ビンタン島の主な歴史は、中世後期まで遡ることになります。15世紀初頭、パラメーシュヴァラによってマラッカ王国(王朝)が建国されました(ビンタン島も含む)。周辺国の侵略等により、支配地が変わるものの、シンガポールを経て、マラッカの地に渡りました。当時マラッカは小さな村でしたが、経済の成長と共に支配地を拡大。マラッカ海峡を通る交易を支配できる体制をつくり上げ、また国王は初めてスルタンの称号を用い、イスラム教国としての道を歩みようになります。

 しかし、その繁栄は長く続かず、1511年、交易の利権を狙ったポルトガルが、世界で最も豊かな港と言われていたマラッカ港があるマラッカ王国を占領。敗れたマラッカ王朝は、マレ−半島南端のジョホ−ルやビンタン島に逃がれ、ジョホ−ル・リアウ王国(以下ジョホール王国)を建設することになります。ビンタン島は古代から地域貿易で栄えていたものの、ジョホール王国の建国、またマッラカ海峡南の方、中国とインドの間の航路上にあるなど地政学的に重要な位置にあったため、さらに発展することとなりました。そのため、首都がビンタン島におかれたこともありました。

 1641年、マッラカを支配していたをポルトガルをオランダが破ると、地域でオランダの影響が増大しました。イギリスも植民地政策を推し進めるなどして、この地域でオランダと事あるごとに紛争を繰り返し、18世紀末になると、イギリスはオランダからマッラカとリアウにある植民地を手にすることになりました。
1819年には、イギリス人のラッフルズはジョホールのスルタンからシンガポールを借り受け、植民地経営に着手。ジョホール王国は内紛が頻発するなどして地域での影響力は徐々になくなっていきます。1824年に英蘭協定が結ばれ、マラッカを含め、マレー半島(リアウ諸島を除く)はすべて英国の勢力下にあることが確認されました。

 ジョホール王国はイギリスの支配下に入ることになりますが、国としてはその後も続き、1948年にマラヤ連邦(その後のマレーシア連邦)が発足すると、そこの1州となりました。現在も、ここには世襲制のスルタン(王)がいます。第2次世界大戦後、インドネシアのオランダからの独立により、ビンタン島もインドネシアの一部となりました。ビンタン島のタンジュンピナン、その先に浮かぶプニュンガット島には、今でも王朝を偲ばせる建物などがあります。

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