私家版 新古典

斎藤美奈子の本を読むのは久しぶり。『庭』を始めた2002 - 03年には『紅一点論』『趣味は読書。』『読者は踊る』など、彼女の批評をいくつも読んでいた。ベストセラーが売れるカラクリを鋭く分析する筆はまさに快刀乱麻。

本書では60年代から90年代までの48の作品が俎上にあげられている。実際に読んだことがある作品はほぼ半分。それ以外の本も、ほとんど書名は聞いたことがあり、書店や図書館で開いたことのある本。「ベストセラーの賞味期限を判定する」という帯文に偽りはない。

斎藤美奈子が指弾する作品にはいくつかの傾向がある。一つは女性を道具としか思わないような男性の傲慢な態度を隠さない作品。その自覚がない作品に対しては呆れはてて「おめでたい」とまで言う。

もう一つ、「若くして死んだ女を生き残った男が回想する物語」に対しても、斎藤の評価は厳しい。見捨てた自覚も、自分が生き残っていることへの自責の念もなく、自己の回想だけを愛玩するナルシシズム。彼女はこの手の作品に嫌悪感を持つ。しかも、そういう作品は実は少なくない上、文学史上は高く評価もされてきた。本書ではとくに村上春樹『ノルウェイの森』が槍玉に挙がっている

『ノルウェイの森』は学生時代、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』の後に読んだので、作中で直子をあっさり死んだことにした展開に唖然とすると同時に怒りさえ感じた。

自死を物語の仕掛けに使うことに私はいつも憤りを感じる。


彼女の「自己愛妄想回想譚」に対する批判は一貫しているように見える一方、ワンパターンとも取られかねない。実際、そういうレビューを見かけた。

形式的にワンパターンであることは私も認める。でもそれは、そういう本がいつの時代にも出版されて、よく売れているから、彼女としても異口同音の作品が売れるたびにモグラ叩きのように同じ批判を繰り返さなければならない、ということではないか。文壇とは進歩が遅いところらしいから。


では、斎藤はどのような作品を高く評価し「中古典」以上の「新古典」と呼ぶのか。読み取ったポイントを挙げる。

  • ・反権力・反体制の姿勢が一貫している
  • ・差別や格差などの社会問題に対する時代を越えた普遍的な批判の視点を持っている
  • ・自己を正当化する手前でうっちゃる「韜晦、あるいは諧謔」の視点を持っている
  • ・女性を道具や単なる愛玩の対象として見ていない

なかなかこういう作品はない。上記の性質を備えていると生真面目で硬い本になりやすく、売れる本にはなりにくい。

それでも、昭和・平成にそういう作品がなかったわけではない。斎藤が「中古典」から「新古典」へと格上げする作品を挙げる。

自分が読んでよかったと思った本が高評価を与えられていると素直にうれしい。とりわけ『橋のない川』『日本の思想』『江分利満氏の優雅な生活』は、私が抱いていた感想と近いものだったので彼女の「読み」に共感できた。

意外だったのは、司馬遼太郎を高評価していること。いわゆる自由主義史観に都合のいいところだけ「利用された」として、司馬自身の現代日本へ視線は厳しかったと斎藤は見る。

戦後文学のベストセラーを批評した本では、海老坂武『戦後文学は生きている』を読んだことがある。こちらは著者に思い入れがあり、時代を越えて残したいと思う作品だけが取り上げられている。どの作品が取り上げられているかを含めて、本書と比較しながら読んでみるのも面白い。二人が共通して挙げているのは丸山眞男『日本の思想』のみ。


さて、一通り読み終えて、一つの疑問が思い浮かんだ。

斎藤美奈子式で『烏兎の庭』を読んだら、どんな評価が下されるのだろうか。

私の文章はベストセラーからは程遠いものなので、彼女の視野にも入らないだろう。それでも彼女の批評を評価するなら、彼女の読み方で『庭』を診断することにも意味がないとは言えない。

ちょっと想像を膨らませてみる。

   いつまでも少年時代に失くした女性の思い出に拘泥しているところは、やっぱり男性的な「自己愛肥大回想譚」と呼べるかな。加えてこの人、社会問題に理解がありそうな顔しておいて、結局は安全地帯からは出ていない。
   自分を客観的に見るってことができてない。だから「韜晦、あるいは諧謔」なんて表現できるわけがない。
   なんだかんだ言っても、東京に家族で住んでいて、暮らしに困っているわけでもない。それなのに「僕ちゃん、かわいそうな境遇なの」と嘘泣きされたところで同情の余地はないよ。ま、本にもならず、ウェブの片隅で書いてるだけなら一生やってれば、て感じ。本人が気がつかなくちゃ、「自己愛肥大回想譚」は治らないよ。

「韜晦とか、あるいは諧謔」という面が、私の文章に欠けていることは間違いない。そういうものはどうすれば身に付くものか、そもそも努力して身に付くものなのか。人生の酸いも甘いも、苦さも貧しさも徹底的に味わった人間から自然に滲み出てくるものではないか。

そう考えると、私はまだまだ甘い。

どれほど厳しく鋭い批評を読んでも、本書で推奨されている新しい古典を読んでも、自分の考え方や生き方に活かされなければ意味がない。私はいまだ本の読者とは言えない、ただの活字の消費者に過ぎない。

楽しみにして買った本にはほんのり苦味が残った。


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さくいん:斎藤美奈子70年代80年代住井すゑ丸山眞男山口瞳