再び国道312号に戻りしばらく東,鄯善方向へ進み左折して千仏洞への専用道路を約5.5kmほど行くと火焔山中のベゼクリク千仏堂に到る。
途中,木頭溝(ムルトゥク川)対岸に三蔵法師の通った小径と馬の足跡の形をした岩山があり写真タイム。
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三蔵法師の乗った馬の足跡の形をした山 |
11:35~12:40 ベゼクリク千仏堂見学 入場料 20元
ベゼクリクとは,「絵のある所,美しく装飾された家」を意味しムルトゥク川の断崖に大小83の石窟が確認されている。 (1982年全国重点文物保護単位に指定)
石窟は,6世紀末隋代の麹氏高昌国時代に造られはじめ(敦煌莫高窟より200年以上も遅い)唐・五代十国・宋・元代と続けられた。
最盛期はウイグル高昌国(西ウイグル王国)時代で,多くの素晴らしい仏画が描かれた。その後,イスラム教の浸透による破壊・盗掘などを経て砂に埋もれ荒廃状態にあった石窟は,100年ほど前ドイツ探検隊によって発掘された。
こうして砂の中から発見された壁画は,その後どうなったか。
ドイツ隊に始まる各国探検隊(ドイツ・イギリス・ロシア・日本など)によって壁画・写本・仏像などが持ち去られた。とくにル・コックが率いるドイツ隊は,膨大な量の壁画を切り取れるだけ切り取っていった。ベルリンに研究のため厳重に保存管理されていた貴重な壁画の多くは,不幸にも第二次世界大戦の爆撃で灰燼に帰してしまった。
大変残念なことである。
わたしたちが,今ベゼクリク千仏洞を訪れても状態のよい壁画を見ることはできない。
ベゼクリクの壁画といえば誓願図だ,とくに「NHK新シルクロード」でデジタル復元された15号窟の「誓願図」が有名である。
15号窟は,特別窟なので事前予約が必要,しかも中に入っても誓願図は奥の1枚を除いてほとんど残っていない。ビデオに撮っておいたのを,またゆっくりと見ることにしよう。
*誓願図:釈迦が前世において過去仏を供養し預言を受けるという内容
第15号窟の仏教壁画15面デジタル復元の様子はこちら。
入り口を入って,左手の売店を過ぎ崖面に沿った階段を下るとテラス状の回廊に出る。
左手の崖下には緑豊かなムルトゥク川,右手の崖面には大小五十余の洞窟が並んでいる。背後には火焔山の赤茶けた山並みが迫っている。
ベゼクリク千仏洞は,まさに熱砂の山と緑の谷のはざまにある。
カメラは持参できるものの,洞窟内部は撮影禁止。
全体を見渡して
「いままでに見てきたキジルやクズルガハとちょっと違うな!」
と感じる。
丸い屋根の仏塔(ちょっとチベット風),洗練された洞窟の構造と外観・・・・・・どこか違う?
窟内に入って気付いた,洞窟のエントランスが日干し煉瓦で出来ている,また内部も日干し煉瓦で内装されている。造られた年代が遅い分,洞窟の造りが洗練されたものとなっていることが違いを感じた理由かなと納得する。
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切り取られたナイフの跡が残る第20窟本行経変図
(新疆美影摂朮出版社発行「ベゼクリク石窟」より) |
先ず第20窟に入る。
10世紀 西ウイグル王国時代前期
大型中堂回廊式 壁画は,菩薩の足元のみが残り他はすべてベルリンへ持ち出された。
ここにあったとされている「回鶻高昌王供養像」は,仏教に改宗した王室によって修建されたもので,ベゼクリク千仏洞が西ウイグル王家の寺院になったことを示しているといわれている。
次に27窟。
11~12世紀 西ウイグル王国中期
アーチ天井に千体仏が描かれている。寄進したソグド人商人の画あり。
多くの菩薩・蓮台・天蓋・後輪などは,大乗仏教を示している。
ギリシャ・ローマの流れを汲む画風で敦煌や雲崗に影響を与えたといわれている。
中央奥は二重壁で経典が置かれていたとのこと。
次に31窟に入る。
11世紀 西ウイグル王国中期
きれいに切り取ったナイフの跡が痛々しいばかり。
天井に沢山の仏さん,正面に涅槃像。
ベゼクリクの壁画全体にいえることだが,洞窟は,泥または日干し煉瓦で内壁を造り,石膏を上塗りし,その上に絵を描く手法がとられている。ドイツ隊には,薄い石膏部分から巧みに剥がす素晴らしい?技術をもった人間が一人いたそうだ!
続いて33窟。
11世紀 西ウイグル王国中期
正面に涅槃像,両サイドに観世音菩薩。天井に千体仏。
ここも切り取り跡が痛々しい!
39窟。
12世紀 西ウイグル王国後期(中国では宋代)
中央に崩れた文殊菩薩像と須弥山。「外国使節図」が描かれていて,トルファンの国際性を示している。天井に千体仏。
戻って,最後に17窟に入る。
7世紀 唐西州時代
正面に仏陀像,天井に菩薩像。六花苑の説法図・仏伝図。
ここでも正方形の切り取り跡がくっきり。
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千仏洞背後の火焔山
(通称トルファン富士) |
探検隊によって多くの壁画が運び去られたと聞いてはいたものの,これほどひどいとは思っていなかった。
ほとんどの窟の内部の壁画は,完膚なきまでに真四角に切り取られ虚しく壁や地肌をさらし,わずかに残った天井画・干仏図なども無残に剥げ落ちたり,目はくり抜かれ顔が剥がされていたのが大変残念であった。
ベゼクリク千仏堂の背後には,火焔山が迫っている。はるかな頂上付近を登っていく人影が十数人!この暑さの中をよくも登るもんだと驚くというよりあきれ返っていると,すかさずお兄さんが「ラクダ」を薦めてきた。それでも登る気はさらさら起こらない。
入り口脇のショップで冷えたスイカで喉を潤して,ベゼクリク千仏堂を後にした。
往路には気がつかなかったのだが,市街地に入る手前の国道両側に「重慶川菜」・「西安川菜」・「成都川菜」「上海川菜」・・・・・といった看板を掲げたドライブインが固まっている場所がある。長距離トラックのドライバーが,それぞれ出身地の味の地元料理を食べられるようになっているようだ。さすが広い国土の中国ならではの光景だと思う。
13:20 ホテル着 昼食後夕方までフリータイム
このフリータイムを利用してトルファン博物館を見学することにする。ほぼ全員参加,みなさん元気!元気!
博物館へはブドウ棚通りを北へ向かって徒歩で20分ほどかかる。ちょうど暑い盛りで,水分補給をしながらゆっくり歩く,ブドウ棚の下では昼寝をしている地元の人たちが目立つ。
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葡萄棚通りで気持ちよさそうに昼寝! |
トルファン博物館には,交河故城・高昌故城・アスターナ古墓群からの発掘品が多数展示されている。 入館料 20元 60才以上は10元と表示されてるので,妻がパスポートを提示して「シニア シニア」と言ったら割引料金で入れた。
ミイラの展示は,ウルムチの新疆博物館より充実していたし1,400年前の”餃子”・”ケーキ”・”耳掻き”・”ピンセット”などの珍しい品物には驚嘆した。
トルファン博物館は,なかなか立派な展示がなされておりお奨めスポットである。
17:00 再集合して夕方の観光開始
17:10~17:55 蘇公塔 入場料 30元
蘇公塔は市の南東郊外のブドウ畑の脇にある。
例の如く,お土産屋さんの呼び込み声の喧騒を抜けて入り口に到着する。
暑い!暑い!時計は夕刻を示しているが,実際の時刻は午後3時 まだまだ陽が高い。
蘇公塔は,イスラム教伝道師であり,かつトルファン地区の支配者でもあった額敏和卓(がみんわたく・オーミンホージャ,1755年,最後の遊牧国家とされるジュンガルを滅ぼした清朝乾隆帝に協力して乾隆23年トルファン郡王となる)の業績を讃えるために,その息子 トルファン郡王スレイマンが1779年に建てたミナレットである。
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蘇公塔 |
モスク礼拝所 |
高さ44m・基部の直径10m,生レンガで築き上げ,その表面にはイスラム建築特有の15種類の細かい幾何学模様が描かれている。内部に72段螺旋式の階段がついているが現在,塔本体が傾いているので登ることは出来ない。
その隣にモスクが付属して設けられている。
中央の広間の天井は,木張り,柱もポプラ材,左右にたくさんの小部屋。がらんとしていてなにもない。
このモスクはカシュガル,クチャについで新疆では3番目に大きなモスクであり現在でもイスラム教徒の礼拝が行われているという。
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周囲はブドウ畑が広がり
乾燥小屋もいっぱいある |
モスクの屋根
丸いドームは,小部屋の天井部で
トップに明り取りの穴がある。 |
18:15 葡萄溝
続いて市街地の北にある葡萄溝に行く。
「TORPHAN GRAPE VALLEY SCENIC SPOT」と仰々しく書かれたゲートをくぐって(入場料 ?)長さ7~800mのブドウ棚トンネル(まだブドウが生長していないので単なる白ペンキコンクリートの連続門柱だ!)をぬけて,5kmくらいの所にある。
一面にブドウ畑が広がっている筈なのだが,そこには連れて行ってもらえなかった。自由時間もほんの5分ほど (´⌒`。)
バスを降りて,両側に干しブドウを売る店がびっしり並んでいるブドウ棚歩道を下っていくと,清冽な雪解け水が流れるカレーズにぶつかる。橋を渡った突き当たりには,岩に「葡萄溝」とペンキ書きしてある安っぽい観光地化した人造滝がある。
更に左折して,この辺りに住むウイグル族の家,居間,調度品,生活用品などを展示する民族館を見学してバスに戻る。
葡萄溝は,期待はずれであった,とくに記すべき事なし!
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ブドウ棚道路 |
たわわに実ったブドウ |
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カレーズを流れる豊かな天山の雪解け水 |
19:15 ホテルのレストランで夕食。
羊の丸焼き・ポロウ・シシカバブ・川魚姿蒸し・スイカ・・・・・
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首に赤いリボンが巻いてある丸焼き羊 |
夕食後,ホテルの裏庭のブドウ棚の下で催される「ウイグル民族舞踊ショー」を見る。
他のホテルからもお客が大勢来ていてほぼ満席。
22:15 民族舞踊ショー終了。
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