度に於いても、客觀的主智的といふことは爭はれぬ事實であらう。たゞ前期の作風の多く單なる外形或は單なる觀念を離れざりしに比べて、一層生命的或は一層具象的ならんとする所に近時の進境をば認め得る。しかも前後を通じて廣義の寫實的作風たることは一である。直ちに〓[#「口」+「永」]嘆せんとせずして先づ靜に之れを描寫せんとする。此の描寫的、寫實的、主智的態度を吾人は概稱して客觀的といふ。斯の如き意味に於いて今の小説は到底客觀的文學の部に屬すべきものである。
一時夫の前期の寫實が漸く死寫實に堕して、之れに代はるべき何等かの新らしいものを生ぜんとする〓[#「サンズイ」+「景」+「頁」]氣の動くに當たり、進んで此の氣に感觸したものは一種の傳奇的文學を想望するに至つた。或は小説の上に、或は劇の上に、或は詩の上に、新しいロマンチックの作品を出ださうと試みたものも少なからぬやうである。然るに此の試みは未だ成功するに及ばずして、早く小説壇に一種の自然派的傾向が歡迎せらるゝの徴を示した。少なくとも小説の上では、寫實派が自然派に之いたといふだけの變遷はあつても、客觀的作風、たとへば情緒的、空想的、超越的、傳奇的などいふ形容詞の凡てに通ずる一面の傾向は地歩を占めるに及ばなかつた。鏡花氏、漱石氏、未明氏等が作の幾部に見はれた此の種の風味は、遂に一代の風潮となり得ずして了らんとするの趣がある。
たゞ劇と詩とに於ては情緒主觀の文學が尚多分に其の餘地を存してゐるかと思はれる。精しく言へば、劇はまたおのづから自然派に之くべき半面と傳奇派に之くべき半面とを有して、自然劇は純粹の劇を代表し、傳奇劇は音樂舞踏と抱合したる歌劇樂劇等に近よるであらう。詩壇に至つては、是れまた自然派とも名づくべき一種の傾向が、他の金粉的詩風に對して見はれたに拘らず、此等は其の自然的なる所、やがて客觀的冷靜的に過ぐるの弊となつて、未だ我等の讀詩慾を充たし得ぬ氣味である。そも/\詩を散文と違つたものとして見るとき、茲に讀者の要求し期待する所は、最も多く其の主觀的情緒的なる調子に存する。此の意味では矢張り詩の中心を抒情詩に置かんとするのが吾人の見地である。要するに詩は最も直接に情調を寫すところを生命とする。詩と散文との區別はひとへに其の所含の情の濃淡に根ざすと信ずる。詩は本來主觀的情緒的のものである。
詩が技巧に隱れんとするとき、之れを呼び生かさんために自然といふことを提出するのは、凡ての文藝に避けがたい傾向であるとしても、此の場合に凡ての自然派と同じく、或は題を凡景、醜物、に取り或は田園鄙賤の生活を歌ふが如きは、所詮〓[#「口」+「永」]嘆の暗示を茲に求むるに過ぎずして、之れを客觀的に描寫するのが終極では無いと信ずる。詩は描寫的でなくして〓[#「口」+「永」]嘆的である、繪畫的でなくして音樂的である。夫の自然派詩人の最好例たる英のワーヅワースが如きに於いてすら、其の作に漲る主觀的抒情的感觸は否むべくもあらぬ。まして其の詩篇の最高調を示す一代の秀句 The sounding cataract haunted me like a passion といひ Our birth is But a sleep and a forgetting といふが如きに至つては、直ちに是れ有字の音樂である。
されば吾人は上來の論の歸結として、今の詩壇に尚ほ多くの情緒主觀の聲を聞かんことを願ふ。我等が小説壇に求め得ざるものを詩壇に見出ださしめよ。主觀の文學、情緒の文學も必ず趣味の一面として要求を絶つ筈は無い。而して人心の一隅に存する此の要求を充たすの任は、即ち詩に歸するのではないか。
思ふに近年の我が新體詩に病があるとすれば、それは客觀を描かざるがために病あるに非ずして、主觀の情の熱烈ならず、痛切ならず、眞實ならざるがための病であつたらう。若しくは熱烈、痛切、眞實の情はあつても、それを揮灑し來たらんとするに當たつて、全く直截自然なる能はず、修飾技巧のために隔てられ了するの致すところであつたらう。此等の病を矯めんがためには、自然に還れといふ、固より可、たゞ其の自然は客觀の事象に自然なれといふの意でなくして、主觀の情に自然なれといふの意であつて欲しい。本體は情緒である、主觀である。今の文壇に空想的、傳奇的、神秘的、たゞ意のまゝに客觀の現實を離れて情緒主觀の聲を揚げ得るものは詩の外に無いではないか。(明治四十年七月)
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