本書のことは版元の投稿で知った。小説、まして海外文学に疎い私は著者については何も知らなかった。「10代の息子二人を自死で失ったあとに記した、驚くほど胸を打つノンフィクション」という惹句に興味を覚えた。
これまでに読んだ自死遺族が書いた回想では森山啓『谷間の女たち』と山形孝夫『死者と生者のラスト・サパー』に大きく心を揺さぶられた。
自死遺族を描いた小説は少ない。虚構で描くことが難しい心理なのかもしれない。著者も家族の自死を経験した人以外にはその心理はわからない、というようなことを書いている。本書も小説ではなく、ピューリッツァー賞の受賞部門も回想録・自伝と分類されている。
私の言葉でいえば「パーソナル・エッセイ」に分類される作品。私が一番好きなジャンル。だから、奇妙な言い方になるけれど期待をしていた。その週末、図書館で本書を見つけた。まずは買わずに読んでみることにした。
薄い本で、読みやすい文章なのでその日のうちに読み終えた。でも、感想はすぐには書けそうになかった。自分の経験と比較してしまい、本書の含意をつかみかねていたから。
しばらく経ってもきちんと感想が書けそうにないので、読後に感じたことをメモしておき、気になった言葉を引用しておく。そして、私の経験との比較は別の文章で書くことにする。
読後に感じたこと。
1. 著者の強い精神力。強く生きる力。我が子の自死を経験してからわずか数年後に本書を書き上げたその精神力にまず驚く。
体を養い活動をさせ続け、頭を働かせて冴えた状態にしておくためには、"できる"(原文傍点)ことをやり続けるしかない(18 足踏みする)
私の悲哀に終わりはいらない。子どもの死は熱波でも吹雪でもなく、急いで駆け抜けて勝つべき障害物競走でも、治すべき急性や慢性の病気でもない。悲しみとは言葉であり省略化であり、その言葉よりはるかに大きなものの単純化にほかならない。(11 奈落の底が住処に)
著者の強気な姿勢は「悲嘆」の先送りのようにも私には思える。後になって、強い気持ちの下で蓄積された悲しみが突然に溢れ出すことにならないか、少し心配になる。
2. 生来の作家気質なのか、どんなに苦しくても、書かずにはいられない性分なのかもしれない。書くことで気を紛らわせて、気持ちを整理していたのかもしれない。もっとも、言葉への信頼は厚いものの、その限界についても気づいている。
言葉、言葉、言葉。言葉はしっかりした地面の上にも、雲の中にも白を築く。言葉は鎧にも監獄の壁にもなる。言葉は激流もなせば流砂もなす。言葉をおろそかにはできない。一方、言葉を常に信頼することもできない。それでも、私の精神は言葉のなかの、どこで生きられるだろう。(19 ここにも奈落の底が)
書くことは一時的な避難所になるし、救済に近いことでもあるけれど、それ以上のものではないのだ。私たちの中に、奈落の底に太刀打ちできる者などいるのだろうか。
そして愛する作家のうち、私が経験したとおりに奈落の底を描けた作家がいるだろうか。共有できる奈落の底などない。各々が一人ぼっちで自分の奈落の底にいるのだ。(19 ここにも奈落の底が)
3.「悲しみ」の忌避。「苦しみ」とは書いても「悲しみ」とはほとんど書いていない。上に引用したように「悲しみ」は省略化、単純化とさえ言っている。
私は悲しむ母親ではない。ヴィンセントとジェームズを失った苦しみと、二人を育てた思い出とともに、これから来る日も来る日も死ぬまで生きる母親だ。(23 ジェームズにとっては、つまらない喜劇)
4. 現代アメリカ的と言えばいいのか、家族が全員、セラピスト(心理療法士)に歯医者にかかるように会っている。昔はそんな風ではなかったし、おそらく日本ではいまもそういう習慣にはなっていないだろう。
5. 長男が自死したあとで芽生えた、次男も若いうちに自死するかもしれないという不安の描写が細やか。
6. 周囲に著者を理解し、支える友人が多い。小説家という公人であるためにメディアにも取り上げられ、ノイズもたくさん受けている一方で、グリーフケアに必要な人的資源を豊富に持っていることがよくわかる。彼女が本書を書けたのは、周囲からの無条件で献身的な支援があったからこそだろう。
7.自身も希死念慮に苦しんだことがあり、自死した人の心理をよく理解している。
自死未遂または自死をした人たちは、必ずしも自分を殺したいわけではない。むしろその苦痛が、肉体の存在を消すことでした終わらせることができないようなものなのだ。(20 生きる価値があることと、生きる力があること)
人が自死を選んだときに本当は何が起こっていたのか、誰にもわからない。精神科医や心理学者は一人残らずそう言うだろう。(20 生きる価値があることと、生きる力があること)
8. 「悲しみと幸福は両立する」という言葉がどこかにあった。私は「悲しみ」の底にこそ「幸福」があると考えている。深い「悲しみ」を知る者には、その奥深い底で初めて出会える「幸福」がある。著者の言葉を借りれば、「奈落の底」(abyss)にも幸せはある。30年以上の歳月をかけて私がたどり着いた「心から悲しめることが幸せ」という心境はそういうこと。
まとめ。
著者は強い人、という印象を受けた。性格と気性もおそらく強い。自己憐憫という言葉が一度使われるものの、感傷的な場面は非常に少ない。その点で、母への追慕や憐憫の感情が深い森山啓と信仰が軸になっている山形孝夫とはだいぶ違う。
著者の半生が強く生きていかなければならない道のりだったことは、いわゆる毒親だった母親との関係、中国からアメリカへ国籍を変えたこと、理系研究者から作家へ職業を大きく変えたことなどから推測される。共感できるところもあった反面、心が弱く、感傷的になりがちな私には理解が及ばないところも少なくなかった。
登場人物のなかではジェームズに一番共感した。それは年上の兄姉を亡くした点で共通しているからだろう。子を亡くした親の気持ちは想像するしかないけれど、兄姉を亡くした幼い弟の気持ちは痛いほどわかる。
さくいん:自死遺族、悲嘆、森山啓、山形孝夫、エッセイ、アメリカ、中国