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 上原 愛子       明治15年(1882)7月16日〜昭和47年(1972)3月10日 
 大正〜昭和期のキリスト教伝道者。「ハジチ」の伝道者。

<生い立ち> 
 沖縄県読谷村字座喜味に生まれた。

<受洗> 
 熱心なクリスチャンであった愛子の母(嘉永3年5月18日生まれ)の影響で、17歳の時に愛子は受洗した。

<結婚、離婚> 
 21歳のとき、岡村の豪農・知花家と結婚して2子をもうけるが、結婚3年でキリスト教信徒ということで離婚させられた。

<献身> 
 読谷教会の比嘉保彦から読み書きを初歩から習い、東京聖書学院へ入学し、その後、長崎の活水女学院に学び、大阪の蒲生教会に赴任した。

 東京聖書学院は、明治34年4月、神田表神保町に中央福音伝道館と同時にカウマン中田重治らによって開設された伝道者養成所である。笹尾鐡三郎が教授陣に参加した。大正11年(1922)から一宮政吉が救世軍から参加し、ホーリネス教会の霊性に大いなる刺激を与えた。しかし、昭和7年の中田重治の連続講演をめぐって教義の相違から分裂し、神学校も「東京聖書学校」が新しくできた。

 愛子を指導した比嘉保彦は、沖縄県読谷村出身の日本メソジスト教会牧師である。
 子どもの続けざまの死を、ユタ(沖縄の霊媒者)に不運の解明と将来を占わせていたが、同地のメソジスト教会の立て看板に書かれていたマタイ伝11:28に心を引きつけられ、クリスチャン医師の勧めで牧師を訪ねて以来、キリスト教を受け入れ受洗した。当時、あと1月で校長在職10年の恩給がつくというとき、召命を感じて敢然と辞職した。献身するために鎮西学院神学部に学び、卒業後は郷里伝道に従事した。
 読谷教会を牧会中に迫害が起こり、村落との共同体である精糖工場を追われたが、教会員が結束してサトウキビを大量に栽培、製糖工場を建てて精糖に当たり、かえって地域から高く評価され迫害が納まり教会は進展したとのこと。

<台湾伝道> 
 愛子は、台湾に渡った。多分、昭和19年(1944)8月に台湾疎開をしたときの伝道活動であろう。
 愛子の母と息子(昭和8年生まれ)と3人で台湾疎開の集団のなかにいた。一説には愛子の勧めで台湾疎開が実現したと言われている。ともかく、米軍潜水艦からの魚雷攻撃に対する不安のなか、愛子の母が航路の船中でみんなに祈りを勧め、ともに祈って1週間の航海をして台湾に到着した。

 1週間かけて疎開した台湾も沖縄と変わりなく空襲警報に悩まされながら学童期の子どもたちは学校で勉強を、愛子はいつでも讃美歌と聖書を持ち歩き、キリスト教の集会を開いていた。しかし、終戦の昭和20年(1945)の8月15日、南投国民学校でラジオから流れる昭和天皇の放送により、学校は閉鎖状態、日本人は投石などの嫌がらせを受ける羽目になった。

 愛子らは、台湾からひとまず八重山へ引き上げて1年半ほどを過ごした。家族は昭和22年12月ごろ沖縄に戻るのだが、愛子は八重山に留まってキリスト教伝道を続けた。自分で藁葺きの家を作ったりしながら頑張って、家族と過ごした年月を加えて6年間を地域のために尽くした。

<コザ教会> 
 その後、沖縄本島中部でコザ教会の開拓伝道に従事した。
 残念ながら、昭和24年(1949)発行の『日本基督教団年鑑』には沖縄全体の教会は扱われていないため、資料による詳細は分からないまま。愛子は沖縄のコザ教会のほか、美里教会を主の聖名のもとに開拓した。

 90歳で死去。
出 典 『キリスト教歴史』 『女性人名』

読谷村(http://www.vill.yomitan.okinawa.jp/index.shtml
読谷村史(
http://www.k0001.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec05/cont00/docu178.htm
活水女子大学(http://www.kwassui.ac.jp/index2.htm)
日本基督教団蒲生教会 (http://www6.ocn.ne.jp/~gamow/
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