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主觀の謙遜、現實修飾の悲哀
最近の評壇で吾人の注意に値する句の一二を言へば、田山花袋氏の「主觀の嚴肅」と、長谷川天溪氏の「現實曝露の悲哀」である。吾人は是れに更に一則づゝを附加して見やう。
「主觀の嚴肅」といふことが近時の文藝の一特色でありまたあらざるべからざることは、異論の無い所である。而して之れと同時に吾人は、主觀の謙遜とでもいふべきものを近代的傾向の一特徴と認める。自己の解放といふことは、近世の一大運動であるが、それと茲にいふ主觀の謙遜とは、必ずしも矛盾した意義を有しない。吾人は今の新文藝に接する毎に、之れを産出した主觀の影を、さま/″\の形で想ひ浮べる。此等の作品が多く主觀を攝取した客觀の藝術であることは爭ふを要せぬ。たゞ其の主觀すなはち自己は極めて謙遜なものであることを思はしめる。強梁にして何物をも自己に降服せしめんとする底の主觀は、到底以て近代文藝の眞滋味を釀し得るものでない。
由來此の種の文藝はまた敗者の文藝、弱者の文藝である。打撃、敗北の手疵を胸に負うて涙の味を十分に噛み占めたものが、始めて、感ずる情味、甘い、温かい、しかしながら悲しい一脈のものが、油然として心の奧から湧いて來る。我慢の角をこゝに折つて、心は言ひ知らぬ優しい謙遜な態度になる。所謂ヒューマニチーの眞の意義が此の瞬間に光輝を放つ。此の氣分の中で花を見れば、花にも命があり、水を見れば水にも情が移る。如何にして此の際に我れの私念をはびこらす勇氣が出るやう。そこに現じ來たる客觀の事相を觀收する。斯くの如き主觀の情調内に展開する自然にして、始めて新生命を帶着したものとなるのであらう。
現實曝露の悲哀を説くものゝ現實は、言ふまでもなく矛盾、缺陷、無解決である。所謂現實の全相が果たして是れにあるか否かは別として、茲にはしばらく現實といふ語を同意義に用ふる。されば現實の本相に自觀し到つた時、人は愕然として驚いて、其の運命の險しいのに泣く。而して或ものは直に此の運命險惡現世不安の感想を文字に〓[#「テヘン」+「慮」]べる。近時の文學が即ち多くそれである。又或者は一歩を退いて、此の險惡不安な現實の上に蓋をわたし、そつと其の上に腰かけて、暫くの安立を得やうとする。脚底に不安の淵を藏しながら、強いて其の上に笑謔の聲におのづからなる寂寥の調を發して、安心も喜悦も畢竟は淋しい安心淋しい喜悦となる。若し自覺の途にあるものが斯くの如くして普通道徳に一時の息ひを求めんとすれば、茲に現實修飾の悲哀を感ずるに至る。すなはち現實にして矛盾と缺陷との一塊である限りは、進んで之れを曝露するも悲哀、また退いて之れを修飾するも悲哀たるを免れない。(明治四十一年三月)
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