■ ツクチェからコバンへ
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朝日に輝くRuwachaur Himal
標高3000〜4000m級の山並みである。 |
朝6時,村のゴンパからお祈りの読経の声が聞こえてくる。
屋上に出るとまだ暗い。気温は7.6℃ 意外と冷えてはいない。
しばらくすると,ダウラギリから東に伸びる尾根からRuwachur Himalにかけての山並みが明るくなってくる,続いてニルギル(日の出る方向と全く逆の位置にいるので山影が浮かび上がってくる感じで”朝焼けのニルギル”というわけにはいかない)
皆起き出して来た。明けていくヒマラヤの山々の美しさにしばし時を忘れる。
KUさんから カリガンダキ地域の家屋の建築様式についての「にわか講義」あり。
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この辺りの建物の屋根は,乾燥地帯なのですべて陸屋根である。
屋根は,まず丸太を渡しその上に粗朶を敷き粘土を載せる,更に粗朶と粘土を交互に重ねて出来上がる。したがって屋上を歩く時は,必ず敷石の上を歩くこと(粘土の上を歩くとひびが入ることがあるので)。粘土は,山の斜面に横穴を掘り薄い粘土化した層を採取して加水粉砕したものを使用するという。
ジョモソン地域より北の家屋の壁は,版築で出来ているがマルファ以南は石積み形式である。同じ乾燥地帯でも雨量の多寡が建築様式にこれほどはっきり現れているのは面白い。近年,地球温暖化の影響なのか,モンスーン気候の地域が段々北上しているようで,ツクチェ周辺の植生も以前より濃くなっている。建築様式も変化していくものと思われる。
わたしが気がついたこと: 同じ石造でも,ポカラ辺りでは塊状の石を乱積みして目地はモルタルだが,この辺りの家は薄い岩片をていねいに重ねて目地と言うより間を泥で充填している。 この違いは,この地域が乾燥地帯であることと,石材が片岩とか片麻岩など扁平な岩石が多いということにあると思われる。 |
朝食は,ゆで玉子2個・お粥(美味しかったあ〜 o(^-^)o)・りんごパイ・ミルクティー。
さて,今日はTukuche(ツクチェ)からKhobang(コバン),Larjung(ラルジュン)を通ってBhurjonkot(ブルジョンコット)に建つロッジ・タサンヴィレッジ(LTV)へのショートトレッキングである。
ツクチェから”カリガンダキ”の河原の中を左に”ニルギル”,右に”ダウラギリ”を見ながらの約4km,あっという間に着いてしまう。
木彫りの装飾が施された窓枠が美しい家屋が並ぶツクチェ村のメーンストリートを100mほど南下して左折。
横小路の片側は河岸段丘上の畑地になっていて,すべて石垣で囲まれて牛・馬・山羊などに作物が喰われないように防護してある。
河岸の手前で突き当たり右折するとカンニ(仏塔門)と長いマニ(経文塚)がある。
この通りは通称マニ通りと呼ばれる旧道である。このマニは河口慧海がツクチェ滞在中に彼の面倒を見たハルマン・カーンの父カビラージュが1906年に建立したと「遥かなるチベット」(根深誠)に記されている。
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ツクチェの町並み
ツクチェは1980年代後半ごろ,カリガンダキ上流のロー・マンタンの北チョセルの更にチベット国境寄りの自然堰止湖が決壊した際に発生した洪水で昔の道が流失して村のたたずまいが大きく変貌したと聞く。
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ツクチェの経文塚
随分と大きくかつ長い立派なマニである。
1906年創建とあるが,何度か造り直されているようだ。
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TUKUCHE DISTILLERY
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旧道を更に進むと左手に慧海が滞在した家が建っている。中庭を囲むようにして建つ3階建てのその家は大きくて立派である(慧海が宿泊していた時はこの4倍くらいの広さであったという)。 2階に上がって,慧海が生活したという部屋を見せてもらった後,客間で”揚げそば&ホップコーン”(写真右)でお茶をご馳走になる。
いまこの家は,ブランディーディストラリとなっていて,アップル,アプリコット,ピーチ,オレンジ,キャロットなどのブランデーを製造している。
アプリコットの小瓶(60rp)を買ったら同じ大きさのアップル製をサービスしてくれた。一つはその晩に処分,もう一つは家に持ち帰って飲んだが,なかなかいける味であった。薩摩焼酎より数段高尚な味である。もう少し買い込んで来ればと今頃悔やんでいる。(ただし,栓がいささか上等品なのでしっかりしたペットボトルに入れ替えてバッグに詰めた方がよさそうである)
さてこれから一時間ほどの河原歩きである。
ツクチェディストラリを出たところで,ロバが人数分の頭数待機していて,みんな「乗れ!乗れ!」と言うが,歩いた方が面白い,馬に乗ったら写真も撮れないではないか!まして高々1時間半くらいの”歩き”である。
結局,私とSU氏とKAさんだけ歩いていくことにした。
ツクチェ村を出るとすぐカリガンダキの河原の中の道である。
いまは乾期,水がどこを流れているのか見えないくらいだ。川幅数百mもあろうかというだだっ広い河原道を,ロバの隊商(カッチャ)が次々と上がってくる。時々行き会うトレッカーと「ナマステ」と挨拶を交わしながら遅れ気味のSUを気にしながらのんびり歩く。
進むにつれてダウラギリ主峰が視界に入るようになり,前方に雄大な東氷河を抱えるダウラギリ,後方にニルギリを眺めながらの豪勢な散歩であった。
カリ・ガンダキの水源は,8,000m級のヒマラヤ主稜線のさらに奥,チベット高原に続くタコーラ地方である。10数年ほど前に外国人に開放された秘境ムスタン王国に発する。
そこから8,091mの標高でそそり立つアンナプルナと標高8,167mのダウラギリの間を流れ下っていく川である。アンナプルナとダウラギリ,この二つの巨峰の頂きの直線距離はたったの35kmしかない。
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カリガンダキ河原を行く
Ruwachur Himal(中央の山は標高5,260m)を眺めながら河原を下る。正面右側の崖は,数年前に斜面崩壊を起こした石灰質砂岩・頁岩の「Annapurna
yellow formation」(古生代カンブリア紀)からなる。崖下のカリガンダキ川の水流による洗掘を防ぐため”蛇籠”による水制工と土留め工が施されていた。
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LTVからコバン,カリガンダキ川を望む
カリガンダキとは黒い川という意味である。いまは,広い河原をうねうねと蛇行しながら幾筋かに分かれて流下しているが,夏季豊水期には川幅一杯怒涛の如く流れるのであろうか。両岸に数段の河岸段丘が見られる。
ヒマラヤの上昇に抗して何十万年もかかって下刻作用を営々と続けて出来た先行谷である。
氷雪をかぶる山はニルギル,手前の集落はラルジュンとコバン,川の上流突き当たった辺りがツクチェ。 |
やがて道は右岸に上がり,「Nalajhan Syalam」,「Khanti」を過ぎて「Koban」に到着。
ここは,タカリー族が最初に住み着いていた場所で,斜面にトンネル状の家を作ったりしていて,ツクチェとは違った雰囲気の村の景観である。
■ 小・中学校訪問
コバンの村に入ったところで,乗馬組が待っていてくれて,これから村の学校を訪問するという。
この学校に,KU達は,かなり以前から教材などを贈ってきているという。今回もKAさんがノートや鉛筆などを持参して来ているとのこと。
校門を入ると生徒達が野原の花を摘んだ花束を手渡してくれ「ナマステ」と歓迎してくれた。
この学校(Jana Adarsha Secondary School)は10年制で,6才から15才までの生徒が学んでいる。小学一年生から高校1年生ということになる。生徒は135人,先生は17人,学校の年間予算は350万位(Rpだか円だか聞き逃した,Rpなら約700万円)。1〜5年生には政府から無償でノート・教科書が配布されるが,6年生以上は,自費購入だという。
教室は,一部屋25〜30uくらい,一学級8人から17人,粗末な長机に長腰掛,室内は少し暗いが生徒達の目は活き活きと輝いている。授業の途中なので教室はちょっと寄らして貰っただけ。
理科室だか図書室みたいな部屋に,顕微鏡やら地球儀,秤が陳列されている(ほとんど使用されてはいないように見えたが!),そのほとんどはKU氏が贈ったものだという。中に「文京六中」という布切れもある,当時の校長さんが訪れたと言うことである。
校舎はコノ字型石造2階建て,前に”ニルギル”,後ろに”ダウラギリ”を望む場所で,外来者にとっては羨ましいほどの景観のなかに建っている。
ひとまわりしたところで,KUさんが建物の不具合の相談を受けている。
「中央棟の一階の部屋の壁が湿気を帯びて傷みはじめている,同じく川側壁面が傾いている。なにか良い対策法は無いものか。」と。KUさん,後日検討して返事しますということ。
私の考えであるが,これは両方とも建物の背後(山側)から建物基礎部分を横切って流下する地下水が原因だと思う。
土間に30〜50cm位のトレンチを格子状に掘って,そこらにいくらでもある砂利で埋め戻して排水路を作ってやる(いわゆるグラベルドレーン),壁の傾きは,不等沈下によるものだ。これ以上の進行を止めるために,壁面下部に鉄筋か鉄パイプを斜めに打ち込む方法(ソイルネーリング),材料の入手が困難ならば,同じく壁面下部を数十cm間隔に抜き掘りしながらコンクリートを流し込んで置き換えていくという方法が簡単かつ安上がりだと思うがいかがなもんだろうか。
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