新宮殿の、集中医療局の一室にて、新生児は初めて外界というものを目にした。それは淡く白く乱反射し、規則正しい立体を形作っていた。赤子はむずかる。殺菌消毒用の薬品の匂いに嫌悪感を催したのである。
「あ・あ・あ・あ」
声にならない泣き声を、聞き取れないほど小さくあげる。彼が「普通に」泣くと、周囲にとっては声が大きすぎ、周りを不快にさせるのである(アニビスク『備忘録』、エド・ネッリ『カルデラ通信』)。そして、周りの不快感は彼自身に跳ね返り、彼自身をさらに不愉快にさせるのである。そのことを、数回の実験の後、彼は学習した。
だれもいない。
彼の母親は、持病の喘息が悪化し、別室で看護されている(アニビスク前掲書)。
父親は、彼が起きているうちには来ない(トナレイ『手記』)。なぜなら
皇太子は、史上初の核戦争「
セレシア大戦」を終結すべく、宮廷外交に忙しいのだ。
彼の祖父たる
皇帝は、さらに忙しい(アニビスク前掲書)。(超大手航空機メーカー)
リファノイ」社の社主で、自他共に「
航空王」とも豪語するアノイ・リファノイ三世に戦闘機の代金支払い延期を申し入れ、明日は「
アシューシカ」軍用多連装ロケットの生産工場の視察に向かう。
彼の祖母も実家
ノレンバン帝国の更なる援助を取り付けるべく東奔西走している(エド・ネッリ前掲書)。
当時の宮廷扶育官たちは、「勤労意欲に欠けていた」という。
当時の侍従長ハドリアノスによれば、「女たちは日頃、控えの間で雑談にふけり、たまに気づいた時のみ、皇族に粉ミルクで授乳していた。しかも、授乳の前に、自宅の赤子たちのために宮殿から粉ミルクを多量に失敬していた」し、「男たちは、たとえ出勤したとしても雑談ばかりで仕事をしようとしない。そして、たまたま上司に叱責を受けたときのみ、赤子の意向にかかわらず、むつきごと放り出すよう手荒に、おしめを替えて」いたという(ハドリアノス『西方回想録』)。
やる気のない男女扶育官がたまに現れては定期的におしめを替えたり哺乳瓶から授乳したりする。こうして、望むと望まぬとにもかかわらず、彼の生活時計が形成されていった。生後数か月にして、彼は「諦観したほほ笑み」を習得した。そして、じっと(時間になるまで)待つ姿勢をすることを覚えた。さらに、彼はだれもいなくなれば、蓄積された疲労を涙とともに流すということまで覚えたのである。彼に無意識のうちに涙を流すくせがあったのは、この時の「学習」によるものかもしれない。
また、彼は後年、大量の書籍を購入することになる。漫画という表現媒体も好むようになるのであるが、しかし彼は
オルラック・ズートルクス『黒ぶち犬』を好まなかったという(「ラルテニア教育者新報211年1月号」所収、ラルツァペ「先帝陛下と教育問題」)。『黒ぶち犬』の登場人物は、みな子供の姿をしているが、当時のフロイディア社会の縮図ともいえるように描写されている。「子供のフリを大人が遊びながら演じているようにしか見えない」から彼は好まなかったという(トロウス『日記』)。
だが、それだけではなさそうである。というのも、彼は後に同級生に、『黒ぶち犬』の登場人物ルダルクスについて言及するようになる(新トゥルミス大学編『ドンパロイ遺構文献集』)。
「安心毛布を持てる者が羨ましい」
と彼は言っている。ルダルクスなる人物は、心理的な傷を負っており、手の指をくわえる癖が治らず、常に毛布を手放せない。毛布を手放すと「不安になる」からである。故に、ルダルクスは自分の毛布を「安心毛布」と呼び、常に手元から離さないのである(ズートルクス『黒ぶち犬』)。
史家は、皆、「安心毛布」のような挿話を無視している。そのうえ、彼が持っていた寂寥感に思いを寄せていない。そう、後に彼は死の床で「部屋に何か置いていないと、寂寥感を感じる」と言うようになるのである。おそらく、この集中治療室での体験が心理的な傷となっていたのであろう。