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 赤木 蘇平       天保12年4月9日(1841.5.29)〜明治38年(1905)3月22日
医師

《生い立ち》
 備中高梁藩に生まれた。
 大阪や倉敷で医術を学び、蘭学を志し、明治元年(1868)高梁に戻り、医院を開業した。
 同年、川瀬平治の娘・いしと結婚した。

 明治12年(1879)岡山から金森通倫らが伝道に来た。高梁にはキリスト教が伝えられる前には開交社という政治クラブが組織され、自由民権運動、国会開設運動が進められていたが、キリスト教導入にも積極的であった。

 次いでアメリカン・ボード宣教医ベリー,J.C.が施療所を開設したことから西洋医学に関心をもち、ベリーに接し、彼のピューリタン的人格にひかれていった。蘇平は、留岡幸助が風土病の肺ジストマに罹ったとき、ベリーを留岡幸助に紹介した。留岡幸助はベリーの診察を受けるとともにキリスト教のことも指導を受けた。留岡幸助の将来はベリーの感化によるものが大きい。

 翌13年になると、新島襄の伝道などにより、蘇平はキリスト教に開眼していった。

 明治15年(1882)4月26日、高梁教会設立の日に、金森通倫から柴原宗助らとともに受洗した。蘇平は高梁教会設立者のひとりで、また教会役員として高梁教会の発展に貢献した。

 妻のいしは、蘇平が受洗してもキリスト教徒にはなるまいと固く決心していた。しかし、赤木家に同居していた留岡幸助や金森通倫あるいは二宮邦次郎たちから教えを受けるうちに妻・いしも蘇平が受洗した翌年、金森通倫から明治16年(1883)に受洗するに至った。

 医師としては、貧富を問わず患者に接した。当時は、蘇平らの住んでいた地域にキリスト教徒とは交際しないという申し合わせがあったので、患者は日増しに減り、家計も苦しくなったが、蘇平夫妻は信仰を固くして、むしろ夫の家族などを救いに導いた。
出 典 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『キリスト教社会福祉思想史の研究』