まだ壁の漆喰も乾かぬような新築の宮殿に、産声が轟きわたる。人は、「雷か」と思わず上空を見たと言う。しかし天空は、あくまでも穏やか。秋の日没後の残照が、全天を深く、尊い青紫色に染めていた。
一瞬遅れて、
聖ラモキエラ大聖堂から、祝福の鐘の音が、新都に鳴り響く。5時。栄えあるザーリップ家の、第16代当主の誕生である。
「男御子にござります!」
と堅苦しい
シルニェ語で、リフォルテップ博士が貴族たちに告げた。産婦人科医の使用した語句「ラヨル・ヒンラプ(皇太子という意味がある)」に、
テオテイワケン大公にして
ラルテニア帝国
皇太子たる
トナレイ・イリウスは、不快に感じる。彼の地位を、産まれたばかりの長男が脅かしたように錯覚したのである。しかし、決して表情に出さない。それどころか、おおいに満足そうな笑みを浮かべて、頷いている(
ダルハニユ『トナレイ・イリウス」伝』)。
後に作られた映画(
レンラヴ映画『雷』)では、ここで父の皇太子と祖父の
皇帝がかわるがわる赤子を抱くことになっている。しかし、実際には、そのようなことがなかった。まだ皇帝は、その場にいなかったからである(トナレイ『手記』、アニビスク『備忘録』)。父の皇太子は、ただ、じっと、ゆりかごの中の赤子を見守るだけだったのである。
皇太子トナレイ・イリウスは、僧侶と相場師が嫌いだった。
「彼らは働かずに金儲けをしている。
人は働いて金儲けすべきである」
と、彼は書き残している(トナレイ前掲書)。僧侶と相場師は「働かずに」金儲けしているとでも言いたいのであろう。
トナレイはその場に立っていた。居合わせた
大祭司レイバップから自らの子供を守ろうとするかのように、「ゆりかご」の側に立っていたのである。
レイバップは72歳。20年にわたり聖ラモキエラ大聖堂の
大祭司座を預かり、いにしえより伝えられる西方世界の至宝、
聖ユビウス十二帝冠の管理をしてきた。フロイディアン・
ボルストン教会では、「
十二帝冠のうち一つを受け継ぐ者の君臨する国」を「帝国」と定義している。トナレイは、教会が貸与する帝冠の継承予定者、次期君主の一人である。トナレイは教会にもっと敬意を払うべきである……、と大祭司は考えていた。ところが、目の前のトナレイは、レイバップに敬意を払うどころか大祭司を無視して、子供に触らせようとすらしない。
レイバップは
洗礼の儀式を執り行う予定だったのである。赤子に祝福の言葉をかけて、
王者に相応しい聖人の名前で呼びかける手筈になっていた。呼びかけられた名前は、赤子の
洗礼名として、一生のミドルネームとなるはずだったのである。だが、皇太子の態度を不快に思う大祭司は、無言で産室を立ち去った。
何人かの側近は慌てる。が、宮廷は教会を軽視する
テオテイケン大公すなわち皇太子の影響を受けており、大祭司をおし止めるものはいなかった。
大祭司と入れ替わりに、
ラルテニア帝国帝王にして
フロイディア帝国連邦
(「連邦帝国」ではなく、諸帝国によって形成された連邦、当時は「西方世界国際連盟」と同義)盟主たる
皇帝ガイウス・トネコンノ
が速足で入ってきた。
その颯爽たる歩き方は60歳の老人とは思えないし、その知力の確かなることは数年後に脳軟化症を患うとは思えないほどである。
彼の見たところ、ザーリップ家の幼き第16代当主には、
洗礼を施された形跡がない。洗礼名も与えられていないのであろう。ということは、
ボルストン教を奉じる西方世界において、赤子は一生苦労するであろう。……将来の元首を、「かわいそう」とガイウス・トネコンノ・ザーリップは見た。
皇帝は
皇太子を睨みつける、「エモン?」
一同はわからない。
ラルテニア公用
シルニェ語の「
名前」なのか、それとも帝都原住
エンボイアム語
で「
雷神」と言ったのか、西方世界教養語
テントロイートス
で「
万事よし」か。それとも
ラッティア語
で、
「
報告せよ」
との仰せかも知れぬ……。
皇帝は、一同に回答する暇を与えずに、来たときと同じく忙しい足取りで立ち去った。
「(洗礼)名は?」と父帝は(どういうわけか
セレシア語で)、
皇太子の教会軽視の姿勢を難詰したのである。そのことをトナレイは、正確に理解していた(ダルハニユ前掲書)。しかし、彼は、聞き慣れた母国語エンボイアムで言われたように、理解するふりをする。
「しかり、雷神なるべきかな、これは」
とシルニェ、エンボイアム、テントロイートス三つの言語をごちゃまぜにして
皇太子は言う。何も知らない赤子は大声を張り上げて、泣いている。防音二重窓を、泣き声が震わせている。
父親トナレイは少し訛りのある
シルニェ語で、いっこうに泣き止まない赤子に告げる。
「雷神トロウスよ、強くあれ」
この言葉を聞き付けた側近が新生児を「トロウス・ゴルティ」と呼ぶようになり、そして、第16代当主の名前となったのである。