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情を盡くしたる批評
吾人は甞て本紙に知識ある批評と題して、批評が當然理智を半面の根據とすべき所以を論じた。併しながら飜つて思ふに、當今多數の批評、殊に其短小な批評に對しては、是れよりも先きに希望すべきものがある。知識ある批評といふが如きは、或は一般に望みがたい事かも知れぬ。之れと趣を異にして、如何なる批評にも要求し得られるもので、しかも極めて重要なもの、又多く現今の作物批評に缺け易いものは、情をつくすといふ事である。即ち吾人は茲に更に情を盡くした批評といふ事を提議する。 批評の本來は鑑賞と説理である。同時に鑑賞の無い説理は死骸のやうなもの、衣裳を幾ばく其の上に襲ねても、魂は宿つて來ない。けれども説理の無い鑑賞は、之れを發表する方法によつて、一體の批評となる。それ即ち情を盡くした批評である。
鑑賞はもとより情中心の仕事に外ならない。吾人が一作品に對して受け且つ發する所の印象は、情を以つて調節せられる。されば若し其の批評にして單に斯かる印象の記述のみを以て終らしめんとすれば茲に所謂印象的批評を生ずる。印象とは言ひながら、其の中に判斷の含まれてゐることは言ふを待たぬ。たゞ判斷があつて、判斷以後の説理が無い。其の代りに個中の情味の一斑が記述せられてゐる。時々の新聞雑誌に見える作品の批評等には、願はくばせめて此の方面に委曲を盡して貰ひたい。之れを平たく言へば讀過の際實際に感じた事を其のまゝ無秩序でよいから書いてほしい。當座の讀み物としては此の方が却つて面白くも書ける。結局説理批評の裏面の事實を書くのである。斯の種の批評はやがてまた評家をして私念に遠ざからしめる縁ともならう。苟くも其の批評が鑑賞者の氣持の正直な、隱すところ變ずる所無き表白である限りは、如何なる人の批評でも讀んで面白く聽いて參考になる。
想ふに今の作品批評に對する批難の源は、此等の批評が常に判斷のみを擧げて根據を示さないからである。説理的批評によつて事實と理論との根據を提起するものがあれば最も妙、さも無ければ其の飾らざる事實だけでも提出する風を興したら、おのづから此の批難に答へることが出來やう。眞實に情を盡した批評なら、他人が何と言つても、それが一個不可犯の事實である。儼立してあらゆる反對に面するの威嚴が茲に生ずる。其の以上の爭ひはおのづから説理的批評に入つて、理論の勝敗に歸するであらう。批評上の爭ひは當に斯う無くてはならぬ。詮ずる所たゞ作品に對して感じた心持を其のまゝ書くことが肝要である。今の作評の多くは餘りに鑑賞のみに縮まり過ぎる。(明治四十一年三月)
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情を盡くしたる批評
吾人は甞て本紙に知識ある批評と題して、批評が當然理智を半面の根據とすべき
所以を論じた。併しながら飜つて思ふに、當今多數の批評、殊に其短小な批評に
對しては、是れよりも先きに希望すべきものがある。知識ある批評といふが如き
は、或は一般に望みがたい事かも知れぬ。之れと趣を異にして、如何なる批評に
も要求し得られるもので、しかも極めて重要なもの、又多く現今の作物批評に缺
け易いものは、情をつくすといふ事である。即ち吾人は茲に更に情を盡くした批
評といふ事を提議する。 批評の本來は鑑賞と説理である。同時に鑑賞の無い説
理は死骸のやうなもの、衣裳を幾ばく其の上に襲ねても、魂は宿つて來ない。け
れども説理の無い鑑賞は、之れを發表する方法によつて、一體の批評となる。そ
れ即ち情を盡くした批評である。
鑑賞はもとより情中心の仕事に外ならない。吾人が一作品に對して受け且つ發す
る所の印象は、情を以つて調節せられる。されば若し其の批評にして單に斯かる
印象の記述のみを以て終らしめんとすれば茲に所謂印象的批評を生ずる。印象と
は言ひながら、其の中に判斷の含まれてゐることは言ふを待たぬ。たゞ判斷があ
つて、判斷以後の説理が無い。其の代りに個中の情味の一斑が記述せられてゐる。
時々の新聞雑誌に見える作品の批評等には、願はくばせめて此の方面に委曲を盡
して貰ひたい。之れを平たく言へば讀過の際實際に感じた事を其のまゝ無秩序で
よいから書いてほしい。當座の讀み物としては此の方が却つて面白くも書ける。
結局説理批評の裏面の事實を書くのである。斯の種の批評はやがてまた評家をし
て私念に遠ざからしめる縁ともならう。苟くも其の批評が鑑賞者の氣持の正直な、
隱すところ變ずる所無き表白である限りは、如何なる人の批評でも讀んで面白く
聽いて參考になる。
想ふに今の作品批評に對する批難の源は、此等の批評が常に判斷のみを擧げて根
據を示さないからである。説理的批評によつて事實と理論との根據を提起するも
のがあれば最も妙、さも無ければ其の飾らざる事實だけでも提出する風を興した
ら、おのづから此の批難に答へることが出來やう。眞實に情を盡した批評なら、
他人が何と言つても、それが一個不可犯の事實である。儼立してあらゆる反對に
面するの威嚴が茲に生ずる。其の以上の爭ひはおのづから説理的批評に入つて、
理論の勝敗に歸するであらう。批評上の爭ひは當に斯う無くてはならぬ。詮ずる
所たゞ作品に對して感じた心持を其のまゝ書くことが肝要である。今の作評の多
くは餘りに鑑賞のみに縮まり過ぎる。(明治四十一年三月)