今回の展覧会は、ツイッターで知った。美術展の情報を得るだけでも十分に有益なのだから気分次第で安易に辞めてはいけない。これは自分への戒め。
本展は写真家活動45周年を回顧する展覧会。169枚もの作品が展示されている。ケンナの作品を眺めて最初に気づく特徴はサイズがほぼ同じであること。大判や横長もないわけではないが、多様な額装が並ぶ絵画の展覧会と異なり、展示室は整然としている。
ケンナ作品の多くは直線で正方形を二分割したり四分割したり、構図はいたって基本的。そのような、あえて言えばシンプルな構図のなかに、自然の持つ曲線や揺らぎが写し込まれている。
カッチリとした枠の中に、樹木の斜めに伸びた枝や丸みを帯びた木立がある。ここでいう自然には人工物も入る。古びた木の桟橋から工場の煙突、橋を支える鉄骨、果てはマンハッタンの高層ビルの影さえも揺らぎのある線を描いている。
そしてもう一つ、彼の作品において重要なことは白と黒のコントラストとグラデーション。雪原の木立や海の向こうに見えるマンハッタンは漆黒。その上空は少しずつ灰色から白へ変化していく「曇りのち晴れ」のような変化に富んでいる。
ケンナは今でも自分で写真を焼いているという。会場で見たインタビューのビデオでは「コンピュータで簡単にできるようなものは〈生産〉しない」と言っていた。作品とは生産できないもの。「焼き」、すなわち現像過程に彼のこだわりがあるのだろう。
その黒白のコントラストの巧妙さが表現されている作品が、別室に展示してあった裸婦像と強制収用所の写真。
美術の基礎である裸体とあまりにも有名な建造物。こういう被写体を撮影すると写真家の基礎的な技量が明白になるのだろう。スマホでしか写真を撮らない私にはそれ以上のことはわからない。
どちらの部屋でも、自然を写した静謐な作品とは異なり押し倒してくるような圧力を作品を感じた。
これ以外、裸体像と強制収用所の写真の感想を表現する言葉が見つからない。ここで 筆を措くことにする。
インタビューで 彼は作品の主題について「一種の不完全性」と語っていた。これは上に書いたことに近いと考えていいのではないか。
前にケンナについて書いたときには、彼の作品の構図に特徴があることに気づいてはいたものの、色調の細やかさに気づいていなかった。だから、愚かにも自分が撮った写真をモノクロに変換するだけで「ケンナ風」になると思っていた。
「おやっ」とすこし驚いたのは「手が加えられた痕跡を探す」という言葉を聞いたとき。これはどういう意味か。剥き出しの自然ではなく、防雪柵や桟橋のように自然と接している人工物に興味があると取ることもできる。
少し見方を変えると彼が被写体にすることで「手が加えられた」とも言うことができるのではないか。彼は北海道で何度も同じ木を撮影している。何年も撮影を重ねると木との間に親密な関係ができると話していた。
彼の緻密な構図に収められた時点でその木はすでに生の自然ではない。私が注視しているのはマイケル・ケンナの「手が加えられた自然」と言うべきだろう。
マイケル・ケンナを教えてくれたのは、『うつの世界にさよならする100冊の本 本を読んでココロをちょっとラクにしよう』という一冊の本。紹介されていた100冊の本のなかで一番に興味を引いた本がマイケル・ケンナの写真集だった。
彼の写真を見ていると心が安らぐ。雪の風景が多いので作品からは音も聞こえてこない。とても穏やかな気持ちになる。
マーク・ロスコの大作は、見ていると絵の中に吸い込まれそうになる。マイケル・ケンナの写真は静けさが雪が降るように見る者の心の底に降り注いでくる。
いつでも手にとって見られるように4,500円と少し値の張るを図録を買った。
マイケル・ケンナの写真作品は、私にとって「見るクスリ」になっている。