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囚はれたる文藝
去年八月三日の夜は、我れ伊太利ナポリの港に舟がゝりして、感慨の事ども多かりし。中にも分けて老いたる文明のいぢらしさ。文藝の伊太利は死なざれど、さりながら、今の世に亡躯を曝らす哀れさよ。更にアドリアチコの海一つ越えては、同じ命渾の岸に、苦しき息吹の身を横たふる希臘。世は二十世紀の叫びけたゝましき頃を、御身も尚ほ求むる所ありてや、見る眼も傷ましき覺悟かな。
兎かう思ふ頃日は、ヴェシゥヰ゛アス山の背後に沈んで、跡に曳く五彩の輝かしさ。「死に行くものは皆斯くの如く」と天の示しに會ふ心地して、やがて浪の染め色、人の面の染め色、みな消ゆると見れば、そこにヴェシゥヰ゛アスの活きたる火こそ我が胸を焦したれ。
ポムペイの町々に花と咲いたる藝術を、一夜の怒りに、永劫の夢と埋め了んぬる千八百餘年の昔語りは、今も尚ほ此の山の烟と共に長くして、其の同じ烟の、晝は黒く世を愁ひの息にも包まん氣色すれど、夜の眺めはまた更に凄じ。見られよ。渦卷き上る烟の根、今は次第に焔となつて、明くまた暗く、おのづから呼吸を宇宙の胸の動悸に合はすならずや。其の底に萬年消えず燃ゆる思ひの潜めばこそ、夜ごと天に向つて噴く熱氣には、石も熔けやう、空も焦げやうなれ。あはれ囚はれたる此の火、太古以前は世を擧げて皆御身の領なりしならんを、冷めたるものつれなく、殻となり層となつて御身の周圍を鎖し了せり。百年千年に一たびは、忍耐の紐きれて、山を裂き都を埋むる自暴の振舞も、思へば恕すべき謂はれはあり。我等もまた命を造化に亨け、熱を御身と分かちて、此の熱、此の命を保たんが爲めに、仁義の縛め、博愛の繩、幾その羈絆に身をもだへしことか。あゝ、されども此の羈絆は遂に斷つべからず、一たび之を斷つときは、軌道よりすべりし星の如く、一切の人見る/\溶け去つて、無相の海に入滅す。なまなか我れに智識あり、此の理を知るが故に、みづから、流るゝ星の如く美しく消えんとも得せず。さりとて胸に一念の火は盡きざるをいかにせん。
はかなき罅隙を窃みては燃え上る夫の火柱よ、道義の繩に縛られて、世を引かれ者と過ごさすが造化の趣意ならば、何故人間に感情といふ凶器をば與へたる。昔全能の神は、アダムを造りて、地球の邊に横たへ、彼方太虚の世界より、指頭を延ばして、そこに生命あらしむ。人の命といふもの、譬へば月の光を葉頭の一滴露に溶かして、永劫不斷と引くが如く、此の時始て、妙へにして見るべからざる一縷の流れとなりて神の指頭よりアダムの指頭に通い來たり。かしこ羅馬の法王殿の天井は、ミケランゼロが絶代の筆と稱して、此の崇高なる詩歌を、今も觀者の想像に活かしたり。あゝ此の全能の神は、斯の如くして生命を我等に分かちながら、何故に其の行く道を二手には築きし。左に沿ふものは感情の下り路にして、右は智識の坂、道徳の峠なり。登らで叶はぬが人の世の道ならば、假りそめにも降ることの易きを味はす造化は、つれなからずや。また降るが正しき道ならば、登る苦勞は始めより省いてこそ欲しきなれ。
ホルマン、ハントが一代の名畫『世界の光』は、一切眞理の幽微と玄黒とを擧げて、基督が携ふる一燭のために明白々たりと描けり。されば、我がオクスフオドのキープルカレッヂに此の繪を見し夜は、我はまた眞理の明燭を片手に掲げ、紫微の御門の扉を敲いて「あはれ万能造物の御神、世は待對矛盾の塊にして、其所やがて調和を要し、節制を要し、努力を要し、道徳を要し、苦痛を要するの根原たり、そも/\待對矛盾として此の世を表白し給ひし理趣如何」と詰らまほしの情に禁えざりしが。
我が瞑想のやうやく理に入らんとする時、ヴェシゥヰ゛アス山は、再び其の面目を展開したり。今まで黒き衣に覆ひかくせし胸を披くと見れば、慘ましくも一痕の生ま傷、たとへば、みづから衷心の苦悶に堪えずして、爬き〓(「宛」+「リットウ」)りたる深手《ふかで》とも見えて、山腹の谷間《たにあひ》にラワ゛の流れ尚ほ燃え殘れり、晝は心づく人もなし、夜に入れば其の色血よりも赤く、おのづから人の膓にこたえて物々し。
此の時夜はすでに更けたり。我が立つ上甲板の端のたもとあたりは唯闇くして人も居らず。耳を欹つれば、何れの岩に住むざれ貝が、何れの岸の藻の花に便り送るか、四方ただひた/\と浪のさゞめきのみ聞こゆ。
と見るに、山腹なるなるラワ゛の火よりか拔け出でたる、異裝の者一人、頭に頭巾を戴き、眞紅の長衣を垂れ、彼方の岸に立ちて我を招くと覺えしが「我れや行きし、彼れや來たりし、知るべからず、彼れと我れとは忽然として并び立つたり。
此の異裝の友こそは伊太利繪畫の祖、ジオットーが筆と傳へらるゝフヰレンチェのダンテが肖像そのまゝなりけれ。
第二
彼れは徐に手を擧げ遙かに白む地平線のあたりを指しながら、
「見られよ、東海の客。我れ足下のために古今を示すべし。かしこ天と水と相迫るところに、かすかに髪の如き一道の明るみあるを見たまはずや。天地いかに晦朦の夜なりとも、此の一線の明白は、曾て消ゆることなし。
闇より滑り出でてまた闇に入るべき一葉舟の微といへども、一たびこの白光域に來たるときは、詳細に其の本體を露呈する。彼の岸と此の岸と始終と周圍とは、凡て黒漫々として知るべからざれども、ひとり中間の一線のみは極めて明徹、極めて白精、來るものを照破せずといふことなし。我れ今此の白光の中に古今を觀せまくす。
しばし待ち給へ。東海の客。唇を動かし給ふは、白光とは何ぞと問はん心なるべし。其の答へはかしこにこそ。」
指さす方を望めば、光道おのづから二列に分かれて、一は物みな青く、一は物みな赤く映ずと見えたり。たとへば、一は赤き雲、一は青き雲なんどにて敷き詰めたる道ともいふべし。其の折忽ち一群の人數、彼方の闇より我等が視界の地平線に過り入つたり。
「いかに東海の客、夫の一群は、青き道をこそ驅けぬけんとはするらし。其の先頭にある寛衣の紳士等は、希臘のプラトーン及びアリストテレースなり。中にもプラトーンは、殆んど半脚を赤き道に踏み入れんとしては、また引き戻す。手に携ふる所は『フヰードラス』の卷か『シムポジアム』の卷か、はた『レパブリック』の卷なるべし。最上絶對の郷を忘じ得ず、夢の如くかすかに之れを追慕して、憧れ仰ぐの情に堪へずと説きしプラトニック、ラヴの心根は、赤き道行く人に近からずや。されど其の最上絶對のエロスは、遂に智識によりて近づくべき理體たるを免れざりき。此の人もまた、理により、智識によつて闇黒を照破せんとするならずや。アリストテレースに至つては、其の淨化《カタルシス》の説、一點の別彩となつて彼れの詩論を麗しくするにも拘はらず、思想方式の調子、手障り、みな赤き道に上るべき人とも覺えず。智識、理性を以て萬象を照らさんとするに於いては、他の哲學者流と異なるところなし。
東海の客、我れは哲學に於いても、此の以外のものを求めんとするなり。
中世の哲學は基督教の註釋なり。智識の燭を掲げて、宗教の靈龕を照らさんとはしたれど、神秘の一扉これを遮ぎりて通ぜず。其の先は空しく反射して、自己の上に落ちたり。見られよ、かしこに佛のデカート等再び青き道に據り、群をなして登場せり、彼等が自己の左右を顧みて叫ぶを聞き給はずや。曰く、己れとは何物ぞや、と。是れ所謂近世哲學の開始を報ずる聲なり。されども斯くの如き思想の流れは、智識の範圍に於いてのみ完結せんとする限り、尚我が胸の深海には達すべくもあらず、唯これ表面の窪みを傳ふ一系の水脈に過ぎざるなり。我れも一たびは同じ道を尋ねんとしたれど、末は詩の都、神の宮殿とこそ心ざしたれ。
こゝに嬉しきは、カントかな。智識、理性に無上の權威をば持たせながら、傍らに一種の別なる力あることをも忘れず、純理性、實理性の上に、更に微妙なる判斷力といふものゝ存在を認めて、而して此の判斷力の重なる發現は、快不快等の感にありとなす。味ひ深く、優しく、温く、懷かしき觀方にはあらずや。見られよ、カントが場を降るとき、青赤の兩道は殆んど相合せんとしてまた分かれたり。
次いで心ゆくものは、ショーペンハワーが意志の説なり。彼れに取りては一切の根元實在は意志なり。されども我れは此の所に於いて意志といふ名を嫌ふ。我が内的經驗には情といふ名こそ一層明瞭にして事實に切なるを覺ゆれ。
我れとショーペンハワー等と、押さへたるは同一實在の活動ならんこと有り得べき結論なり。されども之れを意志と呼ぶときは、黒、冷、力の氣餘りに盛んなり、我はむしろ、熱あり、光りあり、色彩あり、香芬ある活動を想像して、情念と呼ぶものに與せんと欲す。カントは判斷力と稱して我が思ふ所の一半を説き、ショーペンハワーは意志と稱して我が思ふ所の一半を説けり。二つのものは、相合して人生至高の力の府たるにあらざるか。而して一切の學問智見は綜括して此の一團力に觸れ來らざる限り、未完成のものたるをば免れざらん。斯くの如きは主義無く生命無く、言はゞ急所を有せざる學問となるべきなり。我れは急所ある哲學を求む。
十九世紀の或る部分は、科學萬能の旗下に奔趨したれども、世紀末に於ける彼等の叫び聲は失望なりし。何ぞや、智識の根本を忘れたればなり。我等が燭を秉ツて闇夜を照らすとき、見んと欲するものは向ふにあり、されども、見て以て何とせんかと問はゞ反射して自家に還る。我れ彼の物に對して覺悟を定めんが爲めならずや。かくの如くして、智識の根本は物我の干係を定むるにあるが故に學問は凡て此の點に達して始めて完結す。此の一結を缺くものは、不滿足なり、尚何物をか要求せざれば已まず。一切の學問は哲學に入り、哲學は我れの安立の情を揣摩するに及んで始めて眞に意義あり生命ありといふべし。此の意に於いて哲學は科學の仕上げなり、畫龍の點睛たりといふを妨げず。」
第三
「あゝ我が言説復た抽象に走せたり。許されよ東海の客。來つて文藝の跡を見たまへ。赤き道の末、朦朧たるが中に一列の長き影うごめくは、中世紀のさまなり。青き道の遙かに後れて明るきは、智識が感情に追い越されたるさまとや見ん。赤き感情の路にあるものは、之れを意ともせずして猛進す。其の重なる人數は、歴代の法王等か、朦朧たるが中に、只一點耀くものあるは、黄金の十字架なり。あゝ是れ十字軍!。
げにも中世の歴史に於いて最も麗しく夢の如きものは十字軍なり。中世の暗黒なる歴史も、是れを燒點として見るときは、則ち許多の光耀あり。
それ信仰感情の絶對權未だ衰へず、隱者ピーターの勸進に始まりて、幾萬の士女が初めてゼリゥサレムの聖地の前に泣き伏せしまで、おのづから是れ一篇の詩を實行に移せるものなり。何等の情致ぞや。中世に文藝なし、一切の感情は馳せて宗教に之いたり、而して其の磅〓(「石」+「薄」)する所、遂に發して自然の文藝となれるものは、十字軍ならずや。而して闇黒時代の濃霧尚ほ歐洲の都市壓して垂れかゝりたる中より、かしこナポリの丘腹に挺然たる寺塔の十字架のみ已に燦然として光を放ちたり。是れかすかに天の一角に芽ぐめる文藝復興の第一光が早くも頭地を拔ける塔の頂に反射せるならずや。やがて黄金の如き光線は、林を浸し野に溢れ、天地はじめて一朗、人畜共に舞ひ、百禽聲を揃へて歌ひ出づるの盛觀を呈したり。世に若し斯くの如き文藝復興の圖あらば、其の壯麗いかばかりならん、想像しても見給へや。
さて十字軍の一隊は過ぎ去れり。後れて一人、長衣の袖を又ぬきて、俯き勝ちに赤き道を辿り來るは、誰れと思はるゝぞ。青き道にもしば/\跨ぎ入るを見ずや。あゝ東海の客、足下うなづく所あるか。斯くて兩道に携はれるモンク頭巾の彼れこそは、我れダンテの前身なれ。
我れは今も一代の事業を誤れりとは思はず。文藝復興の夜明けの鐘は、我れ撞けりとこそ信ずれ。唯だ、過ぎし我が意を、今の我が意にて解釋すれば、多少の言ふべき節なきにしもあらず。
我れはもと二つの傾きを有して生まれたり。一つは理に行くの癖にして、一つは情に行くの性なり。わかゝりし我が生涯、いな恐らく我が一代の生涯は抑へがたき情のさずらひにして、情の熱する所、周圍を顧みれば不平あり、我が思ふところを行へば葛藤あり。斯くの如くして我が五十七年は、ローマを追はれ、ヱロナに隱れ、フランスに避けたる、流離遁竄の歴史となれり。されども、我れはまた盲なる情の一面のみには從ひ得ざりき。我が理智性は、生れ得て鋭敏『神曲』中の理趣は言はずもあれ、夫の悲哀に富める『新生涯』の一卷すら、記叙の方式に究理の調あるは、足下も心づき給ふ所か。さればこそ、中世、闇黒の覆ひの下に潜み通へる学問興復の氣に、我れは逸早くも衆に先だちて感染したるなれ。智によりて過現を照し、情によりて未來を察す。斯くて我が情は闇中摸索の妄飛躍をば嫌へども、智識の盡くる所、飛躍の外に途なしといふ時は、則ち情の翼に羽打つて飛躍せんことを願ふ、未來に對して無限に向上せんとする所以なり。然れども、我れは遂に之れに向つて突進すること能はず。之れを爲さんには我れ餘りに聰明なりき。内に憂愁を抱いて、一代を轗軻の間に送るの人たりしこと、また憐れむべしとは見給はずや。」
第四
「さらば當時我が豫見せし未來は如何なりしぞと問はるゝか。『神曲』淨罪界の初めに、我が意は盡きたり。下界にては見し事もなき四つの星、燦然としてきらめき出づれば、天に歡喜の光り滿つる、其の天こそ我が理想なれ。四つの星に額を照らされて面も耀くかと見ゆる一老翁は、問うて曰ひけらく「語れ、御身は何者ぞ、此の眼しいたる流れを溯り、彼の永劫の牢屋より遁れ出でしと覺ゆるは」我が東道の主人ワ゛ージルは答へて曰はく「自由を索めんがために旅するものぞ」と。あゝさなり、精神の自由、語は陳なれど、之れよりも切に此の一塊の思想を表白すべき言葉はあらざるべし。當時、政教混亂して一となり、一切の主權は擧げて法王の手に委ねられたり。政治はいふに及ばず、學問藝術みな舊教の隸屬たるを免れず。而して舊教はすでに其の生氣を失ひて、地中より掘り出だせる巨獸の骸の如く、徒らに大に、徒ら人を壓するのみ滔々として寄せ來たる智識の潮をばおろかにも自ら體を横たへて防止せんと欲したれど、そは無益なりし。精神の上に牢獄を築いて我等を囚へんとする者は實に此の巨怪なりしなり。我れ乃ちおもへらく、是れ基督教の罪にあらず、俗輩之れを汚して斯くの如くならしめたるのみ。眞の神、眞の愛の尊とさは、古今いさゝかも變りあらずして、現に我が胸に躍々たり。此の清き愛、此の絶大なる想ひは、直ちに是れ内在經驗の事實ならずや。我れは今より後、唯之れを追うてあこがれんのみ。新生命に入り、新光明に接せんが爲めには、先づ舊教義舊慣例の我れに邪魔するものを擺脱せんと念ふ。我が精神を法王專制、教義專制の羈約より拯うて、そこに大自由を得しめんことは我が願ひなり、と。
斯の如く思惟して、我れは基督教の精神に新たなる光を注がんとはしたり。後世のニーチェ等が如く、直ちに走りて基督教を破却せんには、我が智識餘りに聰明に、また我が基督教に對する愛着の情餘りに強かりき。されどこゝに顯はれたる世界の一傾斜は、此の後永く平衡に返ることなく、延いて二十世紀の今日に及んだり。後れたりし青き智識の道にあるもの、感情一存の振舞に快からず、赤き道にあるものを追ひ越して久しき抂屈を伸べんと奮起せる有樣は、やがて我が身に代表したりし文藝復興の夜明けなり。コンスタンチノープルの落滅、印刷機械の發明と、史家が數ふる文藝復興の外縁は多けれど、一味の温光は、早くほの/″\の夜明けより、人の心の底に通ひたり、畢竟は是れ自然なる命數の循環のみ、節奏のみ。世は智識と感情との一大競爭場にして、二者の漲落は世態の變遷なり。今文藝復興の初めにありて、智識は千年の長き屈伏より起き、清新の光りを放つて四方を照破す。新日昇つて山河鮮やかなるの概あるも宜なるかな。
智識の汪溢、著しくは智識の勝利、是れまことは十三四世紀以後、延いて今日に及ぶまでの歐洲思想界の原動力にして、此の間は唯だ一傾斜のみ。文藝復興乃至學問復興といふものは即ち智識の復興にして、十六、七、八、九世紀は其の連續たり。史家の所謂近世是れなり。而して、智識の流れと相沿ふべき感情の領土は智識の流勢のすさまじさに壓倒せられて動々もすれば其の氾濫に任せんとす。文藝の森、宗教の園、是等は凡て道徳といひ、科學といふが如き智識の流れと對映して感情の領土を代表する者なるにも拘はらず、近世の文藝は、殆ど常に、かしこの木の間に科學の泉、ここの木の間に道徳の盆池を隱見せしめて、其の森の姿勢を整へんとす。宗教また、智識の流れを引いて其の園に灌ぐを禁じ得ず。斯くの如くして止まる所なくんば文藝の森、宗教の園は終に智識の水底に溺れ果つべし。夫の科學興こりて詩歌亡ぶと叫びし者の聲を聞かずや。また夫の科學興こりて宗教亡ぶと叫びし者の聲を聞かずや。十四、五世紀に於ける文藝復興の氣運は、十九世紀の末、當然の結果として斯かる叫びに到達したるなり。智識全盛、感情屏息の義、明かならずや。」
第五
「されども我れは單に概般の理を語れり、更にかの赤き雲の道行く我が姿を見られよ。窶れたらずや。我が煩悶は闇黒不快の世より出でゝ早く光明自在の天地に到らんと願ふにあれども、斯かる願の本となりて、打つとも踏むとも變るまじき、大地の如き誠の上に我れを据ゑしは、あゝ其のかみよ、愛の一念力なり。我れは何事を思ふにも眞率誠實の外に行くこと能はず。眞率誠實は、涙を盛りたる袋の如きものか。之れに觸るれば涙出づ。我れは事を想うて深く誠なる毎に涙のはふり落つるを禁ずること能はず。あゝ此の涙こそは、我が早き生涯に於いて愛より受けし賜物なれ。我が愛の名はベアトリチェなり。うるはしき其の名かな。之れを聞けるのみにてだに、胸は春の野と開けて、得も知らぬ芬芳の香に、魂銷ゆると覺ゆ。頃は千二百七十四年五月、花祭りの日なり。ベアトリチェは九歳の春なほ淺く、我れはやがて十歳ともなるべき兄にして、二人は、此の日初めてしみ/″\と相見たり。ベアトリチェの父が春の宴には、我が父も列なれり。我れは父の跡につゞきて、奧なる客室に導かれしが、此の時客は既に半ばをも越えたりと覺ぼしく、歡聲笑語湧き立ちて、窓の前に相對するもの、隅なる安樂椅子に身を横たふるもの、卓を圍みて座するもの、立つて室内を歩むもの、女、男、黄に赤に緑に色彩の耀かしさは目もまばゆきばかり。暫くありて、再び裳の戸に觸るゝ音ありと見れば、母と共に入り來たりたるベアトリチェの立姿、氣高くも美しかりし面影よ。
天降りたる星かと見えて、今立てるは水色窓掛の前なり。衣裳は抑へ薄めたる眞紅の色にして、帶、胸、頸の飾りは、天つ乙女が集めたる珠のかず/\、塵の世の人品としも思はれず。
少女は默してにこやかに我が會釋を受けしまゝ、はにかめる我が姿をつく/″\と見ぬ。我れも一たびは其の眼を見たり。されど其はたゞ刹那にして、長くは見るに堪へざりし。長くは見得ざりしかども、此の一瞥こそは、我れに永久の神秘となりて殘りたれ。深くも濳める我が靈は、此の時全身に動悸を傳へて打ち震ふと覺えしが、之れより永く其の身を愛に捧げたり。
九年は仇と過ぎて、二たびベアトリチェに巡り會ひしは、十八の春、フヰレンチェの町に人の往き來も繁き頃なりし、此の婦人、われには尋常の人蓄とも思はれず。天人などにやあらん。此の日は純白の粧ひして、二人の年長けたる婦人を左右に伴へり。我れは、はたと彼等に行き合ひて耻しさに顏も得擧げず、此方の軒下に身を避けしが、之れを見たりしベアトリチェは、世にも心を籠めて我が方に會釋を送りぬ。情ある會釋の言葉なりしよ。始めて之れを聞きし我が嬉しさは、推察あれや東海の客。命かぎりの幸福は是れを極みぞと思ひて、我れはたゞ醉ひたり、恍惚として夢心地となりぬ。淋しき我が家に歸りては、尚さらに、一念ベアトリチェが其の日の事を忘れ得ず。不思議の夢も見たりけり。 後は語らずもがな。十六年の雨風、卑怯なりし我れよ、女々しかりし我れよ、はた思ひ迫つては遣る瀬もなかりし我れ、薄倖にして多感なりし我れ。我れはたゞ失望、憂愁の雲に鎖されて、後世『ヱ゛ルテル』のゲーテ『チャイルド、ハロールド』のバイロン等と一つ思ひに身をもだへたり。而してベアトリチェは千二百九十年、明け行く空の星と消え去りぬ。或る想ひは、我が胸に秘めたれども、如何にせんや、眉目人の心を語る、世にダンテが面型といふもの、客も見知り給ふべし。されども東海の客、我が此の胸裡には、指さば指にも觸るべき一塊の物あり、名づけて誠といふ。是れあるが爲めに我が思ふ所は悉く涙なり。感激にも涙來たり、悲哀にも涙来たる。而して此の優しき涙の源を穿ちしものは如上の戀の歴史に外ならず、清き戀に泣き盡くせし人は、必ずや、眞率誠實の情に富むべきなり。」
第六
ダンテの影去りて、赤き道には登場の人しばし荒んだり。と見る間に、後れて來たりし青き道の人數も、今は一散に驅けぬけて、赤き道にあるものと先きを爭はん氣配あり。世は早や近世に移れりと覺ゆ。中に二人の風骨すぐれたる紳士あり、赤き道より上り來たる。ダンテは之れを指して、
「彼等は伊太利の畫家及彫刻家、ラファエロとミケランゼローとなり。中にもラファエロが聖母の圖は、遂に古今を絶して、彼れの外に出づるものなし。足下は彼れが歐洲近世思潮と如何なる交渉を有するかを知れりや。其の點二つあり、曰はく一味の知識なり、曰はく一味の人間なり。
由來知識の勃興に伴ひて起こるべき文藝上の變動は、外形には常に寫實といふことゝなりて見はる。文藝復興期の文藝が當然其の色を帶ぶべきは言ふに及ばざるべし。古き批評家はいふ、ラファエロはミケランゼローの寫實的なるに反して、理想的なるが故に、些細なる點にまで知識の要求を充たすべき寫實をば敢てせざりきと。されども此は寫實理想の語を妄用して自ら矛盾の結論に陷る滔々者流の筆法なり。古今同嘆、深く論ずるに足らず。ラファエロの寫實は必ずしも定規を手にし解剖學書を傍らに置き乍らといふが如きものにはあらざりしならん。されど其の疎描たると、密描たるとに論なく、背景に於いて、遠近、布置に於いて、明暗、權衡に於いて、歩一歩前代の穉氣を脱し行くの觀あるは、大局に於ける寫實的精神の發展なり、理想は目的として之れあるを妨げず、手段としての寫實的精神の發展、すなはち知識の光明を増せる徴候は、ラファエロが畫に於いて歴々數ふべし。是れ疑ひもなく、彼れの畫をして、何所ともなく一種近世的、若しくは近世にも尚且活きたりといふが如き感を呼ばしむる所以ならずや。
但し此の如きは、所詮外形の論たり。彼れの繪畫には、智識あり人間あり。是れ近世の氣運を當時に權化せるものといふべし。
ラファエロが一代は凡そ三期に分かちて見るべし、第一期は尚ほ師ペリウジノー等の跡を追ひて、古畫風に囚へられし頃なり。第二期はフヰレンチエに來りて、レォナルド、ダ、ヰンチ及ミケランゼロー等の影響を受けし時代なり。第三期はラファエロみづからの時代といふべし。今は此の三期に亘りて、彼れが聖母の圖を援き來たらんに、第一期は即ち、むしろ文藝復興以前の思潮を見はしたり。ローマの法王殿なる『マリアの戴冠』の圖は、最もよき此の期の代表畫たるべし。周圍の如何は問はずもあれ。中央に坐し合掌して今や將に聖冠を頭に受けんとするマリアの顏の表情は、唯是れ信仰なり、無我なり、清淨なり、柔和なり、之れを見つむること少時なる時は、我も又、先づ頭腦より徐ろに溶けて消え入るが如き心地す。即ち宗教畫として偉大の力を有する所以なり、されども一たび頭を回らして之れを思ふときは、我が心中に尚ほ何者かの不滿あるが如し。此の畫に、神聖は是れあり、耽溺は之れあり。人の心のさま尚中世の如くして、既成の基督教義に絶對の威權ありし世は、是れを以ても足れりとせしならむ。否、此の畫はすなはち此の如き世を代表したる者なるべし。是れわが古派と名づくる所以なり。然れども、時移りて、文藝復興の氣に感染したりし人は、必ずや之を十分に滿足とはなし得ざりしならん。蓋し此のマリアは余りに神聖なればなり、余りに信仰一圖、神々しさ一邊にして、動もすれば模型的となり、抽象的となり、血あり肉ある此の世の人と遠ざかるの度余りに大なればなり。一言以て言はば、生命無し、否、生命は無きにあらざるも、狭隘なる既成教義の下にのみ生ける生命なり、不自然に抑壓したる生命なり、若しくは人世の行路に惱み疲れたる、氣魄消沈、寒枯痩貧の生命なり。近世の始めは正しく此くの如き宗教的抑壓の下より醒起して、光明、活氣、自由、豐富、積極といふが如きものを得んとするの氣に充てる時なり。第一期のラファエロは、以て之れに當たるべくもあらず。
此に於いてか第二期の彼れは出でたり。今フヰレンチェにある聖母の諸畫、例へば『太公家のマドンナ』『金翅雀のマドンナ』の如きは皆よく此の期を代表す。而して此の期の彼れが特色は、聖母の顏に、一味の知識の光りを漏し來たれること是なり。此の點に關しては歐洲の評家も已にいへる所あり。『太公家のマドンナ』を以て此の傾向を初頭に置くを例とす。されども、其の最もよく此の事實を示すものは『金翅雀のマドンナ』の圖に如くはなし。金翅雀を持てる聖兒等を膝に倚りかゝらせながら、左手には書を繙きたる聖母の顏に、一點現實の氣の漲り來たると共に、其最も著しき表情は、怜悧、聰明、といふが如き標徴なり。されば之れを見るに、賢女の相あり、而もなほ、温良、純潔、信仰といふが如き感は油然として人の肺腑に湧くを覺ゆ。ただ斯くの如くして、近世の知識的傾向は、中世の信仰感情と調和の形を示したれども、之れが爲めに、其の耽溺一邊なりし神聖といふが如き意義は些も損失を蒙らざりしか。或る種の人が、此の期以後のラファエロ、マドンナを以て俗氣ありとなし、却つて初期の抽象的なる聖母像に心を寄せんとするものは、むしろ注意すべき一現象にあらざるか。更に言ひかふれば近世の藝術が漸く人間と相接近せんとするに従ひ、超人間的なる宗教の生命は多少の變改を來たらざるを得ず。此に於てか或者は知識に媚びて人間に墮せんよりも、理は如何ともいへ、去つて單一なる宗教的感情に身を捧げんと願ふ。此の如きは、知識に慣れず、近世に慣れざるものか、然らずんば知識に慊たらず、近世に慊たらざるものゝ行くべき道なり。復古の思想こゝに於いてか起こる。此は十八世紀末及び十九世紀末の事實ならずや。此の理は尚後にこそ。」
第七
第三期のラファエロは、獨逸ドレスデンの畫堂にある、サン、シストーのマドンナを以て、遺憾なく表出するを得べし。此の畫は、彼れが死する前二年、千五百十八年の作と傳へられ、或る評家は、之れを以てラファエロが一代の聖母像中最も傑出せる者なりとなす。少なくとも第三期のラファエロを見るに於いて、之れに勝る圖はあるべしとも覺えず。薄き暖色の光りを徐ろに集中したる中央に、聖母は雲を踏んで立てり。抱いたる聖兒の額は、母の頬にもたれ、其の裸體なる肉の丸み及び色合には、現實の味ひこぼるゝが如し。聖母が穿てる袴は、深藍の染め色に、神秘、永久の意を現はし、膝のあたりに至りて、強き光線を反射せしむ。上衣は氣高き赤にして、之れまた小兒を抱ける左手の肱より腕にかけて、光線を出だせり。總じて之れをいふに、母子の顏、小兒の肌、聖母が膝、腕に受けたる光線、及び聖母像の半身程に高まりたる左右のシスタスとバーバラとが、肩、背の明るみ等を中心として有力なる明暗の分布、變化、まづ少なからず人の注目を惹く。青、赤、黄、白、茶、橄欖等の色の鮮やかにして、而も沈痛の氣を失はざる、脚下及び周圍の群のおのづから尋常の物ならずと思はるゝ、是等は茲にくだくだしく言ふ迄もなかるべし。最も驚かるゝは、此の聖母が顏なり。中にも其の眼こそ世界の不思議といふべけれ。
サン、シストーのマドンナは遂に人間のものとなれり。其顏には、我等と同じく、活きたる血通へり。第二期に於いて見はれたる知識、聰明の相は、尚ほ是れあれども、其の以上更に何物をか加えたり。其は人間的意義、即ち是れなり。始めて此の畫に對するものが、一見先づ其の餘りに近世的なるに驚き、唯是れ一幅の無邪氣なる田舎乙女が圖にはあらずやと訝るたぐひは、此の理を説明して餘りあり。第二期の聖母にすら既に快からざりしものは、此の畫を見るに及んで、ああ、ラファエロ遂に人間に墮したりと叫ぶなるべし。然れども、此の圖の中に、尚ほ一道の神聖なる表情なしとはいふべからず。全局の調子はたしかに人間化したり。されど、人間化して、尚ほそこに神的清淨あらば、是れ神と人との和合にはあらずや。隔絶不可思議を許さずして、むしろ之れを人間に引き下さんとせるは、やがて近世思潮の意義なり。神人一致、、語は古けれども、意は常に新たにして、近世は實にあらゆるものを人間化せんとしたり、知識化せんとしたり、我が摸索の内に置かんとしたり。神も此れが對當たるをば免れず。されば、第三期に於けるマドンナが人間となれるは、實に時勢の影なり。近世を豫表するの大藝術たる所以こゝにあり。何ぞ異しむを須ゐんや。此の如くにして、ラファエロは初めて大なり。
母子の顏には、單に無邪氣、聰明、優美といふが如き表現あるのみならず。また實に神聖あり。神聖といふに弊あらば、たゞ心を靜かにして、數分時間其の眉目の邊を注視せよ。茲にも亦第一期のラファエロに於いて最も赤裸々に見はれたる、一種の幽致を認むるに至るべし。其の情は明かに説きがたきも、譬へば我が體漸く虚靈となつて、永久無限の邊に導かれ行くが如く、優しく、心細く、物哀れなる心地となるにあらずや。是れ凡て大なる宗教畫が有する一作用にして、畫家の宗教的感情が、おのづから光澤となつて、畫面に流れ出でたるなり。
聖母の眼は、更に一段の驚異なり。第二期までの圖にありては、兩眼常に下に向かひて俯したり『ワージンの戴冠』に於いて、『太公家のマドンナ』に於いて、『金翅雀のマドンナ』に於いて、はた巴里ルーブルのマドンナに於いて、みな然るを見る、思ふに、是れ人世の消極を意味し、悲哀を意味するものにはあらざるか。眼は感情の窓なり、之れを鮮やかに開きて、望み見るに便ならしむるときは胸中に燃ゆる感情の火、其の色に從つて一々外に輝き出でんことを恐る。別言すれば、生きたる感情之れより漏れて、聖母は遂に人間に墮せんことを憂ふ。畫家はすなはち易きに就いて眼を俯しにせしめ、感情を隱して其の光りを消し、以て僅かに其の神々しさを保たんとせるなり。一切の感情を活かして、直ちに神に合わせんとするは、積極たり。之れを消して神に合わせんとするは、消極たり。眼を伏せて感情の窓を閉づるものは、消極に行けるにあらずや。また伏し目は常に悲哀憂愁を意味す、孤獨なり、寂寞なり、小弱なり、逡巡なり。前に目的とすべき光明なく、希望なく、また之れに向かつて猛進すべき英氣なし。悲觀的たり。
此の如き意義を有する第一、第二期のマドンナの眼は、第三期に入りて、深夜の星影よりもあざやかに見開かれたり。其の瞳は下を見ずして正面に向かへり。霧とかゝりし愁の雲は消ゆると共に、星の瞳は燦爛として麗しき光りを放ち來たりぬ。天地始めて光明あり、希望あり、生氣あり。生きたる感情も此れより輝き出づるよ。其の感情を直ちに導いて、永劫に入らしむるも、此の眼ならずや。美術史家リュブケはおもへらく、ラファエロは、此の圖によりて自家の最も深遠なる思想と最も美しき人とを結合せんとせるかと。ラファエロの心は知るべからずといへども、事實の跡は、是れよりも更に/\深き意義を示すに似たり。彼れは、此の畫によりて實に神と人とを合一せんとしたり。而して是れが爲めには、舊來の信仰一邊なるものを損するの危險を恐れず、活きたる人間の感情と知識とを之れに導き入るゝを辭せざりき。知識的、而して人間的、是れこそ誠に近世を標榜する根本精神にはあらずや。」
第八
「あれ見給へ、東海の客、青き道には早くも宗教革命の大旗を飜し來るものあり。獨のマルチン、ルーテルに紛れもなし。宗教として地歩を占めたる中世の感情が、近世の知識の爲めに征服せられ行く世相は是れなり。
次いで赤き道より快活の態度にて上り來たるものは、シェークスピーアなるか。濃紫に黄金の縁つけたるガウンの袖を反しながら、左右を顧みて諧謔一番するに似たり。彼れ今は詩國の帝座について久しければ、儀容おのづから王氣を帶ぶと覺ゆ。
彼れが文藝上の地位は、一大驚嘆なり。凡そ古往今來彼れが如く時代を破り、彙類を破りしもの他にありや。當時歐洲が中世の長き眠りより醒めて、文藝復興の光りにより、ここに新鮮の天地を見たりし喜びは、おのづから映じて彼れが一代の作にあり。彼れの諸作を通じて見たる天地は、エリザ王朝のそれの如く、豐富なり、燦爛たり。廓寥として底に無限の淋しみを藏する中世の調子とは、おのづから類を異にす。加ふるに彼れが興味の中心の人間にありし、はた其の、事に逢へば直ちに之れを戯曲化し、客觀化する力の逞しかりし、凡て是れ近世的傾向の特色にして、ラファエロが第三期に於いて成さんとせし所のものを、シェークスピアは一代の事業として大成せるの觀あり。其の他『マクベス』、『ハムレット』、就中『ハムレット』に於いては、彼れまた近世の知識的傾向を最も明らかに表出したり。されども、彼れはまた矛盾の一面を有す。『ハムレット』『マクベス』の類より『眞夏の夜の夢』『あらし』の如きに至るまで、諸作に一貫して存するものは、一種の超人間興味なり。單に超人間的といふは尚ほ盡きず。『眞夏の夜の夢』『あらし』等が、全篇此の調子に滿てるはいふに及ばず、『ハムレット』の亡靈、『マクベス』の妖婆、皆超人間的若しくは傳奇的空想的風味を、彼れが作に注加する所以なり。而して此の如き風味は、溯つては之れを中世に求むべく、下つては之れを十八世紀の末に起こりしローマンチシズムに見出だすを得ん。ラファエロは、始終宗教の藩籬に頼りしが故に、中世の感情を宗教、若しくは神、若しくは信仰として保留し、之に人間を和合せしめんとしたれど、シェークスピーアは宗教に執せずして中世を見たり。故に、其中世は傳説的、妖怪的、騎士的、巡禮的、超人間的といふが如き、ローマンチシズムとして彼の心に留まれり。近世の評論家、ローマンチックといふ語を直ちに中世的といふ義に解するものすらあるに至るは以て如何に此の二つのものゝ相接するかを證するに足らん。而してシェークスピーアが作中のローマンチックなる風味、若し源を此に汲むとすれば彼れは、斯くの如くして近世と中世とを一に會流せしめたりと謂つべし。人間的、知識的、戯曲的は近世の潮流にして、超人間的若しくはローマンチックは中世の潮流なり。更に簡單にいはば、ラファエロは人間と神、シェークスピーアは人間と超人間、といふ形に於いて近世と中世との精神を一身に湊めたり。
それより二百年のあいだ、ラファエロが爲せし所と同精神なるものには、ミルトンの『失樂園』クロップストックの『メシアス』ハンデル。ハイヅン等が聖劇歌、乃至近くは英の畫家ワッツ、露の作者トルストイ等ありといへども、是等は未だ一時代を畫するに至らず、之れに反してシェークスピーアの爲せし所は、十八世紀の末に及び、一大潮流となつて再び全歐文藝の岸を洗ひたり、史家之れを名づけてローマンチシズムといふ。さればシェークスピーアが作中のローマンチシズムは、一方之れを中世に尋ね上りて、此所に中世と近世との會合を認め得べきと共に、他方は之れを十八世紀末に尋ね下りて、此所に學問興復の近世と、二百年の後之れに對して起これる反動的氣運との會合を見るを得べし。畢竟ずるに、彼れは中世との調和なるか、將た近世と其反動との豫表なるか。そも/\また兩つながら之れを其の身に總ぶるものか。彼れが地位の重大且つ無類なる所以はこゝにあり。」
第九
論ます/\進まんとして、シェークスピーアは早くも我が眼界より去れり。懷かしかりし人の面影かなと思ふうち、ダンテは再び指を擧ぐ。
「群を成してシェークスピーアの後に續くものは、十七世紀の文藝星等なり。十六世紀は、ラファエロ等あるが爲めに前半を伊太利の文明に捧げ、シェークスピーアあるが爲めに、後半を英國の文明に献ず。十七八世紀は佛蘭西及び英國の天下たり。彼の一列は佛のコー子イユ以下ヴォルテヤ等を前隊として、英のドライデン。ポープ等を後詰とせる人衆と覺ゆ。何れも身だしなみ上品に、整然また瀟洒としては居ながら氣力光彩に乏しと見ゆるは、十九世紀の反動の羽風に、あさましくも、揉み落されし爲めなるか。更に異しきは、見よ、彼等其の赤き道より轉じて、やうやく青き雲の道に移らんとするならずや、赤き道次第に落漠たり。文藝傾けるか、感情は遂に知識の急なる追躡に堪へ得ずして、其の優越なる地歩を他に讓らんとするに似たり。學問復興の自然の結果は、此の外なること能はず。
此の期に屬する文藝の理想は、ブワローが詩論に明けし。摸範は希臘、羅典にありとおぼしく、其の項目は、曰はく理を輕んずべからず、曰はく思想形式共に明瞭なるべし、曰はく外形の統一均整は必要なり、曰はく尋常なるべくして奇怪なるべからず、曰はく諷刺は眞理なり、曰はく詩の各越ゆべからざる制限ありと。凡そ此くの如きものは、十七八世紀にわたれる英佛の大文藝が有せる特色なり。之れを概括するときは、形式的、理知的、尋常的、嘲笑的となる。更らに言はゞ、一切是れ感情を薄めて知識の間に工風を費やさんとする文藝の傾向にはあらずや形式の整理、理知を容れたる詩、畫、常規を逸せざる思想、嘲笑し諷刺して、熱怒せず、同感せざる氣風、數へ來たれば、すべて知識の按排によりて始めて成就し得べき事項たり。知識的といふ一語は、實に此の種の文藝の生命なり。
斯くの如き十八世紀に反抗して起こりしものを、十九世紀初頭の歐洲文藝とす。或は呼んで之れをローマンチシズムといふ。我れは意義の直截明確ならむことを欲して、之れを感情的、若しくは情緒的といはん。蓋し天地の間知識にあらざる存在は情緒にして、情緒にあらざる存在は知識なり。こゝに我家の哲學あり。故に我は十八世紀の知識的文藝に反抗するものは、當然情緒的ならざるべからずといふ。更に精しく言はゞ、形式的なるものに反抗するの心は、赤裸々の中身を抉出せんとして、ルーソーの「自然に還れ」となり、ワーヅワースの「感情の自然の流れ」となり、ゲーテ。シェリー等が理想となる。理知的なるもの、嘲笑的なるものに快からざるの心は、また、情熱主義となり、多感主義となりて、ゲーテの前半、ハイネ。バイロン。キーツ等を生ずべし。尋常的といふことを嫌ふものは、則ち非常非凡の想像を超自然に求め、神秘に求め、宗教に求め、往古に求む。スコット。コールリッヂ。ワグナー等の傳奇、驚異、神秘、超自然はこれならん。
さはあれど、是等のもの多くは一に會して感情の本に歸るといへども、或るものは外れて再び舊の知識に行かんとするを免れず。已に自然といふ語生る、之を推し廣むる時は、所謂自然主義となるも已みがたき状勢ならずや。已に理想といひ、宗教といふ語用ひらる、其結論が哲理となり、教義となるもまた是非なき趣向にあらずや。而して、自然主義は、夫の寫實といふ近世の一潮流を併呑して、ます/\惡路に入り、遂に科學主義にまで墮せんとせり。佛のゾラ等は之れが代表者なり。哲理主義は、道徳問題、哲學問題、人生問題となりて、一派の作風を成せり。諾威のイブセン等是れに據る。また教義は遂にトルストイを宗教化したり。
我れ語れば多辯にして、談は十八世紀より十九世紀の後半にまで飛躍したり。言ふべき事盡きずして、夜はいたづらに更けんとす。中間は省除して、直ちに現代の二三子を場に登らすべし。」
第十
「十九世紀末の文藝は、實に目もあやなる雜多の潮流の會湊なりき。前にいへるラスキン。ゾラ等の自然主義、ニイチェ。イブセン等の道徳問題、ワッツ。トルストイ等の教義的宗教の外、多感派の脈を引ける新ローマンチシズム、神秘派と見るべきベクリン、はた自然主義の別流とも見るべき、英のロセチ等がラファエル前派、佛のマネー。モネー等が印象派、近くは佛に起こりて獨に及べるカーン。マラールメ。ハートレーベン等が標象派、殆んど數ふるに遑あらず。
されども、中に就いて最も著かりしものは、自然主義と道徳問題との二流なるべし。自然主義は近世を一貫したる夫の寫實的潮流と合して、殆んど全歐洲の文藝を風靡したり。此の點より見る時は、十九世紀の後半は、自然主義、寫實主義の時代なりきといふを妨げず。されども自然主義といふ中には、種々の波瀾を藏したり。自然を自然のまゝに、若しくは現實を現實のまゝにといふが如き口氣は、ラスキンに於いて、ゾラに於いて、聞くを得れども、此は餘りに輪廓的たり、漠然たり。事實に於いても、自然を自然のまゝに寫せるものが、必ずしも十分なるにはあらず。此に於てか、或者は知的工風によつて別の力を藉り來たり、之によりて興味の源を涸らさざらんとす。心理學なり、遺傳論なり、社會問題なり。寫實主義自然主義が落ち込まんとする穽は、常に此の邊にあり。之れを文藝上の科學主義といふ。此に至れば、文藝は科學、否、自然主義に囚はれたるなり。更に適切にいはゞ再び知識に囚はれたるなり。
此くの如き意義ある自然主義に對しては、勢ひ感情の反抗、知識の憎惡を表すべき氣運所々に起こらざるを得ず。歐洲の評壇に、近時、科學的文藝評の多く喜ばれざる、ラファエル前派、ワッツ派等の畫風の復興を見んとする、若くは白耳義のマーテルリンク等が神秘主義を取つて立つと稱せらるゝ、皆此の氣運がさする業なるべし、而して前にいひたる佛、獨の標象主義といふものこそ、千八百九十年前後より廣まりて、自然主義に抗せんとする凡ての傾向を總括したるが如き名にはあれ。十九世紀の始めには十八世紀末の古典主義に反動したる彼れが如き雜多の思潮を概稱して、ローマンチックと呼びぬ。今は二十世紀の始め十九世紀末の自然主義に取つて代らんとする諸思潮を概稱して、シンボリックといはんとす。面白き對照なるかな。
標象的といふ語は、上は希臘のプラトーンが美論より、下ッてはニイチェが『ツァラッーストラ』にまで冠せらるゝ名なり。更に下りては、則ち今の標象派詩人文人之れを標榜す。獨乙の一評家は、之れを分解しておもへらく、標象主義の中には、少なくとも三方面あり、頽廢期的兼女性的(デカデント、フェミニスチッシェ)快樂的兼超人間的(デヰオニシッシュ、ユーバーメンシュリッヘ)及び神秘的兼初心的(ミスチッシュ、プリミチーフェ)是れなりと。されども此の流派が果して将來長く此等の氣運を統率するの名たるに堪ふるや否や。此は未解の問題なり。同じ評家は謂へらく、獨乙人等は佛人より標象主義の名を借りて已に十數年、之れに代はるべき新しき題目をば得たしと思へど、未だ之れを發見せざるを如何にせんと。
標象主義は、小説劇等の上にも見はれたり。獨乙のハウプトマンが『沈鐘』は其の好例たるべし。佛のサードゥが英の名優アーヰ゛ングの爲めに我れダンテを材とせる劇『ダンテ』も此の部たり。遡りてはイブセン。ニイチェ等にすら、早く己に其の徴を見るといふならずや。
更に試みに學者といふものが理によりて解する標象主義の意義を聞け。現代の歐洲の美學者中、最も覇を稱するは、蘇格蘭セント、アンドリゥ大學のボザンケ、獨乙ミユンヘン大學のリップス、獨乙ライプチヒ大學のフォルケルト等ならん。ボザンケには美學史の著あり。近代歐洲に出でたる美學史中の白眉と稱せらる。書中、希臘の美論を評する爲めに掲げたる三標準の一として、著者は標象的と模寫的との對照を作れり。言ふ心は、模寫とは只だ見ゆるがまゝ聞こゆるがまゝの寫本を極意とするといふなり。標象とは、見ゆるもの以上、聞こゆるもの以上にある一物、すなはち見えざるもの、聞えざるものを拉し來たツて、見ゆるもの、聞こゆるものに寓するを目的とすといふなり。而して希臘にありては、プラトーンすら尚ほ美術は模寫なりといふを憚らず。されども、其の終に眼に見るべからず。耳に聞くべからず、唯心に思念して憧憬し得るものをも模寫すといふに至りては、プラトーンの模寫論はおのづから破綻を生ぜざるを得ず。此の破綻こそ、後に及びて一段高尚なる標象觀の出で來たる端緒なれとは、此の著者の言ふ所たり。此の意を推し廣むるときは文藝は、時勢につれて標象的となり、行くを進歩の路程とするなり。たゞボザンケは、別にハルトマン等の理想具象觀を援取する所あるが故に、近世の文藝を直ちに凡て標象的とは言ひ得ざらむ。されども、下の一事は明らかなり。曰はく、内在の一物と外在の事象と、二重なるものが、如何なる方式を以てか相結合する所に、標象的といふことを生ずと同じく二重なるものゝ干係なりといふに論を起こせるは、フォルケルトが今春公にせし『美學系統』第一卷の標象論の條なり。此の人はおもへらく、標象は日常の事にもあり、十字架を以て耶蘇教を標するの類は是れなり。されども是れを導いて審美の世界に入るゝ時は、別なる意味を生ぜん。第一は有相的標象(フォールシュテルングス、ジムボリーク)なり。人事の進行の中に、明らかに思念し得べき別の感想を寄するをいふ。ベクリンが『人生は短き夢』の圖に於いて、花に戯るゝ少女等、戎衣の袖も赤き騎士、やがては老い行き、死に行く、白頭の人、是等を配して、我等がはかなき夢と空想とを以て飾れる人生、其の終局の惨憺さなどといふ思想を寓したるが如きは、即ち是れなり。次は全化的標象(フェヤアルゲマイネルンデ、ジムボリーク)といふべし。事象の一部を取りて其の類の全階級を之れに表出せしめんとするなり。個を其のまゝ全の地に高むるなり。ゲーテのファウストが或る意味に於いて全人間を代表するのたぐひならずや。終りは情趣的標象(スチンムングス、ジムボリーク)といふ。第一の場合に於いて内在の一物が、明白なる感想なるに反し、茲なるは全く無相、たゞ一の名状しがたき情趣の縦横に浮動するを覺ゆるものなり。此の種の標象美術は、多く其の材を非情物に求む、單なる色、音、模樣、建築といふが如きものに最も多し。人事を避けたるなりと。兎にも角にも、此等の解釋はみな、標象的文藝の要素たるべきこと、爭ふべからず。然れども、我れは斯くの如き標象主義及び、之れに溺れて而して尚ほ十九世紀後半の自然的潮流に反動し來たるべき、幾多の傾向を、總稱する別の名を有す。之れを横より呼ぶときは情趣的なり。之れを縦より呼ぶときは宗教的なり。」
第十一
「情趣的といふ語は、我すでに之れを屡々繰り返せり。所謂自然主義が知識の工風、知識の補助に墮せんとするとき、悍然として之れに反抗するものは、其の主義所執の如何に拘はらず、必ず何れの邊にか感情を生命とせざるべからず。例へば夫の理想といふが如きものも、知識の跋扈を惡みて之れに對立せんとする場合にあつては、其形必ず漠たる感情ならざるを得ず。明白なる理想は、知識に入るものなればなり。其の他快樂的といひ、女性的といひ、神秘的といひ初心的といふが如きは、すべて知識の明確以外、感情の自由なる天地に出でんとする傾向の變形たるを見る。更に之れに多感的傾向も加はり來たる〓(「こと」の合略仮名)あるべく、超自然的傾向も馳せ參ずる〓(「こと」の合略仮名)あるべく、往古的傾向も來たらば拒む〓(「こと」の合略仮名)なかるべし。此等の一切を總括するものは情趣主義なり。
更に繰り返して之れを思ふ、文藝は囚はれたり。十九世紀の後半に於いて遂に精力非凡なる知識の爲めに囚はれたり、追い越されたり。我はミューズの壇前に霊火を焚いて、囚はれたる文藝の爲めに義軍を擧ぐるものゝ意を諒とす。
今の文藝は一旦、全く知識の羈約より切り放たるべし。而して其の放浪する所は情の大海なるべし。情の海より搖れ來たる千波萬波は、斷えず我が胸の岸邊にそゝろの音を立つれども、彼方の岸は究むべからず。今の文藝は先づ此の海に入りて自由を得よ、其の垢を洗へよ。」
第十二
「さは言へども、我れは自然主義を呪咀し去らんとするものにあらず。十九世紀の大なる文藝は、大半此の主義の影響を蒙りて生じたり。惡む所はただ其の極端のみ、知識に隸してより後の自然主義のみ。されば此の主義が更に一たび其の自然に還りて、飾らず、矯めざる自然の感情の源を穿つに至らば、是れもまた情海の旅程に帆を并ぶる一同行たらん。且つや、自然主義は、十九世紀の後半に於いて、彼れが如くならざるを得ざりし理由あり。ローマンチシズムの浪は如何に寄せ返したりとも、一方に於ける知識の進歩普及は、駸々として秒時も止まらず。現に眼に見、耳に聞く所の驚嘆は、すべて知識の事業なり。斯くして、知識は遂に牢乎移すべからざる基礎を近代の人心に据ゑたり。何人が如何なる方向に活動を起こさんとするにあたりても、傍に知識の一席あるをば無視すること能はず。知識は常に何事にも其の言を挿むを忘れざりし。之れを觀るときは、自然主義はまた時勢なり。されど茲に自然主義と手を分かちて行きし一派あり。十九世紀の兒と生まれし限りは、事に觸れ物に接して、知識は泉と湧き絲と縺れて止め途なし。彼等は、此の含蓄豐かなる知識をとりて、生きたるまゝ直ちに文藝の俎上に抛たんとす。科學者の爲す如く、死なして之れを截り出さんは容易の業なれど、願はくは之れを活きたる一塊の物として解きほぐしたし。如何にせば、我等が胸底の知の泉は其の甘味を失はずして世に流布せんか。彼等は斯くの如く案じわづらひたり。古のローマンチシストは「感情の自然の流れ」と叫びたれど、今は「知識の自然の流れ」と叫ぶものあらんとす。イブセン等が行けるは此の道なり。
イブセン來たりぬ。老體を杖に支へながら、巧みに青赤兩道の中間をあやどり行くを見られよ。彼は所謂近世問題劇(プロブレム、プレー)の祖なり。問題劇といふ語の意義は廣けれども、近時歐洲に於いて、此の名を冠するのは、普通に道徳問題と相渉れるものなり。或者は、之れをイブセンの社會問題劇といふ。されども、イブセンが取り扱ひたる問題は、ゾラが、飲酒問題、金力問題、教權問題といふが如きものを取り扱ひたるの故を以て、社會問題に携はれりと稱せらるゝとは類を殊にす。イブセンの問題は更に深し、道徳問題なり、而かも第二義道徳にはあらずして、第一義道徳の問題なり、道徳の根本に關する問題なり、哲學的、人生觀的なり。
八年の間、我れ我れを知らねば、人をも知らず。唯不自然なる人形の如く日を送り來しノラが、一日俄然として眼を開けば、我れは尊き自然の我れを僞はりたり。我が眞を追はん爲には、慈愛ある夫も、いとしき我が子も、顧みるには足らず、籠の戸濳りし小鳥の如く、まつしぐらに高行く感情と翔りたる、また哀れならずや。罪もなき夫を鰥にし、罪もなき我が子を孤にする、それも道徳の心に苦しからずとは言はず。されど我れは之れよりも尊きものを見出せり、之れよりも高き道徳を認めたり。我が自然の自由を追うて走る心中の情は、夫のため、子のための道徳よりも更に尊からずや。一篇の『ノラ』は斯く問ひぬ。やがて是れイブセンが提起せる道徳問題なり。我れは思ふ、是れ好個の哲學なり、含蓄ある知識なり、イブセンは、巧みに之れを感情の海にすくひ取りて、一流の文藝をなせり。されども、其の所含あまりに明瞭なるが爲め、新奇の色を失はざる限りは、人の視聽をも動かせど、終には墮して、知識に消化せられ了せん事を恐る。知識に囚はれたりとはいはず、一歩すれば則はち囚はれんとするものなりといふ。されば知識に飽きたる十九世紀末は、此の異彩ある文藝を早くも反動の氣勢によりて拂拭し去らんとす。我れはむしろ此の種のものに一片の愛着心を有するなり。
次に來たらんとするものは、獨のフプトマン。ズーダーマン英のピネロ等ならむ。前なる二人はイブセンの跡に續きながら、斷えず身を赤き道に傾くるを見ずや。後の一人ピネロは、むしろ一路イブセンが跡のみを追ふと見えたり。
ピネロは地位に於いてアーサー、ジョーンスと共に英國劇作者界の泰斗たれども、イブセン風なる問題劇の末路甚だ振はず。動々もすれば過去に屬する者と見られんとす。其の回頭期を示したる『後のタンカレー夫人』以來、また一世を動かすべき作なし。此の作と並ぶべきものは、ズダーマンが『其代榮へよ』の一篇ならんか。二つながら一婦人が夫に對する我れと過去の我れ若しくは他面の我れとの衝突を主題とし、其の婦人の滅亡によりて僅かに其の衝突も滅亡すと描く。之れより來たる解決の感は、人によりて種々なるを得べし。我れは以上の作風を名づけて哲理的といはん。」
第十三
「哲理的なる文藝は、近代の知識の非常なる發射力に應じて生ぜしものなり。而して斯くの如き思想上の形勢は、實に文藝復興以降數百年に亘れる一大經過の結果なるが故に、萬人如何ともすること能はず。凡そ一旦十九世紀に身を置いたる者は、文藝に於いても宗教に於いても、決して知識の壓迫力を度外視するを得ざるなり。さるが故に、工風はおのづから如何にして、此の知識を文藝の海に溺らしむるを得んかといふ一點に集まる。知識は常に感情を手取りにして、解體し殺戮せんとす、是れ事實なり。文藝はすなはち感情を斯くの如き危險より拯はんが爲め、知識の足がゝりとなり爪がゝりとなるべき一切のものを包被し、若しくは除去せんとすることあり。之れを、我れは名づけて神秘的といふ。哲理的文藝は、大膽にありのまゝに理知を結撰して、そこに文藝を見んとすれども、神秘的文藝は、退いて十九世紀が集積したる知識より回避せんと欲す、明らかなる月の夜に爛〓(「火」+「曼」)の花を見んは、妙ならぬにあらざれど、俗事の眼を遮り來たるを如何にせん。暗夜靜かに滿天の星と語るの神秘さいかばかりぞや。知識は限りあり。感情は限りなし。知識の盡く所はやがて神秘なり。獨乙近代の畫家といふときは、人まづベクリンとメンチェルを擧ぐ。メンチェルが畫ける所は、宮廷的貴族的のもの多くして、最も有名なるは今伯林の王城にある先帝戴冠式の圖なり。寫實派の巨擘と稱す。之れに對してベクリンは過去數十年を代表すべき理想派畫家の棟梁といはるれども、特色は、其の神秘なる暗色乃至對照色を用ひて、幽玄の情を之れに寄するにあり。有名なる『墓島』の圖は、最もよく此の作者を代表す。矗々として大魔王の如く并び立てる杉檜なんどの、只輪郭のみ青く黒く染め出されて、凄涼の氣まづ人を襲ふ所に、樹間極めて小さく、而も極めて鮮やかに一基の墓石立てり。其の前には白衣の女、髪ふり亂したるが、之れも墓石に釣り合ふ程に小さく、鮮やかに、膝を折りて禮拝の掌を合わす。繋ぎ捨てたる舟は彼方にあり。全幅の色調、寂然、また蕭然、神秘の氣咄々として人に迫るを覺ゆ。斯くの如き畫に就いて見るも、神秘的文藝は理知を要せず、また之れを有せず。尋常の事象よりして、直ちに或る深奧不可思議なる感情に闖入す。中間に理知の容啄を許さず、是れ其の知識的文藝に反して起るべき資を有する所以なり。
更にまた神秘的と連續して見らるゝは、超自然的といふことなれども、茲には之れを神秘的といふ項下に合せんとす。蓋し超自然に材を取るの發意は、是れによりて知識の干渉を一排し、以て自由廣濶なる感情の天地に羽うたんとするにあればなり。超自然的、超人間的なるが故に、ここに驚異來たり、不可思議來たり、神秘來たるは當然の數なるべし。
超自然的文藝の好例はオペラに多し。音樂界にありてローマンチシズムの近祖と稱せらるゝ獨のヴェーバーが『フライシユッツ』中、主人公が惡魔に教えられて魔術の彈丸を鋳る一場は、下には巖穴の間に髑髏の影亂離として、上には妖雲起つて頻りに東西し、全面の光景おのづから遠く人間界を出て、鬼氣人を襲ふと共に、沈痛、雄大、神秘なる音樂は、我れを導いて、廓落涯りなき世界に入らしむ。此の瞬間、我れはまた知識を以て其の境の假實を儉するに堪へざるなり。其の他ワグナーのジーグフリートが、鳥の高音に導かれて、歌ひつれながら、ブリュンヒルデの長夜の眠りを醒さんと火もて圍める巖上に登り行くあたり、ロルチングのウンデヰネが、男の邸宅見る/\海底と變りたる龍宮に、始めて男と戀を全うする一齣、みな知識以外に出でゝ近代文藝の大を致せるためしなり。我れは之れを總稱して神秘的といふ。知識を絶し、若しくは知識を消したる形といふ義なり。」
第十四
「今若し上の如き諸多の思潮を、縦に次第して見る時は、またおのづから別樣の意義あるを感ず。即ち自然主義、哲理主義よりして神秘主義乃至標象主義に至れる傾向を推し延ばすときは、次に來たるべき頂點は、おのづから明らかなるにあらずや。曰はく、宗教的といふこと是れなり。
宗教的といふときは、人は直ちに露西亞のトルストイを連想するならん。されども茲にいふところは之れと異なり。思ふに、トルストイは既成主教に囚はれたるにあらざるか。見よ、彼方の赤き道より、殿として登場するものは、此の聖人なり。彼れが教義を具象的に見得る好作の一例は、『復活』ならんか。主人公ネフリユドフと、女主人公カチューシャとが、西比利亞の荒原に於いて、遂に博愛献身の大精神を全うしたる、はた其の取材取景の上に見はれたる所々の基督教的感想は、げに誠實と覺えたり。一味の誠實、是れだにあらば、如何なる感情か描いて人を動かさざるべき。トルストイの文藝は實に宗教的なり。されども、此の場合に於ける宗教は基督教なり。トルストイの所詮基督教的なり。彼れは既成宗教に囚はれたりとは、此の義に外ならず。それ基督教の教義は、大體に於いて已に餘りに明白なり。愛といふ一語、枝葉の解釋は幾ばくあらんも、其の根本的意義は殆ど自明なり。直覺なり。又其の範圍は余りに廣大にして、抽象に近づき、刺戟力を缺く。此等の理由よりして、我れは此のもの文藝全般の生命となるべき題目にはあらずと斷ぜんとす。感情の海は無邊際なり。若し一切の文藝は愛(廣義の)の説法ならざるべからずといはゞ、百弊は立どころに生ぜん。前に擧げたるイブセンの『ノラ』は、斯くの如き基督教義をば、宣傳せざれども、其の大文藝たる既得の地位は何人も奪ふこと能はざるべし。トルストイが『藝術論』中の美論に見るときは、彼れが其の結論を基督教に嫁せしめたるの嫌は避くべからず。彼れおもへらく、美の客觀的説明は次第に蹉躓し去りて、主観の感情のみとなれり。文藝は快感情にして、また他に對して感染力を有するものなり。文藝は文藝の爲めにあらずして、人間の爲めに存在す。故に又道徳とも無交渉なること能わず。文藝が感染的に人と人とを結合するは善事ならずや。此等の點よりいふも、最も文藝に適したる感情は此基督の精神なり。但し茲に基督教といふは、其の踏襲的意味をいふにはあらず、眞精神を指すなりと。眞精神は可なり。されども、尚ほ之れを基督教と限るが故に、之れに合せざるものは不善となり、不美となりて斥けらる。殊に近代の文藝に至りては、此の如き、藩籬の中に入り得ざるもの、數ふるに遑なからん。而も我れは此等の凡てを一掃して火中に投ずるの勇氣を有せず。トルストイは基督教に囚はれたるにあらざるか。
文藝の上にて、宗教的といふときは、其の意一層深し。我等が凡ての文藝に對するときは一種微妙の快味を感ず。前後左右を忘却して醉ひ入りたるが如き醇味を嘗む。盖し快樂の擴充せられたる状態なり。此の點よりいふときは、文藝の悦樂には高下の品等なし、凡て絶對、唯一、平等なり。されども斯くの如き感情の下に潜める知識は、到底永く無言にして已むべくもあらず。或る場合には、日常道徳の聲となつて善惡の批議を試み、或る場合には科學の聲となつて、眞僞の判斷を下すならん。哲理的文藝は則ち之れを導いて、理趣そのまゝを情の衣に包みたり、味ある文藝の一方式たり。神秘的、標象的文藝はまた、此の知識の明りを閉ぢ去つて、感情の暗所空所に美の神を安置せんとせり。之れも風情ある文藝の一方式たるを失はず。去りながら、此等のもの單に此に止まらば、美の最上座は尚ほ一扉の奧にあるべし。我等が眞に大なる文藝に於いて味ふ最後の者は、言ひ難き一種の妙機なり。我れ之れを何とか説かん。譬へば讀下に、觀底に、鏗然戞然として音を成すが如き機微あるなり。魂魄愕くの境あるなり。事は一小部なれども、其事直ちに全人間、否我が全經驗に響きわたりて、人生、運命などいふものに今更の如く頭を回らし來たるの情禁じがたきの謂なり、哲理的より進んで、其の上に悟入あるなり、神秘的より進んで、其の奧に直觀あるなり。之れを宗教的といふ。要するに此くの如き主義にての宗教的とは、人生最後の命運に回顧するの情を刺戟するなり。文藝の奧に、廓落として、廣大無邊の天地開け來たるなり。文藝は此の域に達して始めて眞に大なりと謂ふべし。」
第十五
「東海の客。我が宗教的文藝といふの意義を領せられしか、いかに。文藝一たび此の妙相を着くる時は、たとひ其は刹那的たらんとも、聊かも厭ふところにあらず、文藝は滿足すべし。之れを讀むもの、見るもの、聞くもの、みな必ず是れによりて。忘れがたき妙旨を味ひ得べし。
而して文藝が漸く此くの如き域に向かはんとすると共に、全般の思想界また、傾き行く所は宗教にあるか。世人或は未だ意識せずして、さま/″\のものを要求しつゝあることもあらん、而も其の落ちつく所は、宗教を求むるの聲なりしことを發見するの日、必ず來たるべし。たゞ我がいふ宗教は、此の所にも既成の宗教を指すにあらず、一層廣き意味に於いてするなり。各個人各個の教義出づるも妨げず。またわば求むる宗教は、理知の調和を要するものにも非ず。宗教は所詮感情なり、理知の絶したる所に生ずる一種の感情ならざるべからず。從つて之れに到達する方式は、悟入的、頓悟的なるの外なからんか。而かして此くの如き感情は、傳染的なるか、または個々自發ならざるべからざるか。此は我が茲に答ふる能はざる所なり。
宗教の意義、上の如くなる時は、之れに入らんこと甚だ容易、また随意とはいふべからず。一旦之れに入る時は、其の持續及び復現も必ずしも難事にあらざること、學者等のいふが如きものあらん。されども、先づ入ること、易からず。此に於いてか文藝の門を開いて、我等は、そこに少時ながらの妙法を示さんと欲す。
あゝ我れ論に興湧きて、いたくも夜を更かしたり。今夜はさらば。」
名殘惜しく、袖を引き止めんとするに、姿は早くも失せて、彼方水天の極みに、青赤の雲道虹の如く消ゆると見れば、今まで開いたりし天と水とは再び相迫つて、僅にもとの一髪線の明るみを殘すのみ。天地闇々、山腹なるラワ゛の火もまた火勢衰へたりと覺し。
後の半夜は、狹き船室の寢床に、眠りもやらで過ごせしが、船は未明に錨を拔いたり。而して歸來早くも百餘日、ヴェシゥヰ゛アスの火は今も燃ゆるなるべし。
附 記
わがナポリの沖の一夜の瞑想は、ダンテをして我れに情趣的、宗教的の二語を語らしめたり。文藝の舟を知識の杭より解き放ち、情趣の海に浮んで宗教の岸に到らしめよ。取るべき針路は、哲理的、可なり、神秘的、可なり、標象的、可なり、はた自然的、可なり、寫實的、可なり。要は目ざす所に一境非凡のもの、人をして、胸躍らしむるものあるに止まる。是れ幻中のダンテが説法なり。
我れおもへらく、情趣的よし、宗教的よし。されども尚此の外に、日本の現代といふ特殊の事情に應ずべき文藝觀なかるべからず。其は、正しく日本的若しくは東洋的文藝の發揮といふことならんか。時は國興こり、國民的自覺生ずるの秋なり。東西洋の感情には根柢に於いて到底容易に混ずべからざるの相違あり。此の感情の發揮たる文藝は、さればまた、東西別彩として存するも當然の事ならずや。文藝若し終には世界に統一せらるべしといはゞ、それにても可ならん。只其の前に當つて、先づ十分に自家を發展せしめんと要するなり。我れ甞て匈牙利に遊び、劣りたる西亞の文明が、千年の間に如何に全く、勝りたる東歐の文明に征服せられ滅亡せられたるかを見て、涙のにじむを禁じ得ざりし。日本は先づ日本乃至東洋の文明を確立するの必要を感ぜんか。
英にキップリング等の英帝国主義を歌へるあり。独逸の文藝は世界にありて、最も多く國民的といふことに意を注げるものなるべし。十八世紀後半以降の、いはゆるローマンチックの文藝が、此の一語によりていかに誠實を加へ、奮發を加へたるかは、史を讀めるものゝ知る所なり。近くは標象的文藝の蔭に、早くも自國文藝(ハイマート、クンスト)を喚ぶものあるも、此の國なり。日本文藝の特殊の刺戟は、それ東洋趣味の發揮といふことにあるか。
情趣的、宗教的、東洋的、此の關係論はなほあるべきなり。「放たれたる文藝」を説いて更に我が想を尋ねん。 (明治三十九年一月)
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