「戦争と平和」は、学生時代に強い関心を持っていたテーマ。卒業論文も修士論文もそれをテーマにして書いた。そのときは主に政治思想史や政治史の観点から研究をしていた。
本書での中井のアプローチはそうした政治学系のアプローチとはまったく違う。人間の、個人と集団、両面の心理と、白村江までさかのぼるような大局的な歴史観から、鋭く戦争と平和という事象を分析している。
こういうアプローチを知っていたなら、私の研究も違ったものになっていたかもしれない。私が中井久夫を知ったのは三十代になってからだから、ないものねだりというものだろう。
とくに注目したのは、戦争体験者が亡くなってしまうとまた戦争が始まるという説。とても説得力がある。現在の自民党でも、戦争を知らない世襲議員や女性議員が憲法改正や軍拡に積極的なことが気になる。
戦時の心理といえば、戦時にあって大局に流され横暴になったり、それこそ敵国人を鬼畜と信じるような愚か者と、どんな時流のなかでも個人の尊厳や敵国への敬意を忘れない賢者を中井は数多く紹介している。そういう個人個人で異なる理性に中井は強い関心を寄せているように思われる。この家族史だけでも非常に読み応えがある。
それにしても、こうした愚者と賢者の違いはどこで生じるのか。家庭教育だろうか。確かに中井が披露する家族史を読むと、知的で高潔な軍人だった曽祖父の影響が孫にまで伝わっているように感じる。
歴史学者の加藤陽子との対談では専門家顔負けの該博な知識を広げて濃密な会話になっている。幅広く、深い教養を見せつけられて、これまで何度か書いたけど、中井久夫は戦前型教育を受けた最後の世代とあらためて思った。
それを強く感じたのが海老坂武との対談。一年しか生まれが違わないのに、思春期の学校体験がまったく違う。我が家でも父が昭和7年生まれで旧制中学体験者で、母は10年生まれで新制中学世代。二人のあいだには学校体験がまったく違っていることを実感する。
海老坂との対談では、世界の現状について海老坂が悲観的な心境であるのに対して、中井は割と楽観的に構えている。この違いは内省的な文学者と常に治癒を期待する性質を持つ医師との違いから生じているのだろうか。
21世紀の戦争は、ウクライナにしてもパレスチナにしても、徒らに長期化する「堕落」が顕著。戦争の根絶にはほど遠い。
私は、何より個人の暴力性を克服しなければ、集団の暴力性の発露である戦争を根絶することはできないと考えている。本書でもこの点は指摘されている。