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1/26 熊野&臼杵石佛〜竹田〜長湯温泉

 まだ雨がぱらついて入るが,天気予報では午前中にあがると言う。昨晩は暗くなって着いたので分からなかったが宿の周囲一帯は自然林だ,露天風呂に入って鳥の声に耳を傾ける。
 8時50分出発。昨日パスした熊野磨崖佛を目指す。
 きのう,通った道なのです〜いす〜いと到着。

熊野磨崖佛  くまのまがいぶつ
国指定史跡・国指定重要文化財
[拝観料 200円]

 駐車場のすぐ上にあるのが胎蔵寺(たいぞうじ),磨崖佛に行くには駐車場から約300m(約15分程度)急な坂道を登る。上り口に杖が置いてある(無料),杖をつくほどのこともあるまいと無視。
磨崖仏近くには鬼が一晩で築いたと言われている99段の大小不揃いの石が乱積みされた石段がある。う〜ん!ここは杖があった方がいいかもしれない,手すりがあるので助かる。
 
 途中でわたし達よりいくらか若そうな夫婦連れが追いついてきた。ツーショット写真を撮っていただき,どうぞお先にと,腰が悪いという妻はマイペースで登る。

 息を切らして登り切って,左方の巨岩 壁に刻まれたのが日本一雄大な石仏熊野磨崖仏。さらにこの石段の頂上部が熊野神社奥の院となっている。ここは、六郷満山の霊場を巡る「峰入り」のスタート地点だという。
 
 そそり立つ崖の左手に高さ8mの不動明王像と高さ6.7mの大日如来像の2体が彫られている。
制作年代は奈良時代とも鎌倉時代とも言われており定かでない,国東を代表する見事な磨崖仏で国重要文化財と国史跡の二重指定を受けている。

 不動明王像
 
 像高 8m 顔は大きく鮮明な半肉彫りである。両目を突き出し牙をむいた憤怒の表情、腹部以下は刻み出されていない(崩れてなくなったという説もある)。何とも愛嬌のある顔だ,怖さとか威厳と全く縁の無い顔つきである。
 大日如来
 
 像高6.7m
 通常の大日如来に見られない螺髪である。端正な顔形・悠久の彼方を見つめているような静かな表情が印象的である。
 岩と一体となった表現はこの後で見る臼杵磨崖仏とはまた違った意味で日本を代表する磨崖仏といえる。
 二体とも集塊岩に刻み込まれている。
 鬼が一夜で 積み上げたという荒石積みの石段

赤鬼が築いた九十九段の石段の話〜〜!

 田染めの里の「熊野」には,そのむかしたくさんの鬼たちが住んでいて,里に出て来ては里人たちを捕らえて喰うので,大変恐れられていた。このことを聞かれた権現さまが里人たちの難儀を救ってやろうと,この山へ降りてこられた。
 権現さまは,早速鬼たちを呼び集めて,
「今から後,われわれがこの山を治めることにする。おまえたちは早々この山を立ち去るように。」と命じた。
 すると鬼の首領が,
「この山はわれわれ鬼たちが代々住み着いた場所だ。いくら権現様のいいつけでも,おいそれと立ち去ることは出来ない。」といって反抗しました。
 そこで,権現さまは,
「それほど言うなら仕方がない。ではわれわれと一緒に暮らすことにしよう。そのためには早速われわれの住む社を造らねばならぬ。お前たちにも力を貸してもらいたい。」というと,鬼はせせら笑って,
「社の一つや二つ造るくらい,われわれ鬼の力をもってすればわけないことだ。」といいはなった。
 そこで権現さまは,
「それなら,まず手始めに石段を築いてもらいたい。もし一夜のうちに百段全部を築くことができたら,今までどおり里に出て人間を捉えてくることを許してやろう。しかし,一番鶏が鳴くまでに一段でものこっていたら,そのときは無条件に山を下りてもらおう。」との約束をとりつけた。
 鬼たちは喜び勇んで,さっそく手分けして石段を築き始めた。何しろ怪力の鬼たちなので仕事は簡単だ。真夜中頃までには,もう八十段ほど築いてしまった。
 その様子を見ていた権現さまは,
「これは大変だ,何とか手段を講じなくては,このまままでは,夜の明けぬうちに本当に百段築いてしまうぞ。」と,三体頭をあつめて相談した結果,鶏を連れてきて,その尾を引っ張り、無理やり鳴かせた。
 その鳴き声を聞いた鬼たちは,
「しまった。一番鶏の声だ!」
と,あきらめて仕事を投げ出し,残念そうに後ろを振り返りながら,山を下って行ったのだった。
 石段は九十九段まで出来上がり,あと一段で完成するところだった。
 こうして出来た「熊野磨崖佛」までの石段は,鬼が熱心に築いたものであるので,現在でも崩れ落ちることがないのだという。

        
地域文化出版「神と仏と鬼と出会える 宇佐・国東めぐり」より
 

 これで,国東お寺めぐりをお終いにして,次の目的地臼杵に向かう。
 旅を終えてから見つけたんだけど,大分交通で一日定期観光ツアー「国東半島史跡めぐり」(毎日運行)というのをやっている。HPは「こちら」, コースの概要をビデオ映像でも紹介しているよ!

 臼杵石佛までは宇佐ー別府道路〜大分自動車道〜東九州自動車道を経由しておおよそ2時間弱,自動車道に入るまでカーナビが指示する道順とわたしの予定した道路が違ったのでちょっと戸惑ったが,がら空きの高速道路を飛ばして難なく到着。

臼杵石佛   うすきまがいぶつ
国宝
[観覧料 530円]

 駐車場で車から降りると,寄ってきた人が「臼杵石仏の発掘資料等を展示している臼杵美術博物館に寄って行きませんか,臼杵石仏との共通券で700円,お得ですよ」と言う。「あまり時間が取れないので結構です」と断る。
 チケット売り場で観覧料530円を払って入場(消費税5円分ちょろまかされている感じがする)。   
 
 臼杵市深田の里にある「臼杵石仏」(臼杵磨崖仏)は,全部で五十九体からなり,1955年6月15日に石仏としては我が国ではじめて「国宝」に指定された。
 この石仏を誰が,いつ,何のために彫ったのかさまざまな説があり定かではない,ただ造顕年代は美術史的見地から平安時代後期〜鎌倉時代にかけて彫られたと考えられているという。

 古園石仏・山王石仏・ホキ石仏第1群・ホキ石仏第2群の四群から成っている。59体の磨崖仏が広い範囲に在り,創建時には大規模な寺院があったらしい。

 臼杵の石仏は,阿蘇熔結凝灰岩という軟質の岩に彫られているため風化しやすく,永い年月の間に亀裂が入ったり,剥落したりカビが生えたりするなど傷みがひどくなっていたので,1980年から1994年までの14間かけて保存修理工事が行われ,さらに各磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置されたとのこと。

熔結凝灰岩【ようけつぎょうかいがん】というのは,高温の火山灰が大量に厚く積もり,その内部の熱で再び融けて再結晶固結した岩石のこと。 火山灰が固まった凝灰岩より堅いが,通常の岩石に比べ軟らかく加工がしやすい反面,雨風による風化・浸食を受けやすい。大分県に石仏などの彫刻が多いのは彫りやすい熔結凝灰岩地帯であることも一因であると思う。

 まずはホキ石仏第二群へと歩を進める。さらに上に少し登るとホキ石仏第一群である。多くの石仏が並んでいる,ひとくちに臼杵の石仏と呼ぶが,こんなに多くの石仏が存在しているとは知らなかった。
 ボランティアの方が観光客に説明しながら一緒に廻るサービスをしている,一緒に説明に聞き入る,また人が訪れるとセンサーが感知して石仏の説明アナウンスが流れるというサービスもしている。

 阿弥陀三尊  【ホキ石仏】第二群第1龕
 
 正面…阿弥陀如来 左…勢至菩薩 右…観音菩薩

 中尊阿弥陀如来像は臼杵石仏で最大の高さ約3mを誇り堂々とした量感にあふれ,毅然とした表情に彫技の冴えが感じられる。
 地蔵菩薩半跏像と十王像  【ホキ石仏】第一群第4龕

 唯一着色されている石仏
 中尊に地蔵菩薩をすえ,冥府にあって亡者の罪を裁き救済する十王像を左右に5体ずつ配置している。
 地獄か極楽か,行き先を決定するのは普通は閻魔(えんま)様だが,ここでは地蔵さんと珍しい形となっている。
 左右の10体の王たちが人間の死後の裁きをつかさどる裁判官で,道服の服装をして両手に笏を持っている。
 如来三尊像  【ホキ石仏】第一群第1龕
  
 中尊…大日如来 左…阿弥陀如来 右…釈迦如来

 第一龕から第三龕まで如来三尊像が3体(合計9体)並んでいる。
 台座には願文や経巻を納めたとされる丸や四角の穴が開いている。 彫刻方法も凝ったものから簡素化されたものまで,それぞれ仏像の表情が違う。

 この後,少し奥まった所にある五輪塔を見て戻る途中,足を滑らして右手指を怪我するもバンドエイドで処置,事なきを得る,持っていたデジカメを2,3m転がしてしまったがこれも無事であった。

 【山王山石仏群】では,広い龕の中央に童顔でおだやかな表情の釈迦,薬師,阿弥陀如来を拝む。 殆ど丸彫りに近い如来で親しみのある顔をしている。
 故安井曽太郎画伯はこの石仏をひどく気に入り「各所を回ってきたがいまだかつてお目にかかったことがない童顔相。おそらく天才の手によるものだ」と激賞したそうだ。

 山王山石仏から少し下って右方向に緩やかな坂を登った所が,臼杵磨崖仏のシンボルともなっている大日如来のある【古園石仏群】である。
 ここに最も有名な例の仏頭の復位問題でゆれた大日如来像がある。
 古園の石仏群の体半分は,熔結凝灰岩より更にやわらかい凝灰岩部分にあり,腰部分から下が侵食・崩落して形がないものが多い。

 【古園石仏群】

 古園石仏群の全景。
 大日如来像を中心に左右に如来・菩薩・天部・明王が配置されている。
 1,5,9月に特別祈願法要が行われ,御祈願用紙に書いて投函すれば法要祈願を行って呉れると書いた看板があった。縁結び・合格祈願に加えて”リストラ除け”があったのは世相を反映していると恐れ入った。
 大日如来像(拡大) 【古園石仏群】

 「臼杵石仏」の象徴といってよい石仏で,近年まで転落した頭部が前の石壇に置かれていた。
力強く厳しい,気品のある顔が印象的である。
 ホキ石仏群を望む

 屋根を作り雨による浸食を防いでいる。
像の岩盤上部には凸状のアスファルトまたはラバー材(推定)で雨水が斜面を流下しないように保護したり,崩れそうな岩盤をアンカーボルトで固定したり固化材を注入したりしているようだ。
 よくぞ平安時代からの姿を保っているものだと感心することしきり。

 石仏群を見終わって戻る途中,無人ボックスで農産物を売っていたので物色,”かぶのカボス漬け”と”白菜”をゲット,大変美味しかった。
 "石仏の谷ギャラリー"というのがあって,発掘・復元作業や保存作業の状況,著名な訪問者などの写真が展示されている。臼杵石仏を世に出すきっかけをつくったという湯川秀樹博士の実父京都帝大教授小川琢治理博の事なども掲示されていて必見である。

 駐車場脇のお土産屋兼食堂で昼食。

アジ寿司 だんご汁 敦煌市と友好都市記念碑
 「今朝獲れたアジが入ってますよ〜」という声につられて関アジ定食。アジ寿司とだんご汁と臼杵の伝統的郷土料理の黄飯(くちなしの実で炊いた御飯)
 おいしかったあ〜  o(^-^)o
[一人前1580円]
  時代が違うけど,ここの磨崖佛の方が”敦煌莫高窟”より技量的には上だなと思いながら戻る途中の道脇で見つけた。

 腹ごしらえが終わって一休み,妻はこの店で焼いているという陶器皿を値切っている,やれやれまた荷物が重くなるのにレンタカーを返してからどうするんの?知らないよ〜。
 竹田市までは国道502号の一本道で60数km,2時間弱くらいだろうか。ゆっくり走って今日は岡城跡だけ見ることにする。竹田へ向かう。


岡城跡
国指定史跡
[観覧料 300円]

 駐車場についたのが4時ちょっと前,いそいで見学しないと昨夕の二の舞になる。
 観覧料(300円)を払うと,観覧券とともに巻物風の案内書がついてくる,城内の観光スポットごとにあるカセットテープによる説明と共になかなか好感の持てる観光客対応をしてくれる。
 
 大手門跡から城内に入ると,う〜ん 広い!でも石垣のみで旧来の建造物は何もなくこの時期,この時間 人っ子ひとり居ないこともあってか何か侘しささえ感じさせられる。
 明治の廃藩置県のあと「大分県」が「岡城」を”入札”により購入し,全ての建造物を取り壊して「岡城」が「岡城跡」になったんだという。国指定史跡になろうかというものをどうしてぶっ壊してしまったんだろうか?理解できないなあ〜。

 岡城の歴史などを「案内書」から抜粋すると

  
 岡城は、文治元年(1185)に緒方惟栄が源頼朝と仲違いしている義経を迎えるために築城した。14世紀に入って大友氏一族の志賀貞朝が改修して以来,志賀氏の本城として続く。
 この城を有名にしたのが,天正14年(1586)に島津氏の大軍に攻められて,志賀親次以下の奮戦によりこれを撃退したこと(豊薩戦争)。

 大友義統改易後,文禄3年(1594)に播磨三木城より中川秀成が7万石で入城する。
石垣や建築物が大改修され,本丸には三重の天守が建てられ大手門なども新設され近世城郭の形が整えられた。
 中川氏は明治2年の版籍奉還まで13代277年間統治。
 明治4年11月から翌年春にかけて城は城壁の一部を残して取り崩された。
 昭和11年12月16日,国指定史跡に指定された。
 
 現在は建築物等は一切残されていないが,見事な石垣が折り重なるように聳える様相は正に名城の名に恥じない堂々とした姿である。
城の広さは234,000平方m,高さは海抜235m,稲葉川と白滝川に挟まれた台地の形が牛の寝ている姿に似ているので別名「臥牛城」とも言われる。

 古大手門へ至る急な石段 
 
 非常に美しい石垣が迎えてくれた。
大手門と本丸周辺の石垣群には唸ってしまう。
 営々と人間がつくってきたあれこれと,眼下にひろがる阿蘇の溶岩台地とそれを刻む白滝川(南) 稲葉川(北)が織りなすおおらかな自然との見事な調和に思いをはせる。
 二の丸と三の丸の石垣
 
 岡城といえばこの写真 二の丸,三の丸の石垣は切り立った崖の上にたつ,この石垣を作った当時の苦労がしのばれる。写真ではこの石垣の凄さがうまく表現できないのが残念。
 太鼓櫓門跡石垣

 「本丸」「二の丸」「三の丸」で構成された中枢部への唯一の出入り口が太鼓櫓門で,岡城内でも最高の技術をもって作られているそうだ。
本丸跡からの北方九重連山の眺め

 豊後竹田は作曲家滝廉太郎が少年時代を過ごしたところ,二の丸跡に廉太郎の銅像が建っている。
 荒れ果てた岡城が名曲「荒城の月」のモデルになったのは,さもありなんと納得。 散策していると”荒城の月”のメロディーが聞こえてくるように感じる。

 夕暮れが迫る中,ほかに誰一人いないしずかな城跡をゆったりした気持ちで後にした。


長湯温泉 国民宿舎 直入荘        
[宿泊費(夕朝食入湯税込)一人7500円]
 
 さあ〜て 今日は日が落ちないうちに宿に着こう,路面の凍結も心配だから。

 今夜の宿がある直入町へは国道47号線で15,6km,30分もみれば十分だろう。
ちょっとした峠越えがあり,道路わきには雪が残っていて路面がぬれた状態であった。夜間・早朝はきっと凍結するだろう。早く宿に入ると言う方針は正しかった。

 竹田出身の元職場の先輩Eさんに,幾多の文人が定宿にしていた老舗旅館を薦められていたのだがインターネットで簡単に予約でき風呂も立派だと聞いていた国民宿舎[直入荘]を予約した。

 今回,長湯温泉を選んだ最大の理由は日本でも珍しい炭酸泉であるからである。
長湯温泉は九重山系の東の麓,直入町にあり,湧出量,二酸化炭素含有量,温度から日本一の炭酸泉と称されている。これよりやや西北方の久住町にある七里田温泉もこれに優る炭酸泉と聞いているが竹田からのアプローチのし易さで長湯とした。

 ここの宿泊客も私達を含めて4組5人だけ,館内はひっそりしている。おかげでお風呂はゆっくり,のんびり入れた(妻は貸切り風呂同然だ!)。

 
 泉質はマグネシウム・ナトリウム炭酸水素塩泉 2本の源泉があり泉温は43.3℃と32.6℃,当然かけ流しである。
 浴槽の温度はやや温め,薄乳濁褐色,無臭,飲むと炭酸味と渋いエグ味が残る,ラムネの味だ!
 10分くらい入っていると,上がってからも身体がホカホカしてくる。
    国民宿舎直入荘

 九重山から流れ下る芹川沿いにある。
 手前の六角屋根の建物が風呂場
 

さて,ここで炭酸泉に関するウンチクを披露しよう

   炭酸泉って?
 
炭酸ガスが含まれているものを炭酸泉と呼ぶ,ひと言で云えば「ラムネのお風呂」ってこと。日本国内ではあまり聞きなれない炭酸泉。それもそのはず日本にはこの炭酸泉が非常に少ない。
 なぜか?
 炭酸泉は火山活動末期の地帯に多く,地中の有機物の分解などで生じるため比較的湯温が低いところに発生し易いと言われている。しかし日本は活火山地帯に属し,しかも湯温が高い源泉が多いため炭酸泉が少ないということになる。
それに反してヨーロッパでは炭酸泉が数多く存在し,しかも高濃度(1000ppm〜3000ppm)のものが集中している。

  炭酸泉の効用
 
 ・ 炭酸ガスが皮膚を通して毛細血管に直接働きかけ血管を広げるので血液の流れが良くなり腰痛や神経痛などの痛みを和らげる効果がある。

 ・ 炭酸ガスが自律神経系に作用し心拍数を下げ,血圧も下げる効果があり糖尿病による手足のしびれや高血圧も和らげてくれる。(ドイツでは炭酸泉を心臓の湯と呼んでいる)

 ・ 飲むと,
   炭酸ガスには胃腸を刺激し,腸の蠕動を促したり水分排泄を促す働きがあり,これにより女性の大敵である便秘を解消することができ,また利尿効果やむくみ解消も期待できる。
    痛風・糖尿病・肝臓病・胆石・慢性消化器病に効果ありとされている。
    ヨーロッパではミネラルウォーターにガス入りというのがある,炭酸入りのミネラルウォーターのことだ。ドイツなどでは炭酸水製造機まで備えている家庭もあるくらい,たいへん炭酸水が好まれているそうだ。

  日本の炭酸泉温泉 

    ○は,わたしのおすすめ温泉
泡の湯温泉 山形県西置賜郡小国町 炭酸鉄芒硝食塩泉,含鉄炭酸石膏食塩泉
大塩温泉 福島県大沼郡金山町 炭酸水素塩泉
磯部温泉 群馬県安中市 炭酸水素塩泉
妙義温泉 群馬県群馬群妙義町 炭酸水素塩泉
代山温泉 長野県木曽郡木曽福島町 炭酸水素冷鉱泉
灰沢温泉 長野県木曽郡上松町 炭酸水素冷鉱泉
釜沼温泉 長野県木曽郡三岳村 炭酸水素塩泉
稲子温泉 長野県南佐久郡小海町 炭酸泉
湯屋温泉 岐阜県益田群小坂町 単純炭酸泉
花山温泉 和歌山県和歌山市 炭酸水素塩泉
小屋原温泉 島根県大田市 炭酸水素塩泉
三瓶温泉 島根県大田市 炭酸水泉
頓原温泉 島根県飯石郡頓原町 炭酸水素塩泉
柚木慈生温泉 山口県佐波群徳地町 炭酸水素塩泉
阿蘇野白水温泉 大分県大分郡庄内町 単純炭酸泉
長湯温泉 大分県直入郡直入町 マグネシウム・ナトリウム炭酸塩泉
七里田温泉 大分県直入郡久住町 マグネシウム・ナトリウム・炭酸水素塩泉
コスモス温泉 宮崎県小林市 炭酸水素塩泉
サンフラワー温泉 宮崎県西諸県高原町 炭酸水素塩泉
新川温泉 鹿児島県姶良郡牧園町 炭酸水素塩泉


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