オレンジ色のコスモス

本書は、図書館で前に『親と死別した子どもたちへ』を見つけた心理学の棚で見つけた。著者は遺族外来を行っている経験豊富な医師。

遺族外来とは、死別体験により強い衝撃を受け、さまざまな病的な症状をもった人をケアする専門部門のこと。その重要性は日ごとに増している。

現代では、死別体験から日常生活へ戻るために過去には盛んに行われていた儀式や慣習が廃止されたり形骸化している。また、都市部では人間関係が希薄なため、死別体験で受ける悲嘆を和らげるような親密な人づきあいも多くはない。

社会全体のスピードが猛烈に速く、死別体験のあと、慌ただしく日常生活に戻らなければならず、時間をかけて悲嘆を緩和する余裕がないことも、遺族外来を訪れる患者が増えている一因だろう。

以前は、犯罪や災害、自死などの死別体験がケアをする必要性があると思っていた。本書を読んでみると、上に書いたような社会的な状況から遺族ケアを必要とする死別体験のケースは若い人の病死、突然死など、ずっと多い。本書は、さまざまな死別体験と悲しみの症状が紹介している。体験も悲しみも人それぞれで、一様ではない。

穏やかな老衰であっても、配偶者の死は大きな悲しみを遺族に残すとも指摘されている。

自死遺族の悲嘆がほかのケースと比べて重く苦しいものと思い込んでいた。世の中にはさまざまな死別体験と悲しみのかたちがあることを本書を通じて知った。

さまざまな症状を抱えた患者の声を著者は丁寧に「聴く」。それは簡単なことではない。専門的な技術として、本当に「聴く」ことができるまでには20年以上かかる、と述べ、そのむずかしさを伝えている。

著者が考える遺族ケアの目標。

   ですから、遺族外来におけるケアの目標は、悲しみをなくすことではなく、心の器が大きくなり、人間的に成長するのを見守ることなのだと思います。悲しみの中にとどまり、思索を深める中で愛する人を失った悲しみに対応できるだけの適応能力と心の広さが身につくのでしょう。(「悲しみを抱いて」「3 遺族とのかかわり」)

この定義には同意する。悲しみはなくせばいいというものではない。故人のことを忘れず、思い出を大切にして生きていくことを著者は強調している。

一言で言えば、「悲嘆とともに生きていく」。私も、そんな風に生きていきたい。

「心の器が大きくなること」を著者は「PTG(心的外傷後成長)」と考えている。「心の器」という表現にも共感する。「乗り越える」とか、「打ち克つ」のような強い調子でないところがいい。

著者は、遺族ケアの必要性とともに、死別体験についての教育の重要性を指摘している。

   また、遺族ケアは社会の問題だと実感しています。なぜなら、私たちが病院で遺族のケアをしても、家に戻った時に首位の人が発した心ない一言で傷つき、今まで行ってきたケアが後退するような状況をなん度も経験したからです。これは、言った本人にも問題がありますが、我が国でも約半数の遺族がこれを経験していることから、社会全体が遺族に対する学びを深めてこなかったことも影響しているはずです。ただ、社会や医学が発展するプロセスではまず命を救うことが大切ですから、仕方がなかった面もあります。しかし、社会や医学が成熟している今こそ死別に対する学びを深める時期なのかもしれません。ですから、今後は愛する人を亡くした人に対する対応はマナーとして知っておく必要があります。そのためには教育が欠かせません。愛する人の死は人生における最も辛い出来事であるという最低限の事柄だけは知っておくべきです。そして、私たち一人一人が少しずつ気をつけるようにすれば社会全体の配慮が進み、遺族は死別後の生活に適応しやすくなります。それでも遺族に対して心ない言葉を発する人は無くならないでしょう。そのような時には遺族ケアの専門家が対応すべきです。(「遺族外来から見えてきたもの」「4 新しい生活への適応」

実際のところ、本書が「遺族に対する学び」の教科書になっていて、具体的には「言ってはいけない言葉」が解説とともに列挙されている。

本書は、文章に温かみがある。持論を力づくで押しつけるのではなく、豊富な臨床経験を謙虚で穏やかな文体で紹介している。

こんな医師に40年前、12歳のときに出会えていたら、私の悲嘆は、もっと早くに和らいでいたのではないか。悲しみとの付き合い方を、当時は誰も教えてくれなかった。


さくいん:悲嘆