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 一宮 隆     明治20年(1887)8月17日〜昭和29年(1954)12月2日
 救世軍から転向したホーリネス教会伝道者。一宮政吉の妻。

 隆は、岡山県津山市伏見町にて、父・平尾諫三郎と母・しづの長女として生まれた。
 旧藩校鶴山塾から小学校高等科を経て、神戸女学院に入学した。このころ、キリスト教に入信した。
 同校卒業後、四国の東雲女学校の教諭となった。この女学校は、明治19年(1886)に設立された。牧師である二宮邦次郎が初代校長として創立・運営に当たったキリスト教主義の女学校である。

 神戸女学院の同級生に一宮愛がいた。のち、愛の兄・政吉と結婚することとなる。
 一宮家は、祖父母が淡路島で士族階級であったが、明治維新後の士族階級の経済競争の困難さを祖父母はなめ、とりわけ祖父は浄瑠璃や女遊び、飲酒や賭博に走り、財産をすり減らした。自責と悔恨、未来への絶望感に陥っていた。そのころ淡路島に英国教会の司祭フォスのもつミッションがあって、祖父母はキリスト教に導かれた。が、明治初期はまだキリスト教に対する迫害が多かった。きっと迫害に耐えるに価値ある信仰を着実に与えられたのであろう。一宮家は、やがて淡路島から神戸に移住して種々の商売を試みたあと牧場(牛乳屋)を昭和20年(1945)の空襲で牛が焼け死ぬまで40年以上続いた。

 隆は、神戸女学院の同級生一宮愛と知り合い、その関係で一宮家と親しくなってもいた。その影響で救世軍に加わり、士官としてロンドンまで行ったことがある。

 大正2年(1913)11月18日、山室軍平の媒酌で一宮政吉と結婚した。
 この年は山室軍平・機恵子夫妻に7番目の善子(四女)が誕生した年であった。それから3年後に機恵子は永眠し、後妻として水野悦子が遺された子らの母親となり軍平を支えた。一宮政吉・隆夫妻は大正11年まで救世軍に属したが、その後は信仰上の相違から中田重治のホーリネス教会へと夫妻ともども転向したので、その後の往来は、現在は不詳である。

 <やりかけ>
出 典 『焔の人』

神戸女学院 http://ns.kobe-c.ac.jp/index.html
松山東雲学園 http://www.shinonome.ac.jp/shinonome/index.php