午前中,マリクワト故城を訪れ昼食後ニヤへ向かう。
9:00 ホータン賓館出発。
マリクワト故城は市内から南へ約25km。空港(ウルムチ便が一日1回のみ)までは舗装道路であるが,そこから先は未舗装超ガタガタ道,アティカムさんの”ウイグル語講座”を聞きながら約50分。
9:50 入り口ゲートがあるマリクワト村に到着。
「ロバ車に乗って~」と,子供達や村人がわ~っと寄ってくる。
わたし達は,遺跡まで10分ほどを歩く。ロバ車は,しつっこくついて来る。とうとう,結局4,5台がわたし達に往復付き合ってくれたが,誰も乗らなかった。ごめんね~
カメラ1台に付き10元を徴収された(2年前までは5元だったそう),遺跡保存のための資金にするというが,入場料は別途のようだ。ちょっと納得しがたいシステムだと思う!
村人総出でお出迎えだよ~ん
|
|
|
村人達が総出でお出迎え
「ロバ車に乗って~」,「玉買って~」 |
|
スナナツメの実 |
一帯は流動性砂丘,ロバ車の巻き上げる砂埃がひどいので,マスクをする。カメラもビニール袋に入れて,撮影は素早く済ませることにした。途中で,スナナツメの赤い実がなっていた,下痢止めの薬になるそうだ。
|
行きも帰りも空車のロバ車
添乗員N.Oさんのなじみの娘さんだとか |
マリクワト故城は,紀元前242年~紀元後1006年の永きにわたって存在した于闐国(うてんこく)が,辺境防衛のために作った砦と夏の宮殿が有った所と云われている。
イスラム教徒との戦いで破壊され,今では,長さ10km幅2kmの間に崩れた城跡が小さな土の山のようになり,砂漠に陶器の破片などが散在しているだけ。
664年に玄奘がインドからの帰りに寄り,2週間滞在し,イギリスの探検家スタインが4回,大谷探検隊も来ているという。
1900年 スタインが,玉や金でできた仏像,貨幣,什器,シルクの破片などを発掘し,ホータン博物館に保存されていると言う。
1957年自治区重文に指定されたと言うが,殆ど管理が成されていないようで,風化や洪水などでこの10年間でも破壊が進んでいると言う。
|
|
|
崑崙山系に抱かれたマリクワト故城遺跡 |
|
住居跡?
泥で固められた壁厚1mくらい,3~4部屋 |
河原で玉さがし,でもそう簡単には見つからん!
すぐ東側を流れるユルンカシ川の河原に下りて,「玉」探しに挑戦。そう簡単には見つけられない。
河原に転がっている石の種類は,大理石・角閃石岩,斑レイ岩,片岩,メノウ,礫岩,花崗岩,花崗閃緑岩,片麻岩,緑色岩,各種のホルンフェルスなどなど,珍しい石がいっぱいある。
玉の代わりに,この変わった石を幾つか記念に拾ってきた。
ここでも,「玉買って~」と子供達が,しつっこくついて来て,足元を見透かしたように”白い脂感たっぷりのほんもの玉”を見せて,100元だ,50元だとかうるさい。さっき習ったばっかりのウイグル語で「チェラキアマス!チェラキアマス!(要らない!要らない!)を連発する。。
|
|
|
河原でMy玉探し |
|
河原で拾った珍しい石のひとつ
角閃石の結晶がいっぱい出来ている変成岩 |
メモ 「玉とはなんぞや?」
○ 玉には硬玉(翡翠輝石の微細結晶の集合)と軟玉(角閃石の微細結晶の集合物であるネフライト)があり,ホータンの玉は後者。
軟玉は「角閃石」(Amphibole)グループの一種で,主として変成岩中などに産出し,「緑閃石」(Actinolite)の繊維状集合体よりなり肉眼的には緻密な塊になったもの。半透明で,真珠光沢ないしガラス光沢。色は,含有鉄分の多少により白色から淡黄色・緑色と様々である。
Nephrite:An exceptionally tough,compact,fine-grained,greenissh or bluish amphibole
constituting the less rare or valuable kind of jade and formerly worn as
a remedy for kidney diseases. (Americn Geological Institute 「GLOSSARY
OF GEOLOGYより)
○ ホータンでは,崑崙山脈に源を発して流下するユルンカッシュ川(白玉河)とカラカッシュ河(黒玉河)に夏の増水期に転石となって流れ下ってくる。人々は秋の減水期に河原で採取していた。だが,いまやバックホウとブルドーザを使って河原をほじくり返している。
また,崑崙山中に入って玉探しをする人もいるという。
○ 玉は非常に堅く(硬玉でモース硬度6.5~7,軟玉で6~6.5)加工が大変である
○ 中国では3000年以上も前から,はじめは武器に後には彫刻を施す材料として装飾品に加工されたりして使われている。
災いや呪いを退け,精神力を強めて移り気を防ぐ力があるとか,新陳代謝を活発にして細胞組織の再生を促し,腎臓、副腎、脾臓の病気の治療に効果があると伝えられてもいる。
玉器を副葬品として墓に収めたり,死者の口に含ませたり,金縷玉衣・銀縷玉衣で死者の全身を蔽ったのも玉の辟邪力を信頼したものと考えられる。
|
|
機械を使っての玉の採取 |
12:15 来た道を戻って,市内で玉加工工場の見学と買い物。
|
|
|
玉加工場
細かい手作業,凄い技術である |
|
玉製の携帯タップ
十二支を彫ってある,これは巳歳のおばあちゃん用 |
13:00 王都大酒店で昼食。例の如く品数が多くて少しずつ食べてもかなりの量となる。
メニューは,鶏肉ぎんなん炒め・青菜とくるみ炒め(くるみはホータンの名産品のひとつとか)・中華スープ・エリンギとピーマン炒め・牛胃袋炒め・ナスの挽肉はさみ煮・黄麺(キビとアワで作った麺?)・フルーツ盛り合わせ・・・・・
食後,アティカムさんが,アトラスシルクで作った手提げ袋を幾つもテーブルに広げてにわかショップを開店。
このあと,アティカムさんとお別れしてニヤ(民豊)へ。
|