満開の桜

脳に汗をかくような読書だった。元はラジオでの講演ということで、文章はわかりやすく訳文も読みやすい。日本でいうよくできた新書のような感じ。とはいえ、一文一文に重みがあり、理解しながら読み進めるためにはかなりの時間を要した。

テイラーについて詳しくないので先に訳者あとがきと解説を読んだ。これは大いに読解の助けになった。

読み取ったポイントは三つ。バランス感覚、闘争と表現、〈ほんもの〉という理想を目指す生き方。

バランス感覚。テイラーは、極端な理論や社会分析を徹底的に批判する。行き過ぎた個人主義、道具的理性(効率と生産)の優位、自由の喪失を意味する穏やかな専制、一部の知識人のあきらめの表明である文化的ペシミズム。マルクス主義のように社会がある段階に到達すれば"自動的に"人間は解放され自由になるという単純な理論も斥ける。

〈ほんもの〉(authenticity)というテイラーが掲げる理想は、極端な立場をとらない。かといって古代哲学のいう中庸という態度とも違う。なぜなら、〈ほんもの〉は静的な態度ではなく、動的な闘争だから。

その意味で、解説と帯にある「『希望』へのリアリズム」という言葉を正鵠を射ていると思う。

「闘争」という言葉は何度も使われている。短絡的な〇〇主義を避け、かといってあきらめにも陥らずに生きていくためには、常に活動的で闘争を続けなければならない。「闘争」を鼓舞するテイラーの筆致は力強く、読者を激励する。

わたしたちはつねに、重要な他者がわたしたちのうちに承認しようとするアイデンティティとの対話のなかで、またときには闘争のなかで、自分のアイデンティティを定義しているのです。(第四章 逃れられない地平)

アイデンティティは自分一人で作り出せるものではなく、自分の置かれた環境や自分を取り巻く人間関係のなかで定まっていくという考え方にも注目したい。

「自分らしさ」も、こうした「表現」を通じて行われる「闘争」を続けるなかで形作られていく。

わたしたちが自分はいったいどんな人間になれるかを発見するのは、そうした自分らしいと考える生活様式にふさわしくなることによって、つまり、自分のなかにある自分だけのものをことばと行動のうちに表現することによってなのです。(第六章 主観主義へのすべり坂)

「闘争」は「創造」「表現」という言葉に置き換えることもできるだろう。さらに本書で使われていないけれど、「社会や他者への働きかけ」という考え方も「闘争」の形の一つとみなせると私は理解した。「創造」や「表現」は、芸術作品の「制作」だけを意味しない。社会へ、また政治へ積極的に関わることも「創造」「表現」の行為とみなすことができる。

ここで疑問に思うことある。〈ほんもの〉を目指して「闘争」し、「表現」するのはどのような人間だろうか。

本書を読むかぎり、テイラーは、〈ほんもの〉の担い手を、いわゆる知識人や高学歴者に限ってはいない。そして、〈ほんもの〉を志向する生き方は誰にでも可能であり、そのような生き方を目指すのは義務だからではなく、その方がより豊かで幸福な人生につながるからとテイラーは考えているように見える。言葉を換えれば、テイラーは、エリート主義も斥けている。

テイラー思想の魅力の一つは知識人だけを対象としたエリート主義ではないこと、つまり誰に対しても開かれている点にあると思う。

よくわからないのは、〈ほんもの〉という理想を目指す生き方は、人間にとって義務や責任なのか、それとも、人間はそのように生まれついているのか、あるいは、そういう生き方がより豊かで幸せと促しているのか。願望を込めて私は三番目の解釈をとりたいけど、テイラー自身は義務や責任ととらえているようにも読める。

義務や責任とすると、「オレはそんな義務は受けつけない」と言い放ち、勝手に理想から遠ざかる人が出てこないだろうか。「これは義務です」と言われて「はい、わかりました」と即応する人の方がむしろ少ないのではないか。

次なる疑問は〈ほんもの〉を目指す生き方は、日本社会で、また私自身にとってどのような意味があるか、ということ。

テイラーはカナダ社会を観察と分析の対象としている。そして、隣国のアメリカでさえも、同じ分析はできないと述べている。宗教的にも政治的にも歴史と伝統が異なる日本社会は、当然、違う観察と分析がなされるだろう。

私の見方では、日本では「行き過ぎた個人主義」はすこしねじれている。一方では「行き過ぎた自己責任論」があり、他方に、いわゆる「同調圧力」がある。

「効率と生産の優位」について言えば、過労死の問題を引き合いに出すまでもなく、日本社会では喫緊の問題と言える。日本において〈ほんもの〉を目指すためにはこれらに対して「闘争」していかなければならない。

また、1991年にカナダで出版された本書は、すでに今日"LGBTQ"とも呼ばれているジェンダーの問題や多文化の共生についても言及している。日本は多様な性のあり方や異なる文化的背景を持った人たちが共生する社会について、他の先進国と比べて法整備がはるかに遅れている。こうした点も「闘争」の標的となるだろう。

最後に私の「闘争」について。

私自身は労働社会における「闘争」に敗れて、落ちぶれている。うつ病の障害者で非正規被雇用者という私の置かれた環境や、私を取り巻く人間関係を観察してみても、いったい何が「自分らしさ」なのかもわからず途方に暮れている。ただ、「書く」ということを通じて「表現」は続けている。

ほかの人から見て、私の「表現」はまったく無意味で無益なものに見えるかもしれない。そのように考える方がむしろ普通だろう。

私は、私自身について、「書く」ことを通じて「社会に対する働きかけ」をしていると信じたい

それはお金になるかどうかは関係ないし、何人が読んでいるかということも関係ない。

最後に訳者について。田中智彦は生命倫理学の本に収録された論文を読んだことがある。テイラーの思想から生命倫理学へはどうつながっていくのか。その点は気になる。


さくいん:チャールズ・テイラー知識人田中智彦