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時 評
今の文壇と新自然主義
之れを文藝上の事實すなはち作品についていふも、また之れを理論上から研究した結論に徴するも、技巧の美と内容の美と美學上の二元が動〓[#踊り字「二の字点」もすれば相背いて分立し行く形跡を示すといふことは、近代に至つて益々著しく認められて來た。從つて技巧に最後の美ありとするの技巧主義と、感想に最後の美ありとするの内容主義とは、容易に統一せられぬ二流の潮勢として、互いに相消長せんとしてゐる。此の二樣の事實を何等かの新しい説明で統一せんと試みるのが、輓近泰西學者等の重要な試みの一つであるが、而かも文藝上の二元も宇宙觀上の二元と等しくたやすくは一元に還らない。
而して此の同じ潮は我が文壇にも打ち寄せて來て、近時殊に勢いの急なのを認める。詩壇はなほ流石にワーヅワース程な技巧無用論者も出て來ぬやうであるが、散文壇殊に小説壇は漸く大膽なる技巧無用論によつて大半を領せられんとしてゐる。近來の小説壇に於いて最も著しい傾向は何かと問はゞ、其の一答は疑ひも無く是れであらう。
技巧無用論は、言ふまでもなく一の自然主義である。自然を忠實に寫さんがため、技巧を人爲不自然として斥ける。此の點からいへば自然主義の對照は技巧主義である。併し吾人は更に他に一つの對照を有する、それは情緒主義である。而して此の自然主義對技巧主義及び自然主義對情緒主義、といふの關係を辿り行くときは、茲に新自然主義とも名づくべき一の結論に達すると思ふ。
自然を忠實に描くといふ。しばらく其のいはゆる自然を單なる客觀の事象と解すれば、凡そ如何なる文學といふとも、如何なる方式に於いてか事象を具せぬものはない。之れを忠實に描くといひ不忠實に描くといふは、唯我が製作時の態度の相違である。今吾人は便宜のため作中の事象を中央として製作道程に兩段の目標を立てやう。一は事象前の態度である、二は事象後の態度である。一はまた事象結撰の態度といふべく二は事象表白の態度ともいひ得やう。前者は我が想像と事象との關係で後者は我が言表法と事象との關係である。彼れは脚色論で此れは文章論である。
作家が自己の經驗記憶想像をはたらかせて一の事象を拈出し來たらんとするとき、常に照應順序首尾といふが如き形式の整理を最後の訴へ所とするの態度を取れば、最高判斷の權威は此の形式の美から發するが故に、茲に脚色上の技巧主義を生ずる。また如何にかして結撰せられたる事象を文辞に表白するにあたり、語句の音調排列聯想等に不諧和のものあるを避けんとするの意識が強ければ、最高判斷の權威は此の意識から發することゝなり、茲に文章上の技巧主義を生ずる。また如何にかして結撰せられたる事象を文辞に表白するにあたり、語句の音調排列聯想等に不諧和のものあるを避けんとするの意識が強ければ、最高判斷の權威は此の意識から發することゝなり、茲に文章上の技巧主義を生ずる。而して是等はみなそれみづからにして一流を成すの藝術である。斯くの如くならぬものに比して孰れが高級であるかといふが如きは、吾人のこゝで論定せんとする問題では無い。
併しながら技巧主義はまた一面に於いて情緒主義と聯なる。單に脚色の技巧、文章の技巧を技巧そのものに行き止まらすれば、純粹なる技巧主義となるが、一歩を踏み入れて、之れを強い情緒の發相と見れば、情緒主義と化するであらう。盖し事象を結撰するに先だち、落想の一面として存する感情が濃厚の性を帶びて、情緒揺曳おのづから作者の胸底に香を放ち調を成すやうに思はれる場合には、此の強い情緒の必然の要求として、事象の上に變形を來つぁさゞるを得ぬ。現實にあるまいと見える事象が此の要求の爲に是認せられて成立する。情緒のために事象が犠牲となる。見樣によつては是れも一種の技巧作爲であるが、價値の最高判斷を技巧に仰がずして情緒に仰ぐの故を以て脚色上の情緒主義となる。また文章上の情緒主義も同斷である。音調布置の爲めのみに綺葩を剪栽するといふのでなく、情味の濃厚に應ぜんため、專ら助けを傳來の情に富める語句に借らんとする。また動々もすれば誇大の語句を多く用ふる。皆事象を損じても豫定の情緒力を保たんとするからである。即ち文章上の情緒主義であらう。而して斯くの如き情緒主義も亦た一流の藝術である。是非はこゝで論ずる限りでない。
扨この技巧主義情緒主義に對して、自然主義を立てるときは、前者が事象前後の技巧、乃至情緒を照準とするに反して、後者は專ら事象其の者を照準とする。而して事象そのものを照準とするといふ中からは、更に三段の概念が展開せられる。第一は事象を出來るだけ現實の經驗に近づけて現實に在り得ることゝいふ性質を強めんとする。寫實的自然主義ともなづくべきであらう。第二は事象中の理趣を顯揚して、主張、哲理を之れに見んとする。哲理的自然主義とも名づけやう。第三はすなはち事象に物我の合體を見る、自然は茲に至つて其の全圓を事象の中に展開するのである。其の事象は冷かなる現實客觀の事象に非ずして、靈の眼、開け、生命の機、覺めたる刹那の事象である。動き來たつた瞬間の自然である。吾人は假に之れを名づけて純粹なる自然主義と呼ばう。要するに寫實的なるものは、事象の結撰及び之れが表白に於いて常に現實らしくといふ一念を離れず、哲理的なるものは同じく常に箇中に理趣を深からしめんといふ一念を離れず、純自然的なるものは同じく微妙なる靈機合期の瞬間を捉らへんといふ一念を離れず、而かも此等みな客觀の事象に執して、事象の現實的なるを傷はざらんとする寫實的態度に於いては同一である、之れをすべて自然主義と呼ぶのは此の理に外ならぬ。
さて吾人が茲に特記せんとするのは此の第三種、純自然主義の説である。此の派にあつては、事象を結撰するの前、必ずしも現實らしくと意識せず、また必ずしも理趣深くと意識せず、此等の意識をばむしろ一種の邪念として斥ける、必竟私意の作爲が之れから生ぜんことを恐れるのである。然らば作家は何を心の標的として此の際に於ける自己の態度を定めんとするか。其の直接の答は消極的である。曰はくたゞ無思念と。私念を去るなり、我意を消すなり、能ふべくんば我れの發動的態度の一切を抑へて、全く湛然の水の如くならんと工風する。禪家が三昧の境はどうであるか知らぬが、自然主義の三昧境は、この我意私心を削つた、弱い、優しい、謙遜な感じの奧に存するのではないか。此の時自然の事象は始めて鏡中の影の如く、朗かに其の全景を暴露して、我れと相感應するのではないか。我れは此の時始めて自然の眞實の前に感應の涙をにじますのであらう。自然に對して何とも知れず涙のこぼれるといふ感は、我れの全く空しくなつた後に始めて發するものであらう。斯やうにして我が心境裡の事象は、我慢我執の情を一掃し盡した後の、新しい清い、情で更に温められる。茲に其の事象は生きて來る、動いて來る。無念夢想後の我れの情、我れの生命は、事象と相合體して、生きた自然開眼した自然の圖を作つて來る。物我融會して自然の全圓を現じ來たるとは此の謂ひである。之れを要するに一切の我意を拆いて冲虚なる心に生ずる事象の中から、おのづからなる別種清新の情味を吸い出さんとするが如き態度が此の派の極致であらう。單なる外界の事象に非ずして、生きた事象生きた自然を結撰する、其の方法として先づ私心我念を消せんとする。要は自然の新生命を誘ひ出さんとするにある。されば延いて之れを表白する上にも、たゞ腦底に作つた自然を寫し事象を寫すといふと異なり、其の事象其の自然は、別種の生命あるもの、開眼せられたもの、從つて此の貴い生命を逸せざらんがためには、一指頭だも我意私心の作爲を以ては之れに觸れざらんと工風する。
詮ずるに純自然的なる此の派にあつては、我れまづ生命となつて新自然を作らんが爲に我れが見えざる生命となり、感情となつて合體したのである。自然といふに此の新しい意義があつて、始めて自然を絶對の宗師と仰ぐの理由が生ずる。是れが文藝上の特權であつてまた自然主義の本意では無からうか。而して今の文壇はこの種の自然主義に關して殊に心を潜むべき時となつたのではあるまいか。(明治四十年六月)
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