木陰

気になっていた最新刊を運よく図書館で、おそらく一番最初に借りることができた。選書といっても内容はかなり難しく、わからないところも多かった。副題にあるように、古代ギリシアから現代まで、人々は「メランコリー」をどうとらえてきたのかを辿る。

その際、当時の史料だけでなく、それを現代思想家がどう分析したかも詳しく紹介する。そこがわからなかった。フーコー、ベンヤミン、バルト、ドゥルーズ、フロイト、ラカン。

私にはなじみのない思想家で、知識もない。そのため読み進めることに苦労した。

本書から私が得られたメッセージは一つ、メランコリーは否定される部分だけではなく、内省や沈思黙考のように肯定的な部分もあると言うこと。うつ即「悪」ではない。

以前、『天才はいかにうつをてなづけたか』という本を読んだ。その本は、心の病を抱えながら、むしろ、それをバネにして大きな仕事を成し遂げた人たちを紹介していた。

17世紀初頭のオックスフォードの聖職者、ロバート・バートンの言葉は端的にそのことを示している。

憂鬱はほかのどのような気質よりも、人間たちのさまざまな思考を促進する。
(第3章 近代のはじまり)

ところが、現代社会では、寡黙で内向的な性質は否定的にとられることが多い。学校ではアクティブ・ラーニングが行われ、会社ではコミュ力とプレゼン力のある人が重用される。うつ病患者は、病人として「保護されるべき人」と認められる一方で、うつ的な気質の人は社会で歓迎されていないように感じる。

メランコリー気質の人のよいところ、すなわち心配になるほど慎重に考えるところなどはもっと高く評価されるべきと思う。

よく半分水の入ったコップを用いたたとえ話がある。「半分も」あると肯定的にとる人が現代社会では評価される。でも、もし、その人が砂漠にいたら、「半分しかない」現実を受け止め、慎重に行動することが求められるだろう。

ともかく、言いたいことはメランコリー気質は悪いことばかりとは言えないということ。本書の論考はそれを示唆している。


古代の人々は、人間の身体は四つの液体から構成されていると考え、そのなかの黒胆汁が悪さをしてメランコリーに陥ると了解していた。この考え方はかなり単純で原始的に見える。でも、現代医学は、うつは脳内のある種の分泌液が多かったり少なくなったりして起きると説明する。液体により精神が混乱されるという見立てはあながち間違っていない。

著者は、近代から現代まで、人間の諸感覚のなかでも視覚が他の感覚よりも優位になり、メランコリーも視覚と視覚的なイメージと関係が深いと指摘している。この考え方は、私には当てはまらないように思う。

私の場合、うつは不安によって喚起される。その不安は「声」によって触発される。教員、上司、取引先。彼らの怒声が私を不安に陥れる。

また、私の不安は記憶とも関係している。過去の厳しい経験から、私はいつも、目の前にいる人と会えるのは今日が最後かもしれない、という不安を抱えている。

私のメランコリーは、聴覚に対して敏感で、過去に深く根を下ろしている。


最終章では、メランコリーと自我との関係が論じられている。この章が一番難しく、残念ながら、よく理解できなかった。

一つ、印象に残った一文が「3 喪とメランコリー」にあった。

患者は自分が"誰"を失ったかを知っていても、その人物の"何"を失ったのかを知らないのである。(原文傍点)

この一文は、私の喪失体験を説明しているように思えた。姉を自死で失くした12歳のときから、私は「なぜ」という問いばかりを続けていて、喪失によって自分の人生がどう変わったのか、すなわち「何」を失ったのかについては思いが至らなかった。

失くしたものは"何"だったのか。肉親であり、友人であり、理解者であり、憧憬だった。一言で"絆"と言ってもいい。その影を追いかけて、私は50歳を過ぎるまで生きてきた。

本書は、メランコリーという主題から派生する話題に論点が広がっていく。哲学史や現代思想に興味のある人には、こうした論述は面白いだろう。一方、うつに関心を向けて読んだ私は、メランコリーそのものに焦点が定まっていないような印象を受けた。

同様のテーマでは、『うつの医療人類学』(北中淳子)の方がわかりやすかった。


さくいん:うつ自死遺族