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旅行記12-1 ページ

9/5(月) トルファン(1)
火焔山・高昌故城・アスターナ古墓群  

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高昌故城全景(新疆美影摂朮出版社「高昌故城」より)

参考映像:NHK新シルクロード  
  • ビジュアルアーカイブス 第2集 トルファン「灼熱の大画廊」     
  • プレイバックシルクロード・第8集 「熱砂のオアシス」・イメージ紀行

 

 朝,目を覚まして窓を開けたら程なく日の出を迎える刻限でモスクのドームの向こうに昇ってくる太陽が,”いい絵”になりそうだ。
 朝食時間を気にしながらも,ねばって撮った数枚の写真のうちの1枚が左の写真。
 
 今日は,盛り沢山の予定なので涼しいうちに見学して暑い時間は,昼寝をしようともくろんで早めの出発だ。
 08:00 ホテル発
 中国で一番長い道路だという国道312号(上海からカザフスタン国境まで全長4,680km)を東へ向かう。両側にブドウ畑が広がる,10分ほどで高速の料金所を抜けるとゴビ灘地帯に入り左手にフレヤースタックがみえる。新疆で3番目の”トハ油田”である(トルファンの”ト”とハミの”ハ”で”トハ”)。
 右手には,カレーズの竪坑が数十m置きに並んでいるのが見える。深さは,この辺りのものは10mくらいだという。(Max。100m)

 08:25 左手に火焔山
  いったん通り過ぎるも,写真マニアのN氏から「写真を撮るのには,光線の具合が今の時刻の方が良い」との意見があり,引き返して下車する。
 道路わきの駐車場から写真を撮れるかと思いきや, ありゃりゃ! 駐車場は掘り下げられ地表面より低いレベルにして,かつ山側はコンクリートフェンスで囲んである。眺望はまことに悪い,わざと悪くして,金20元を払わざるを得ないようにした感じである。 つい最近になってこういう見学施設が出来たそうだ。
 観光客の来る所徹底して「カネカネ」っていう環境が,ついにトルファンまで浸透してきたか!

 地下通路をくぐって,とってつけたような展示物のある部屋を抜け階段を上がる。
ここからなら障害物無しで写真が取れるようになっている。ここにも有料の”ラクダちょっと乗り””ラクダと記念撮影”やおみやげ品の売り子がしつっこくまとわりついて来る。
 15・6歳くらいの少年から「ベゼクリク石窟」&「高昌故城」という写真が沢山載っている小冊子を買い求める。 (定価 12元×2 を
20元で)
 現実の山肌の色は,白茶けた色で,ちっとも赤くはない。写真集でよく見る赤い山肌は,雨水で浸食されたヒダヒダが影を造って夕日に赤く染まったもののようだ。
 下の写真は,パソコン上でカラーバランス調整で”赤み”を増したもの。実物はこんなに赤くは無い。
 

 火焔山
  トルファン盆地の北側に平均海抜500m・長さ100km・幅10kmに渡って連なる赤い山(ウイグル人はクズロダゴと呼ぶ)で,最高峰は,勝金口付近の標高851m。
 赤色砂岩で出来ているため山肌が赤く揺らめき炎のように見えるので火焔山と呼ばれる。真夏,岩肌の温度は80℃にもなるという。
 
 小説「西遊記」で,火焔山に行く手を阻まれた三蔵法師一行がその火を消せる芭蕉扇を手に入れるため孫悟空が鉄扇公主と戦ったという話が有名。

 更に10分ほど東に走り,国道から右にそれて両側がブドウ畑の脇道に入る。この辺りは,すべてウイグル族農民の居住区とのこと。アスターナ古墓群を過ぎてブドウ乾燥小屋が林立する少し大きな集落で左折し2km程で高昌故城入り口に到着。

 09:10~10:30 高昌故城 
 駐車場は,観光バスと,人・人・人・・・で大混雑。
売り子も大勢!この子達は中国語より日本語の方が達者のようだ,これらを払いのけ払いのけして,やっとゲートにたどり着く。

入場料 20元

 入場はしたものの,故城の中心部へ行くにはロバ車に乗らなければならないがこれまたラッシュアワーで15分ほど待ち,二組に分かれてお互いの車輪が巻上げる砂塵を避ける為に間隔を置いて出発。
砂埃をあげてロバ車を走らせるので帽子とマスクは必携。それにカメラはビニール袋に入れておくことが肝要。

 ロバ車は全部で18台がピストン輸送でフル稼働していた。

ロバ車20元/一人

ロバ車

 10分足らずで着いた所が1,600年前の高昌王国の寺院跡。
階段状の入り口を入ると正面に仏塔,右手に講堂(教経堂)跡。
いずれも泥を固めた版築および日干し煉瓦造り,屋根は残っていない,乾燥地帯なのでもともと屋根なしなのか腐朽してしまったのか 何れであるかは不明。
 仏塔は日干し煉瓦で修復されており外壁に四角い凹みがあり,ここに仏像が納められていたという。ドームをもつ建物・仏龕を持つ寺院の壁,階段式の仏塔・・・・・インドあるいはペルシャ風である。

仏 塔 左壁面の仏龕
(僅かに仏像の痕跡がみとめられる)

 仏像は,またしてもイスラム教徒と紅衛兵によって破壊されたという。
インドに行く途中立ち寄った玄奘が説法をしたというお堂もある。時の高昌国王麹文泰に3ヶ月近くも引き止められ、断食までして、仏教の生まれたインドにたどり着くことへの強い意志に感動した国王は、快く20年分の旅費・生活費や馬、西域の諸国への紹介状などを送った。これに感謝し、帰国時必ずまたこの国に立ち寄ることを約したが、15年後玄奘が訪れた時は既に高昌国は滅んでしまっていた。3乗を示した3ヶ月近くも滞在したという玄奘が説法をしたという。
 

講堂(教経堂) 内部(宗教関係者が訪れることが多いようだ)

 この高みからは,はるか彼方まで寺院・僧坊・民家・市場・作業所など今はただの土くれと化した荒涼とした光景が一望できる。
 近代のことではあるが,この都の建物は,わら入りの泥で作られているので近隣の農民にとっては,畑の容土や絶好の肥料となり破壊が更に助長されたという。

廃墟と化した建物群

 メモ 「高昌故城の豆知識」


○ 漢代に高昌壁と呼ばれた要塞が築かれたのがはじまり。
紀元前1世紀から13世紀の間,新彊における政治・経済・文化の中心地の一つであった。

○ 魏晋南北朝時代の漢人殖民国家の高昌国~唐の西域都護府~西ウイグル王国とそれぞれの時代の中心都城として栄えてきた。1275年 チンギス・ハンの遠征軍に襲撃され廃墟となる。
 
○ 東西2km,南北3kmの城壁で囲まれ外城・内城・宮城の3っに分けられていた(西安の形と同じ)。内部に王城址・景教寺院・マニ教寺院・仏教寺院など様々な遺跡が残っている。

○ 最盛期には人口3万人,僧侶3,000人が居たといわれる。

○ 1999.8.18 全国重要文物単位に指定。

 次に アスターナ古墓群を訪れる。
来た道を戻ってすぐに到着。

 10:35~11:15 アスターナ古墓群見学        
入場料 20元
 アスターナ古墓群は,西晋時代~唐代(AD200~800)の高昌国の豪族達のの墓で,アスターナ村とカラホージャ村の10k㎡の広さに600基余りの地下壕の遺跡が分布している。今世紀初めカレーズ堀りの農民が発見したそうだ。
 これら墳墓には,高昌国の歴史に大きな影響を与えた人々(例えば,国王一族・政府の要人・軍司令官など)が埋葬されており地下ミュージアムとも呼ばれている。

 1959年以来400もの墓が発掘され大量の絹地・彫像・陶器・壁画・絵画・文書など1万点余りが出土されトルファンの歴史を解明するのに貴重な資料を提供した。

土饅頭型の古墓群

 すべての墓は,
斜道と地下の墓室をもっているのが特徴的である。見学可能な墳墓は3基だけ。
 シーズン中はかなりの観光客が訪れるので狭い墳墓を見学するのに待ち時間が多くかかるそうだがわたし達が訪れた時は,他の日本人グループほか3グループのみであったので比較的スムースに3箇所を見ることが出来た。

 先ず入ったのが215号墓。
入り口の左右に耳室(副葬品などを入れるスペース)と呼ばれる小部屋がある,。
墓本体は,4m四方くらいの大きさだ。漢土南部出身の商人のお墓で木棺があるほか正面の壁には,アヒルなどの鳥や花・植物がいわゆる花鳥風月が描かれ,あの世で故郷の風景を楽しめるようにしてある。

 二つ目は216号墓(7~8世紀)。
張雄という高昌国の将軍の墓で儒教の教えを描いた壁画がある。左から「酒の容器」・「木人(正直)」・「金人(寡黙をあらわす)」・「石人(謙遜・謹慎)」・「玉人(無欲,修養)」・「葦の籠と絹織物・壷」が描かれている。ここも耳室がついていた。斜路の長さ31.26m,墓室角の深さ5.28m。

四賢人屏風壁画(新疆美影摂朮出版社「高昌故城」より)


 三番目は210号墓。 庶民の墓で夫婦2体のミイラが安置されていた。女性のミイラは病気で死んだのか苦悶の表情。

 ウルムチやトルファン博物館のミイラのほとんどは,ここアスターナ古墓群から発掘されたものだという。
 ここからの出土品の多くも,またしても各国の探検隊によって持ち出されている。大谷探検隊が採取したものは日本に,スタインが搬出したものはインドニューデリーの博物館の一室を満たしているという。


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