前回、「大学の化学系できちんと統計の基礎を教えているところは少ない」と書いた。その理由を考えてみる。
その前に、私が上記のように認識している根拠を述べる。本当に化学系ではあまり統計を教えていないのか。
一つは、私自身が大学(薬学部)及び大学院修士課程(薬学研究科・有機化学専攻)で履修した内容。統計に関する講義が開かれていたのかどうかすら覚えていないが、受講しなくても卒業できたから、必修でなかったことは確かだ。まわりの学生が統計の講義を取っているという話も聞いたことがなかった。研究室で小規模に教えられることもなかった。
二つめ。社会人になってから現在まで、同業者で統計の知識がある人が非常に少ないと感じる。
三つめ。現在日本薬学会から示されている 薬学教育モデル・コアカリキュラム において、生物統計に関しては、パラメトリック検定とノンパラメトリック検定、t-検定、Mann-Whitney U 検定等の述語を挙げて詳細に到達目標が設定されている。保健統計に関しても、生物統計ほど専門的な内容でないが、独立した項が設けられている。これに対して化学分野では、「化学物質の検出と定量−定量の基礎」の一項目として「実験値を用いた計算および統計処理ができる(技能)」と書かれているのみである。(この書き方なら、平均と標準偏差を計算できて検量線を引けるだけでも目標を達成したことになりそうだ。)
四つめ。統計の入門的な書籍は、生物系の学生向けのものは非常に多いが、化学系の学生向けのものはほとんどない。(これらの本は大学での講義・実習内容を反映すると思われる。)
自分の周囲の人たち(主に薬学部卒と理学部卒)にもきいてみた。数学の講義の単元に「確率・統計」があったという人がいたが、技能としての統計処理を教えられたという人はいなかった。
で、最初の問題に戻る。なぜ化学系では生物系ほど統計を教えないのか。
私の考えた結論を思い切って単純に表現すれば、「統計は、生物系では攻めの武器、化学系では守りの道具だ」となる。
生物系で最もよく統計が使われる場面は、新薬の開発や病因の発見や品種改良のように、新しいものを発見しようとするとき、すなわち研究の段階だ。それに対して化学系では、新しい合成法の開発や分析原理の発見に大きな n 数は求められず、むしろ n=1 や 3 程度で、パラメータをいろいろと変化させて検討を重ねる。化学系で統計が使われるのは、研究が終了して実用に供された後、主に品質管理やサンプリングの段階だ。
こうなるのはそれぞれが扱う対象の違いによる。生物には必ず個体差がある一方、化学物質は構造式が同じであれば(理論的には)完全に同じはずである。統計は、ばらつくものに対して使うものであって、ばらつかない(あるいは問題にならない程度のばらつきである)場合は、使う必要がない。
生物系にとっては、ばらつくものほど腕の見せどころ。様々な検定法が編み出され、研究者たちはそれらを駆使して何とか有意差を出そうとする。統計は武器である。化学系にとって、ばらつくのは困る。自分が使っている合成法、自分が持っている分析機器で、常に均一な製品や分析値が生み出されてほしい。統計は均一さを証明するために渋々使わざるを得ない道具である。
そして、日本における大学教育は、長らく研究志向で行われてきたという事情がある。化学系の教員が本格的に統計を使う機会は少なかったろうし、学生に教えようと考える動機もあまり無かったと考えられる。
しかし化学系の学生も、大学を卒業して社会に出れば、n=1 や 3 ですまされない色々なもの、繰り返しごとにばらつくもの、あるいは不均質なものに出会うはずである。そんなとき、「このばらつきは統計的手法を使って解析すべきでは?」と考えて、適切な統計法を選ぶ、そういうセンスと基礎知識は必要と思われる。
大学も生き残りの時代となり、即戦力になる人材を送り出すことが求められている。化学系の学部・学科で、もう少し統計を教えるようになってもいいのではないかと思う。
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