幕末ぶらりんこ  錦繍編


 この話は「いろんな処ぶらりんこ」 塔のへつり・大内宿の続きです。    いろんな処ぶらりんこ・塔のへつり・大内宿へ


 会津・新選組史跡 (散策日 10月30日)

午前中は塔のへつりと大内宿へ。相乗りタクシーを御薬園のところで降ろしてもらい、いったん旅館へ戻りました。「体調が悪いので新選組ぶらりんこには行かない。」という娘を一人置き去りにして(悪い母・・笑)、午後は自由気ままな私一人のぶらりんことなりました。

まず、会津若松まで会津周遊バスの「はいからさん号」に乗って行きました。さて、「会津新選組激戦の地」といわれる如来堂までどうやって行くか? 昨日会津武家屋敷の課長さんから詳しい行き方を教えて頂いたんですが、何となく自信なし。 タクシーに乗り、運転手さんに如来堂のあたり、「此処!」と印が付けてある会津若松市の観光地図を見せました。「如来堂?」と言いながら、運転手さんはタクシーを発進。どんどん郊外へと向かいます。 「たぶん、あの辺だと思うんですけど。」 近くまで行ってもどこに「新選組激戦の地」の石碑があるのかわかりません。如来堂とは地名です。。「如来堂周辺」地図の書いてある看板で確かめて、やっとの事でその場所に到着しました。「この場所は初めてです。へ〜、こんな場所があったんですか。」運転手さんは物珍しそうにタクシーから降りて、あたりをうろうろしています。(笑) なんだか・・私はあまりこの場所・・・。なので早々に引き返しました。 敷地内に大きなイチョウの木があって(樹齢100年以上)、「もしかしたら如来堂での激戦を見ていたかもしれないな。」などと思いました。が、しかし、あたり一面銀杏の実が落ちていて、くさいくさい・・・。(笑) 私と運転手さんはその上をズカズカ踏み荒らしていたので帰り、すんごいにおいが車内に・・・。(ウエッ)



会津周遊バス「はいからさん」号 如来堂(会津新選組激戦の地)



その後、七日町の阿弥陀寺まで連れて行ってもらいました。 此処は会津戦争で戦死した会津藩士(3000柱)の合葬墓があります。そして我らが藤田五郎夫妻の墓も。藤田五郎とは言わずと知れた新選組三番隊隊長 斎藤一の明治になってからの名前です。まず、本堂にお参り。「お花以外はお持ち帰り下さい。」の張り紙が貼ってありました。藤田家の墓に供物を置いていく人がいるのでしょう。早速墓にお参り。線香を上げ合掌。ご夫妻の冥福を祈りました。 そして会津藩士の合葬墓にも合掌。 阿弥陀寺にこの合葬墓を建てるため、明治になって、山川浩以下旧会津藩の人たちがどんなに苦労してお金を工面し、阿弥陀寺の土地を購入したか・・。このエピソードを思い出すたび涙が出ます。(お知りになりたい方は赤間倭子さん著『新選組 斎藤一の謎』をどうぞ。)



藤田五郎(斎藤一)の墓 会津藩士の合葬墓



阿弥陀寺を後にし、明治期会津一の海産物問屋で現在は会津の郷土料理屋兼旅館を経営している渋川問屋(昨年の会津旅行では郷土料理を堪能。女将さんが美人(笑))の前を通り過ぎ、清水屋跡まで歩きます。途中、お土産の会津木綿の店に立ち寄ったり、銘酒『会津中将』を買うため鶴之江酒造さんへ立ち寄ったりと 阿弥陀寺から鶴ヶ城まで、うーん、1時間半程の時間、いろんなお店をのぞきながら楽しくぶらりんこしていきました。



渋川問屋 某銀行前にある清水屋跡の表示板



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