帝国紀元188年
1月1日、トロウス・ゴルティ・ザーリップは6歳の誕生日を迎えた。もう、彼は、この
1月1日が自分のためだけに祝う日ではないことを知っている。秋の収穫を祝って、次の収穫を祈るための日であるということも。だが、今年は、どこかが微妙に違う。いつもより多くの視線が、彼に集中していた(トロウス『日記』)。
磨きあげられた床で
ラルテニア宰相
キャシス・マネイスが一歩前に進み出て、祝辞を読もうとする。宮廷の習慣によると玉座の者は、「もっと近くに寄れ」と、
謁見台
に呼び寄せるものである。しかし、
皇帝ガイウスは呼び寄せなかった。誰にも漏らすまいとしているが、すでに彼は死病にかかっていたのである。平常心を保って手にした
王笏を落とすまいとするあまり、結果として彼は宮廷の習慣を無視したことになる。
「おかしい」
と思いつつも、宰相
マネイスは失礼にならぬ程度の大声で祝辞を読み始めた(マネイス『獄中からの遺言』)。
「皇帝陛下の
御嫡孫殿下
が
御学齢に達せられたこと
を慶び……」
幼き皇孫には、宰相の言っている意味が分からない。自身について何かを言及していることだけは、分かる。彼は不安になり、左隣、中央寄りに立つ父親を見上げた。
皇太子は、無表情に近い微笑を浮かべている。姿勢は、肥満した体に似合わない直立不動。トロウスは、そっと溜め息をつき、謁見台から床を、室内を見渡す。
タスパロフ様式のきらびやかな内装。中に集う数十人の燕尾服と、同数の夜会服。無意識のうちに彼は「アルマ・アルツァ」の姿を探すが、当然、「謁見の間」に見当たらない……。外は、闇。屋内がきらびやかであればあるほど、外の闇は深く見える。トロウスは、魅せられたように、屋外の闇を見ていた(トロウス前掲書)。
宰相の長い祝辞を、平土間に立って我慢している人々の大半は、皇孫が屋外を見つめていることに、気づいた(
マネイス前掲書、アニビスク『備忘録』、エド・ネッリ『カルデラ通信』、ハドリアノス『西方回想録』)。
「長い祝辞に(自分同様)飽きられた」と親近感を抱く者もいれば、「外に出たいのであろう」と思う者もいた(
マネイス前掲書)。「外に出たいのであろう」と推測した者のうち半分は「元気なこと」と感じ(エド・ネッリ前掲書)、残り半分は「愚かな」と感じたのである(アニビスク前掲書)。
宰相の長い祝辞が終わったとき、
航空王と異名をとる航空機メーカー社長の
アノイ・リファノイ3世が前に(かなり)進み出た。彼は先の大戦における功績で、自国の
ソイディアからは
士爵、
ラルテニアからは
男爵の爵位を受ける予定であった(
トニャラルベン『セレシア帝国崩壊』)。しかし、本人は固辞する。誰も「遠慮深い」とは思わず、「もっと大きな野望に燃えている」と思っている。本人は笑って、どちらであるとも応えていなかったが。
「
新年おめでとうございます」
軽く言いつつ
航空王は懐から飛行機の模型を取り出し、
皇孫に手渡した。
「
お誕生日おめでとうございます
」
左端の母・
テオティワケン大公妃は鷹揚にほほ笑んでいる。玉座に付き添うように立つ
皇后は(このころ、まだ皇后は席に座らなかった)、当惑の表情を浮かべている。
皇帝は「物を手渡すなど言語道断」と怒っている(口には出さぬが)し、皇太子は「懐に物を持ち込み、それを出すなど、警備上での大きな手抜かり」と怒っている(やはり口には出さない)。
皇孫トロウス・ゴルティ・ザーリップは、手にした
リファノイ19式戦闘機の模型を細部まで点検した。
「これ、飛ぶの?」
星の戦闘機の異名を取る
リファノイ19式戦闘機は、鉛筆に翼をつけたような形で、尾翼の上に水平安定板があるという、大変スマートで斬新なデザインである。
リファノイ側では自信をもって「
最後の有人戦闘機」と豪語し、この最新式高高度迎撃戦闘機を
フロイディア帝国連邦諸国に納入していた。
リファノイ19に対する「これ、飛ぶの?」との言葉は、
アノイ・リファノイ3世にとって、このうえない侮辱であった。しかし彼は、かろうじて、怒りを堪える。
「……それは、模型でございますので」
「こんな形をした物が、実際に飛んでいるの?」
「飛んでいますとも!」
皇孫は聞こえないように「飛ばないのではないのかなあ」と言う。しかし、彼の小声は「航空王」に聞こえるには充分大きかった。
「…………」
実は、皇孫の直感による危惧は正しかったのである。製作者側はともかく、実際に飛ばす側にとって、
リファノイ19式戦闘機は「操縦性の悪い」飛行機であった(
ナミュルムル『連邦兵器と兵士その推移』)。すぐロールするくせに急激な方向転換は難しい。急な操作で失速しやすい。操縦席の視界もよくない。そもそも「長距離爆撃機を高高度で迎撃するための戦闘機」であるため、速度(とくに上昇速度)を重視し、格闘性能や操縦性などは二の次にされた飛行機である。皇孫は、子供向けの人形劇
雷電救助隊
に出てくる垂直離着陸輸送機を思い浮かべた。もっとも、「子供向け」と言いつつも大人の鑑賞にも耐えられるものだったらしいが(ノスウェルダン『人形劇制作苦心惨譚』)。
「ぼく、ユーポップ2号
のようなのがいいな!」
皇孫に自社製品の模型を手渡すなどという強烈な売り込みに辟易していた一同は、爆笑に包まれる。
末席の方では、笑わないものが何人かいた。聞こえなかったからではなく、垂直離着陸機の可能性を真剣に検討していたからである(拙著『
砂賊戦争討滅記』、パムトン・ユビウス『ステルス攻撃機
VF3開発秘史』)。この末席の人々とトロウスが、後に垂直離着陸機や短距離滑走攻撃機、史上最速長距離迎撃機などを開発していくのであるが、まだ先の話である。
「あのような垂直離着陸機は、夢や作り話の世界だけのものでございます」と航空王は笑い飛ばす。夢や作り話の世界ではない。先の大戦中に実現した。コニギア人の
ナムツィール兄弟
が、垂直上昇用・推進用の、二種類のエンジンを搭載した垂直離着陸機を開発している。だが
リファノイは、その支援戦闘機
EG6「レグローフ」の試みが「戦力的に役に立たず」失敗していることも知っていた(
ナミュルムル前掲書)。皇孫は、ただ「あっそう」と応える。少年の返事を愚かしく感じた
リファノイは、不快そうに黙った。
このときのやり取りを、
リファノイは、トロウスに対する陰口を含めて、面白おかしく周囲に披露した。オチとして最後に自らの言葉を付け加える。
「これではテオティワケン大公の君ではなく、暗愚の君だ!」(新トゥルミス大学編『サーゲム遺構文献集』)
ドロリッド・トイトイカンとは、ソイディア公用ラッティア語で、「テオティワケン大公」の意味である。ザーリップ家の次期当主の称号を、当時、「テオテイワケン大公」と言った。彼は、「トイトイカン」の語を「トイディー(暗愚)」と言い換えてだじゃれを言ったのである。リファノイの側近は、ラルテニアの象徴テオテイワケン大公を「暗愚」と言いかえることによって、政治的な優越感に浸ることができた。
このエピソードだけならば、トロウスを「暗愚の君」と愚弄するものは、多くなかったであろう。しかし不幸なことに、彼の言動は、より「暗愚」であるよう周囲に印象づけていくのである。